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『歴史研究会、川村一彦、101円~400円(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全224件

  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。
  • 大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。この結び付きから、31年(昭和6)には、軍部内閣樹立のクーデター計画事件である三月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃(けんじゅう)と資金を提供したため逮捕され、下獄した。37年に出獄したのちは、大川塾と称された東亜経済調査局付属研究所を開設し、研究要員の育成にあたるほか、著作活動に力を注ぎ、『日本二千六百年史』をはじめ数多くの著書を刊行した。45年(昭和20)12月A級戦犯容疑で逮捕されたが、巣鴨(すがも)収容中に精神障害をおこし免訴となった。なお、都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた。昭和32年12月24日死去。
  • 歴史の回想・

    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。
  • 歴史の回想

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して1941年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。
  • 歴史の回想

    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。
  • 歴史の回想

    東条英機・とうじょうひでき(1884―1948)陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山らと一夕会(いっせきかい)を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の1935年、関東憲兵司令官となり、1937年には関東軍参謀長となった。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。1938年板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、1940年7月第二次近衛文麿内閣の陸相に就任した。松岡洋右(まつおかようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。1941年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、1943年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、1944年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。
  • 歴史の回想

    西園寺公望(1849―1940)近代の政治家、元老。嘉永2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の次男として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明天皇に近侍。王政復古の際参与、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
  • 東郷平八郎(1848~1934)明治大正昭和期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士東郷吉左衛門,妻益子の4男,妻は子爵海江田信義の娘テツ。日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る。そのため多数の伝記があるが,日露戦争後から死去する昭和9(1934)年までの29年間は知られず,誤解されてきた側面が多い。明治4(1871)年から11年までイギリスに長期留学したが,その前までは非常なおしゃべりで大久保利通に注意されたことさえある。しかし留学中寡黙の人に変身,終生変わるところがなかった。異なる言語習慣に苦しんだ末の変質で,英国人の友人ができなかったのもそのためであろう。帰国後もっぱら海上勤務に従事,中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも珍しい。明治17年清仏戦争の際には「天城」艦長として仏・クールベ艦隊に従い,26年にハワイ政変が起こると浪速艦長として居留民保護に急行,日清戦争(1894~95)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し,33年義和団事件が中国に起きると常備艦隊を天津に集結させ,歴史的事件が起きるごとにきまってそこに東郷がいた。36年連合艦隊司令長官となり,日露戦争終結まで艦隊を指揮,38年5月27日から28日にかけて,日本海でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ,日本の勝利を決定的なものとした。38年軍令部長,42年軍事参議官となって第一線から退いた。大正2(1913)年元帥に列し,3年から10年まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力し,社会的重みを加えた。昭和4年先任元帥井上良馨が没すると言動が活発化し,5年のロンドン軍縮問題で艦隊派の精神的象徴となり,8年まで軍部の動向や政局の混乱に大きなかかわりをもった。
  • 山本権兵衛やまもとごんべえ(1852―1933)海軍軍人、政治家。名前は「ごんのひょうえ」ともいう。旧薩摩(さつま)藩士山本五百助の六男。嘉永5年10月15日生まれ。14歳で父を失い、16歳で藩主島津忠義に従い京都守護に任じ、戊辰戦争に従軍、のち昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮に学ぶ。この間、征韓論に会し西郷隆盛の説諭で学業に専心し、1877年(明治10)海軍少尉に任官。のち世界各地を周航、帰国後「高雄」、「高千穂」艦長などを歴任し、1891年大臣官房主事として縦横にその才を振るい、海相西郷従道の全幅的信頼を得て懸案の海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年海軍省主事、1895年少将として軍務局長に進み、日清戦争では実質上海軍機務を切り回して権兵衛大臣の異名を得た。1898年中将、海軍次官から、山県有朋、伊藤博文、桂太郎各内閣の海軍大臣を歴任して日露戦争の難局を突破し、この間大将に昇任、戦後功一級、伯爵の位を得た。1913年(大正2)の大正政変で第三次桂内閣が倒れたあと、立憲政友会と結んで第一次山本内閣を組織し、現役武官大臣制の改革などで業績をあげたが、翌1914年シーメンス事件で辞職、現役を退いた。その後1923年関東大震災の渦中で再度内閣を組織し、普選実現、行財政整理、日ソ国交回復などを公約したが、震災の事後処理に忙殺されるなかで、同年12月の虎の門事件で引責辞職した。陸軍=長閥の山県有朋に対し、海軍=薩閥の統領として対峙したが、昭和8年12月8日病没、82歳。
  • 五代友厚(1836~1885)明治時代の実業家。号を松陰。薩摩(鹿児島)藩の儒者五代直左衛門秀尭,母やすの次男。幼名徳助,または才助。少年時代には藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。安政1(1854)年父の死後,藩に出仕して郡方書役となるが,同4年藩命により幕府の長崎海軍伝習所に遊学,以後,明治1(1868)年まで主として長崎に居をかまえ,勝海舟,榎本武揚,寺島宗則,本木昌造,佐野常民,高杉晋作らと交遊し,トーマス・グラヴァーとも親交を重ね,開明的知識を養う。文久2(1862)年2度にわたって上海に渡り,薩摩藩のために汽船,武器を購入。文久3年,薩英戦争が起こると寺島宗則(当時松木弘安)と共に,英艦隊と交渉に当たるが,捕虜となり,横浜に拉致される。釈放後,武州,長崎などで亡命生活を送ったが,帰藩を許され,慶応1(1865)年薩摩藩留学生の引率者として英国に渡り,紡績機械,武器を購入し,またベルギー,フランスでは貿易商社設立契約や万国博への出品委託を行った。渡欧中,薩摩藩主に富国強兵に関する18カ条の建言書を送り,慶応2年帰国後は御用人席外国掛に任ぜられて,外国貿易,鹿児島紡績所の建設,長崎小菅修船場の建設,薩長合弁商社設立の計画を行うなど,薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに,諸藩の志士と交わる。明治政府成立後,参与となり,外国事務掛,外国官権判事,大阪府判事を歴任,大阪を中心として外交・貿易事務,造幣寮の建設にかかわるとともに,通商・為替会社設立などを契機に大阪経済界とも接触した。明治2年官を辞し,金銀分析所,弘成館(鉱山経営),朝陽館(製藍事業),大阪活版所,大阪製銅会社を設立。さらに阪堺鉄道,大阪商船,神戸桟橋会社の設立に関係するなど実業界に入った。また,旧来からの大阪商人の力を結集して,堂島米会所の再興,大阪株式取引所の創設,大阪商法会議所(現在の商工会議所)の設立,大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダーシップをとり,商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者となった。
  • 原敬(1856~1921)明治大正期の政党政治家。南部藩(岩手県)藩士原直治,リツ子の次男。本宮村(盛岡市本宮)生まれ。幼名健次郎。号は一山,逸山。明治4(1871)年南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが,学資に窮して受洗,7年神父エブラルの従僕として新潟に赴く。8年帰郷。分家して平民となり,9年司法省法学校に2位で合格。12年食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。同年郵便報知新聞社に入社,社説も執筆し,甲府の『峡中新報』にも寄稿。15年退社。同年立憲帝政党系の『大東日報』(神戸)主筆となり井上馨に知られる。同年末外務省御用掛,16年清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章と交渉。清仏戦争の記録は詳細,本省への報告は的確であった。18年在仏公使館書記官,22年帰国し農商務省参事官,次いで大臣秘書官。陸奥宗光農商務大臣に傾倒し,25年陸奥辞任に伴い辞職。同年陸奥外相に招かれて外務省通商局長,28年外務次官,29年朝鮮公使。 陸奥の死を機に30年官界を去り,大阪毎日新聞社に編輯総理として入社,翌年社長。新機軸により同社の発展に尽くした。33年伊藤博文の立憲政友会創立準備に参画,9月設立されると政友会に入り総務委員幹事長。12月星亨が辞任した逓相を継ぐが,34年6月内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり,36年5月まで務める。この間35年岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限に止めた。以後西園寺公望総裁を助け,桂と交渉して39年1月第1次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革,「政友会知事」の増加に努め,郡制廃止法案で山県系を震撼させ,内閣の柱石となる。第2次西園寺内閣と大正政変(1913)後の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内正毅内閣の準与党となり党勢を回復,大正7(1918)年9月政権を獲得。
  • 山県有朋(1838~1922)明治大正期の軍人,政治家で元老の筆頭格。父は長州(萩)藩士山県有稔,母は同藩士岡治助の娘松子。幼名は辰之助,狂介など。長州閥,陸軍の最長老で官界や警察にも絶大なる勢力を振るった怪物的人物だが,家庭的には恵まれず,母は5歳のときに病死,妻友子との間に3男4女をもうけたが,山県の死後も生きたのは次女のみであった。吉田松陰の松下村塾(萩市)に学び,21歳のとき藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加,文久3(1863)年奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となり,翌年英米仏蘭4国連合艦隊と交戦して負傷(4国艦隊下関砲撃事件)。明治2(1869)年西郷従道と共に渡欧。3年8月帰国直後に兵部少輔となり,数日後兵部大輔の前原一誠が辞任したため実質上明治維新政府軍部の最高首脳となった。4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県の実施と山県の兵部大輔就任が重なり,直ちに国軍の創設に着手,薩長土3藩の兵1万で親兵を組織するとともに,東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台を設置,ヨーロッパで数百年を要した兵権統一の大事業を一気に実行した。5年兵部省が廃止となり,代わって陸軍・海軍両省が設置されると,陸軍大輔に任じられた。以後,16年内務卿になるまで,陸軍卿(初代),近衛都督,西南戦争(1877)における征討軍参謀,参謀本部長など陸軍の枢要ポストをことごとく歴任した。 11年には参謀本部,監軍本部を設置して統帥権の独立(参謀本部を陸軍省から独立させること)を進め,軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と軍令(統帥)の区別を明らかにし,組織上天皇制軍隊の建設に努めた。同年「軍人訓誡」,15年「軍人勅諭」を発布し,「忠君愛国」精神を軍人に注ぎ,内面からの天皇制軍隊の実現も怠らなかった。18年第1次伊藤博文内閣で,はじめて軍務外の内務大臣に就任し,黒田清隆内閣でも引き続き内相を務めた。20年には官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行し,帝国大学出身エリートが官僚を独占する道を開いた。21年市町村制を公布(翌年施行)し,地方に対して国家権力の介入を容易にした官治的地方自治制度の成立を図った。22年12月~24年5月,第1次山県内閣では,23年まで内相を兼ね,全国
  • 渋沢栄一(1840~1931)近代日本資本主義の指導者。天保11年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘夷運動の志士であったが、1864年(元治1)一橋家に仕え、慶喜が将軍を継ぐとともに幕臣になった。1867年(慶応3)幕府の遣欧使節の一員として渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞した。1869年(明治2)新政府の招きで大蔵省官吏に登用され、井上馨大蔵大輔のもとで、重要な貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与した。この間『立会略則』を著して株式会社制度に関する知識の普及に尽力した。1873年退官、同時に第一国立銀行(第一銀行の前身。のち第一勧業銀行を経てみずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された)を創立して頭取に就任した。以後財界のリーダーとして目覚ましい活躍を示した。王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などをはじめ創立に関与した会社は枚挙にいとまがない。また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも精力的に努めた。さらに財界の思想的指導者でもあり、実業家は国家目的に寄与するビジネスマンでなければならない(「経済道徳合一説」)ことを絶えず強調した。1915年(大正4)渋沢同族株式会社を設立し、第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成した。翌1916年実業界の第一線から引退し、以後は主として教育、社会、文化事業に力を注いだ。
  • 岩崎弥太郎(1835~1885)明治期の実業家。三菱財閥の創設者。土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男で,弟は弥之助。母は美和。伯父の岡本寧浦の塾である紅友社で歴史と漢詩を学び,次いで江戸の儒官である安積艮斎の私塾,さらに高知城外の吉田東洋の少林塾で治国経世の理論を学んだ。安政6(1859)年に長崎に出張し,さらに慶応3(1867)年に藩営商社開成館の長崎商会に派遣され,艦船,武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社とわたりあい,事業家としての腕を磨いた。維新後の明治3(1870)年に開成館は九十九商会という私商社となり,3隻の藩船を利用して海運と通商を行い,三川商会を経て6年3月に三菱商会と改称したが,この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立した。7年に本店を東京に移し,8年に郵便汽船三菱会社と改称した。 佐賀の乱(1874)から西南戦争(1877)まで,西日本で相次いで起こった内乱や,征台の役(1874),江華島事件(1875)において,新政府の要請に応じて三菱会社の船で兵員と軍需品を現地に輸送し,政府軍の勝利に貢献した。その見返りとして三菱会社は政府の船の払い下げや委託を受け,10年には汽船61隻(国内隻数の73%)を所有して日本海運界の王座についた。この過程で日本国郵便蒸汽船会社,P.O.汽船会社(英国),太平洋郵船会社(米国)などの内外のライバルを撃破し,また大久保利通や大隈重信らの政府実力者と関係を深め,政商としてのし上がっていった。 しかし三菱の海運業の独占が高まると,これを非難する世論が高まり,三井が中心になって14年に東京風帆船会社を設立して三菱を追撃した。「海坊主退治」の世論のもとにさらに壱六年には共同運輸会社が創設され,三菱と同社は値下げを繰り返して死闘を続けた。西郷従道農商務卿が「三菱の暴富は国賊同様なり」と非難すると,弥太郎は「我を国賊と呼ぶか,政府が果してその方針ならば,我も亦所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼き払い,残りの財産は全部自由党に寄附せん。かくなれば薩長政府も忽ち顛覆するであろう」とやり返したという。しかし共倒れの恐れが強まったので,政財界首脳部の斡旋により両社は合併して18年に日本郵船会社が成立し,三菱の有力傍系会社になった。
  • 小栗忠順(1827~1868)幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続,同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され,翌年1月横浜を出航し9月帰国した。同年11月外国奉行,翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが現地解決を断念し帰府,7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動,尊王攘夷運動を朝廷,雄藩による幕政介入とみて抵抗,徳川慶喜,松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1(1864)年8月勘定奉行に復職,次いで軍艦奉行,翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ,横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始,また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対,討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行,翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや主戦論を建議。かえって遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住,閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み,世界の大勢にもほぼ通じて,しかも誠忠無二の徳川武士,……三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。
  • 明治時代の軍人、政治家。弘化4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖陸軍卿に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望と交互に政権を担当した(いわゆる桂園(けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬(はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗」と評したという。 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した
  • 井上馨(1836~1915)明治大正期の政治家。号は世外。萩(長州)藩士井上光享の次男。安政2(1855)年同藩士志道慎平の養嗣子となり,参勤交代に随行して江戸に出て,蘭学,砲術を学ぶ。万延1(1860)年小姓役となり藩主より聞多の名を賜る。文久2(1862)年高杉晋作,伊藤博文らと英国公使館を襲撃するなど攘夷急進派として活動。3年伊藤らと英国に渡航,開国の必要を悟った。翌元治1(1864)年萩藩の外国船砲撃の報を聞き急遽帰国,英国公使パークスと藩当局の調停に奔走した。幕府の長州征討に対しては武備恭順,勢力温存策を唱えた。慶応2(1866)年高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加。薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器,外国船の購入などに携わった。維新政権の成立にともない参与職,外国事務掛,九州薩摩総督参謀,長崎裁判所参謀,外国事務局判事,長崎府判事兼外国官判事,長崎府武器修理御用掛などを務めたのち,明治2(1869)年大蔵省に移り造幣頭。民部大丞兼大蔵大丞,大阪府大参事心得を兼ね,造幣事業の進展に努力した。その後民部少輔,民部大輔を経て4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。その後,先収会社(のちの三井物産)の設立など実業にかかわったが,8年元老院成立で議官となり,9年江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち,欧州出張。11年7月帰国して参議兼工部卿。12年外務卿(のち外務大臣)。 このあとの8年間は,条約改正と対朝鮮および中国問題が主な外交問題であった。また条約改正作業と関連した欧化政策がある。条約改正では以前の個別交渉方式を捨て列国会議方式をとり,法権回復を優先させようとした。壬午事変(1882),甲申事変(1884),清仏事変(1884~85)などの対外問題では脱亜主義ではなく日清提携をふくむアジア主義的な策をとった。20年本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。
  • 「榎本武揚の概略」えのもとたけあき(1836―1908)旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎、梁川と号した。天保7年8月25日、幕臣榎本武規(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆、福沢諭吉らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵。1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。
  • 松平慶永・春嶽(まつだいらよしなが)(1828―1890)幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(靭負(ゆきえ))、鈴木主税らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を推すなど、島津斉彬(薩摩藩)、伊達宗城(宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(のち14代将軍家茂)の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭はじめ、先の大名たちとともに謹慎処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。
  • 後藤象二郎(1838~1897)幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5年(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2年(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1年(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4年(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。
  • 小松帯刀(1835~1870)幕末の薩摩藩家老。薩摩藩喜入領主肝付氏の三男として生まれ、のち吉利領主小松清獣の養子となり、帯刀清廉と名を改める。1861年(文久元)島津側役となり、1862年家老。藩政改革に大きな影響力をもった大久保利通ら尊攘派青年藩士の組織組忠組の指導者となった。1862年久光の上洛に随従。1864年(元治元)の禁門の変の処理、1866年(慶応2)には薩長同盟の締結を果たした。翌年城代家老となり、薩土盟約を結び、将軍徳川慶喜の大政奉還の勧奨など、藩を代表して活躍していた。藩主島津忠義には倒幕出陣を説いて実現させ、王政復古・倒幕など明治維新の実現に寄与しした。1868年(明治元)には明治政府の参与、外国官副知事となった。
  • 岩倉具視(1825~1883)幕末・維新期の公家出身の政治家。権中納言堀河康親の次男、母は勸修寺経逸の娘俶子。岩倉具慶の養継子。周丸と称し、号は対岳、法名は友山。関白鷹司政通に認められて、1854年(安政元)孝明天皇の侍従。1858年日米修好通商条約の勅許阻止で公家88名の列参を画策。公武合体の立場から和宮降嫁を推進し、1861年(文久元)和宮に従って江戸に下った。そのため尊攘派から「四好二嬪」の一人として弾劾され、1862年辞官落飾し、洛中より追放、洛北岩倉村に潜居。「全国合同策」「天下一新策密奏書などで時勢を論じ、ひそかに廷臣や大久保利通など薩摩藩士らと交わって倒幕の秘策を練る。1867年(慶応3)許されて、復飾、参内して朝議を主導して、薩長討幕派と結んで「王政復古」の大号令を発した。新政府樹立直後から参与、議定・副総裁を歴任、議定書兼嗣相となり、新政府の中心人物となる。1869年(明治2)東京に移り、大納言となり、永世禄500石を下賜された。1871年外務卿、ついで右大臣となり、特命全権大使として岩倉遣外使節団を率いて、約一年10カ月間、米欧各国における近代国家としての制度、文物等の視察をした。1873年9月に帰国、復命し、留守政府の西郷隆盛らの征韓論に反対し、大久保、木戸孝允らと内治優先論を唱え、ために西郷・板垣退助ら留守居政府参議は下野し政府の主導権を岩倉ら外遊派が握った。よく1874年不満とした武市熊吉ら高知県士族らが岩倉暗殺を企てた赤坂喰違の変をで負傷。華族の同族的結集を図って華族会館を創設した。そのご自由民権運動を弾圧し、太政官大書記官井上毅に憲法制定基本方針「大綱領」「綱領」を起草させ、三条実美太政大臣に提出をした。明治14年の政変後は、皇室財産の確立、家族財産の保護、十五銀行、日本鉄道会社設立など、皇室とその藩屏として家族擁護に努めたが、1883年7月病没した。
  • 幕末

    横井小楠(読み)よこい・しょうなん生年没年:文化6年(1809)~明治2年(1869)幕末の儒学者。名は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。他に畏斎,沼山などと号す。肥後(熊本)藩士横井時直とかずの次男に生まれる。藩校時習館に学び天保10(1839)年江戸に遊学。14年ごろから長岡監物,下津休也,荻昌国,元田永孚らと『近思録』会読を始め,真の朱子学即ち実学を目指した。また私塾小楠堂で弟子を教えた。門人には嘉悦氏房ら藩士子弟と共に徳富一敬(蘇峰らの父)のような豪農の子弟がいた。嘉永4(1851)年上方から北陸を遊歴,越前藩との接触が深まり,翌5年同藩から求められ『学校問答書』を書き,学政一致の道徳政治の担い手たることを藩主に求めた。またペリー来航後書かれた『夷虜応接大意』では,日本は「天地仁義の大道」に基づき「有道」の国と交際すべしと説く。安政1(1854)年兄の死により家督を相続。5年越前藩主松平慶永(春岳)から師として招かれ,藩政を指導し富国策を実施し,その経緯を『国是三論』に著す。文久2(1862)年幕府の政事総裁職に就いた春岳の政治顧問となり,参勤交代制の廃止など幕政改革を推進した。同年末,肥後藩江戸留守居役吉田平之助宅で酒宴中刺客に襲われ福井に戻る。翌3年朝廷,幕府,諸藩さらに外国人代表をも集めた大会議を領導すべく,越前藩挙藩上洛策を指導するも失敗,熊本へ帰り士籍を剥奪され,沼山津に逼塞したが思想的活動は衰えなかった。その思想は儒教的理想主義による政治革新と儒教的主体による東西文化の統合の構想など注目すべきものである。明治1(1868)年4月新政府に招かれ上京,徴士参与に任ぜられたが,尊攘派志士に暗殺された
  • 桂小五郎(木戸孝允)(1833~1877)明治維新の最高指導者のひとり。大久保利通、西郷隆盛と並んで「維新の三傑」に数えらえる。維新政府の指導者として立憲制度を始め明治国家体制を構想した。長州藩の藩侍医和田家に生まれ(のちに燐家の桂の養子となった。小五郎と命名された。青年期に剣術修行のために江戸に滞在中、ペリー来航を目の当たりにする。この事件をきっかけに幕末政治に強い関心を抱き、まず西洋砲術や造船技術、オランダ語などを学んだ。一方、水戸学の影響かのもと志士として活動し、長州藩と朝廷及び他藩とを結ぶ外交活動に従事した。現実政治に深くかかわるにつれて彼の思想の観念性を脱して、次第に現実味に即したものに変わった。しかし1864年(元治元)の蛤門の変で長州藩が敗れると彼は但馬に逃れ、いったん政治の世界から遠ざかる。やがて同志である高杉晋作が長州藩の指導権を握ると、呼び返され、木戸と改名され長州藩の主導者として幕末政治に復帰。藩政改革や近代化政策を実行するとともに、坂本龍之介の仲介で仇敵あった薩摩藩と幕府打倒薩長同盟をを結び、明治維新を実現した。維新後は、木戸の課題であった中央集権国家を形成するために、版籍奉還、廃藩置県の断行に向けて政府をリードした。この間に、新政府に権力を集中するために朝鮮出兵を主張したこともあった。1871年(明治4)から岩倉遣外使節団に参加して欧米各国を視察し、近代国家の各側を観察した。帰国後、征韓論争大久保利通らとともに内政優先を唱えてて政府内に実権を握り、長州藩閣のリーダーとなった木戸は薩摩藩閣のリーダーである大久保と対立し、主導権荒層に敗れて晩年は不満を抱き鬱々の後を過ごした。
  • 島津斉彬(1809~1858)幕末の薩摩藩主。島津家28代。父は27代島津斉興、母はとり藩主池田治道の娘弥姫。幼名邦丸、後に又三郎忠方。曾祖父重豪の影響を受けて、幼い頃から洋学に関心を示した。早くから西洋列強のアジア進出に危機感を抱き、本格的な西欧の科学技術導入を主張、水戸の徳川斉昭や老中阿部正弘、蘭学者川本公民・箕作阮甫らと親交を結び、公民らに数多くの蘭書を翻訳させた。藩内外でその人格と世界的見識が高く評価され、藩主就任を待望されていたが、斉興や家老調所広郷は斉彬が財政を破綻させるのではないかと危惧して、家督を渋った。こうした状況下、斉興の側室由良たちがその子久光を擁立しょうとしているという風聞が広まり、斉彬擁立派が激高して由良らを暗殺を企てたが、1849年(嘉永2)この計画が露顕し、首謀者の高崎五郎衛門ら多くの藩士の切腹・遠島・謹慎などに処せられた。このお家騒動で斉彬は一時窮地に立たされたが、老中阿部正弘らの後押しで1851年藩主に就任した。襲封後は、まずは鉄製砲の鋳物と洋式船の建造に着手。1852年には鉄製砲を鋳物するための反射炉の建設を鹿児島郊外に磯で始め、1854年(安政元)には洋式軍艦昇平丸を、翌1855年には蒸気船雲行丸を完成させた。その他ガラス工場などを次々築き集成館と名付け、集成館を中核に集成館事業という、富国強兵・殖産興業政策を推進した。ペリー艦隊来航を機に外交問題が表面化してくると、老中阿部を補佐し積極的に幕政に関与していった。阿部らとともに一橋慶喜を将軍継嗣に擁立し南紀派と対立していった。1858年南紀派の井伊直弼大老が就任すると、斉彬ら一橋派の敗北が決定的になり、帰国中の斉彬は西行隆盛に密命を与え上京させたが、その直後7月8日軍事演習中に倒れ8日後に病没した。
  • 高杉晋作(1839~1867)幕末期長州藩の攘夷・討幕派の志士。長州藩高杉小忠太の長男として長門国萩に生まれた。名は春風、字は暢夫、号は東行。変名も多数。藩校明倫館に学んだが飽き足らず、吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞とともに松門の双璧とされ、松陰はその「識」を高く評価した。1862年(文久2)上海に行き西洋列強によって半ば植民地化されている実情を見、対外的防衛がの必要性を強く感じた。帰国後は、イギリス公使館焼き討ち事件などを、いわゆる「狂挙」を行った。この「狂挙」は陽明学の概念で、理想主義という語感に近く、冷静な計算のうえでの行動であることを留意すべきある。1863年6月奇兵隊を結成し、その初代総管となる。1864年(元治元)四国連合艦隊下関砲撃事件に際しては和議の交渉にあたった。その後第一次長州征討の中で保守派に握られたが、12月下関で決起し、翌年、保守派を破って藩の主導権を奪い返した。幕府軍に備えて挙藩体制を固めた。1866年(慶応2)の薩長戦争で小倉口戦で活躍したが、翌年病死した。
  • 山内容堂(1827~1872)土佐藩主、幕末四賢君の一人。分家山内豊著の長男。1848年(嘉永元)中継ぎ養子として15代藩主として就任。1853年、ぺリ^来航を機に吉田東洋を抜擢、海防強化政策に着手。将軍継嗣問題では一橋擁立派にくみしたため、大老井伊直弼に圧迫され隠居、謹慎、以後容堂はを名乗った。1862年(文久2)謹慎を解かれ、公武合体路線の一橋慶喜・松平春嶽(慶永)らと幕政改革、公武周旋尽力。土佐へ退去しして、旧吉田派を復権させ主張する武市瑞山らを中心とする(勤王党)を弾圧、殖産政策、軍部充実政策を推進した。1867年(慶応3)7月、後藤象二郎の進言を採用し、幕府に大政奉還を受け入れさせた。維新政府の議定内国事務局総督、刑法官知事、学校知事、制度寮総裁、上局議長を歴任、1869年(明治2)7月、麝香之間祗候の優遇を受けて隠遁した。
  • 中岡慎太郎)1838~18867)幕末土佐出身の尊攘・倒幕の志士。土佐国安芸郡大庄屋の長男。剣術を武市半平太に就き修行、1861年(文久元)土佐勤王党にに加盟。翌年隠居山山内容堂の護衛隊50人組に参加、その後容堂の公武合体路線に疑問を深める。土佐勤王党弾圧時事には七卿落ちの実情調査に長州三田尻へでていたために捕縛を免れたが9月脱藩して石川清之助と変名。1864年(元治元)7月、来嶋又四郎の遊撃隊に属して蛤御門の変に参戦、負傷して三田尻に帰還。真木和泉亡き後の忠勇隊の総督に任じられ、五卿の警固にあったた、高杉晋作の奪権闘争を間近に観察。また土方久元らと筑前大宰府に移った五卿の庇護に奔走、土方とともに薩長和解・連合を構想し、坂本龍馬らと共同して1866年(4月2)正月にそれを達成。翌年に4月脱藩を赦免され、5月に土佐藩討幕派の乾退助と提携して薩土倒幕密約を西郷隆盛らと結び、土佐藩の支援を取り付け浪士の集合体である陸援隊を組織。一挙に藩を倒幕路線の誘おうとしたが、同年11月15日、京都三条近江屋で坂本と密談中を幕府見回り組に襲撃され17日に落命した。
  • 島津久光(1817~1887)29代薩摩藩主島津忠義の実父。幼名晋之進、後又次郎忠教、三郎と称した。父は27代斉興。母は側室由良。島津忠公の養子になって重富島津家を継ぐ。1858年(安政5)異母兄斉彬が急死、その遺言により久光の長男忠義が家督を継承して薩摩藩主となったため本家に戻り、忠義の後見役となって藩の実権を握り、国父と呼ばれた。斉彬の遺志にを継承して公武合体論を唱え、大久保利通ら藩内の攘夷派を諭して突出を押さえた。1862年(文久2)には藩内攘夷過激派を弾圧(寺田屋事件)。この時に命令を背いた西郷隆盛を流刑に処した。さらに同年、勅使大原重徳とともに東下し、幕府に改革を迫った。その帰途に、供の藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)。翌年にはこれが原因となって薩英戦争が勃発した。1864年(元治元)の参与会議では、長州処分・横浜港問題を巡って徳川慶喜と対立。事態打開のために西郷隆盛を呼び、第一次長州征討、薩長同盟締結、第二次長州征討などにあたらせた。この間に藩論を王政復興後は、政府の開明政策に不満を抱きつけた。1871年(明治4)玉里島津家をおこす。1873年内閣顧問、1874年左大臣に任じられたが、1876年政府の欧化政策に批判して鹿児島に帰り隠棲した。1884年公爵になる。国葬により鹿児島市の旧福昌寺墓地に葬られた。
  • シリーズ117冊
    220330(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。 しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。
  • 「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などの賎民や流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。またこれに似た「三浦の乱」が三浦の乱(さんぽのらん)
  • 松岡洋右まつおかようすけ(1880―1946)大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。
  • 田中義一たなかぎいち(1864―1929)陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 「張作霖爆殺事件」中華民国軍政府大元帥、張作霖が関東軍西光参謀河本大作大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和13年)国民革命軍の北伐が北京に迫ったため、張は日本の勧告により6月3日特別列車で北京退去し、京奉線で本拠の奉天に向かった。かねて張への不信感をつのらせていた関東軍(司令官村岡長太郎)中将(1871~1930)は、この機に張をげやあせ、満州を中国から独立させようと図り、錦洲方面へ出勤する体制をとったが、張をなお利用する考えであった田中義一首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようとした。奉天の京奉線と満鉄線のクロス地点のガードに爆薬を仕掛け、6月4日早晩、帳の列車を爆破。帳は爆死した。しかし「事前の打ち合わせが不十分で、関東軍は出動せず、河本の策謀は失敗に終わった。政府・軍は真相を秘匿し、国民革命軍の犯行と過ったが、満州某重大事件として疑惑を呼び、田中義一は天皇陛下に叱責されるに及んで内閣総辞職をきたした。また中国では後継の張学良が反日の姿勢を強め1928年末には東三省易易識中国東北の遼寧省、吉林省、黒龍省に、満州国国旗を五色旗にかえて国民政府の国旗であることを正店白日満地紅旗を挙げさせた。これを機に満蒙問題を重大化招いた。
  • 浜口雄幸はまぐちおさち(1870―1931)大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。
  • 尾崎行雄おざきゆきお(1858―1954)政治家。戸籍上は安政6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義内閣では外務省参事官、第一次大隈重信内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望内閣が倒れると、国民党の犬養毅とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。
  • 上海事変(しゃんはいじへん)日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。第一次目次を見る満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。
  • 大正デモクラシー

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
  • 尼港事件(にこうじけん)シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。
  • 明治維新

    副島種臣(1828~1905)明治期の政治家。父は佐賀藩士,藩校弘道館教授枝吉忠左衛門,母は喜勢子。安政6(1859)年父が死去し,同藩士副島利忠の養子となる。号は蒼海,一々学人。嘉永3(1850)年兄の枝吉神陽を中心とする義祭同盟に大木喬任,江藤新平らと共に参加し,尊王論に傾倒。5年京都に遊学し,国学者矢野玄道らと交流。その間神陽の命を受け公家大原重徳に意見書を提出,青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵上洛を求められる。帰藩後,藩兵上洛は藩主鍋島直正に退けられ,副島は藩校教諭を命じられた。元治1(1864)年長崎に行き米国人宣教師フルベッキに師事し,英学,米国憲法を学ぶ。慶応3(1867)年大隈重信と脱藩し江戸に行き,目付原市之進(水戸藩士)に大政奉還を説いたが,藩より謹慎処分を受けた。維新後長崎で対外折衝を担任,さらに参与,制度事務局判事を命じられ,福岡孝弟と共に政体書を起草した。明治4(1871)年外務卿に就任。樺太国境問題をめぐる対露交渉,マリア・ルス号事件(ペルー船積み込みの清国人奴隷解放をめぐる外交問題),日清修好条規批准交渉などに功績をあげたが,征韓論に同調して下野した。その後,自宅で愛国公党を結成し,民選議院設立建白書にも署名したが民権運動には参加しなかった。9年から11年にかけて清国を漫遊し,書道への造詣を一段と深めた。17年伯爵に叙せられ,枢密院顧問官・同副議長などを経て,第2次松方正義内閣の内務大臣となったが,在任3カ月で辞任するなど,大きな政治力を発揮することはなかった。
  • 大逆事件(たいぎゃくじけん)明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳事件ともいう。 日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦、大杉栄らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた管野は、宮下太吉、新村忠雄、古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。 取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助らの紀州派、松尾卯一太らの熊本派、武田九平らの大阪派、さらに森近運平、奥宮健之、内山愚童ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂太郎内閣下の平田東助内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎司法省行刑局長兼大審院検事、松室致検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
  • 明治維新

    佐賀の乱(さがのらん)1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。
  • 歴史の回想

    鈴木貫太郎すずきかんたろう(1867~1948)海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。
  • 歴史の回想

    夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。
  • 歴史の回想

    中江兆民(なかえちょうみん)(1847―1901)明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。
  • 歴史の回想

    「ポーツマス条約」(ぽーつますじょうやく)1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
  • 歴史の回想

    壬午軍乱(じんごぐんらん)1882年朝鮮のソウルで、日本の侵略と閔(びん)氏一族の腐敗、売国政策に対して立ち上がった軍人たちの反乱。日本では甲申政変とあわせて京城事変といったこともある。1876年の江華条約(日朝修好条規)以来、日本をはじめとする外国資本主義国が朝鮮を侵略、李朝(りちょう)封建体制の危機は深まり、民衆の生活苦は倍加していった。時の権力者である閔氏一族は1881年に日本の要請で軍制を改め、日本陸軍少尉堀本礼造を軍事教官に招き、両班(ヤンバン)の子弟を中心に別技軍という新式軍隊を組織した。これに対し旧来の軍隊の兵士たちは、俸禄(ほうろく)米も13か月も支給されないままであった。82年7月にやっと1か月分の俸禄米が支給されたが、腐っていたり、砂が混ざっていたりした。ここで兵士たちの不満は爆発、武器をとって立ち上がり、一隊は閔氏一族の大官たちの邸宅を襲い、さらに内殿に侵入して閔妃(びんひ/ミンピ)を殺害しようとした。閔妃は宮女に変装し王宮を脱出、忠州に逃れた。他の一隊は日本公使館を襲撃、これを焼き払い、堀本礼造らを殺害した。公使花房義質(はなぶさよしもと)は命からがら長崎に逃げ帰った。ソウルでは大院君が政権につき反乱を収束。一連の改革を行おうとしたが、清(しん)国の介入で失敗、清国に拉致(らち)され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化した。
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    板垣征四郎いたがきせいしろう(1885―1948)陸軍軍人(大将)、陸軍大臣。明治18年1月21日岩手県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員のあと北京(ペキン)公使館付陸軍武官本庄繁(ほんじょうしげる)の補佐官となる。本庄が関東軍司令官になるとその下で高級参謀、奉天(ほうてん)特務機関長に就任し、作戦参謀石原莞爾(いしわらかんじ)とともに1931年(昭和6)満州事変を引き起こし、「満州国」創設後は満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、師団長を歴任した。この間、「満州国」を「五族協和」「王道楽土」にすると主張し、満州拓殖株式会社を設立して、20年間に100万戸、500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣、国家総動員法の追加発動、満州産業五か年計画の実施に努め、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣にも留任して、汪兆銘(おうちょうめい)政権工作を推進し、三国同盟問題で強硬態度を示した。のち朝鮮軍司令官、第七方面軍司令官となる。極東国際軍事裁判でA級戦犯として、1948年(昭和23)12月23日絞首刑に処せられた。
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    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
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    「立憲政友会」第二次世界大戦前の代表的な政党。1900年(明治33)9月15日伊藤博文(初代総裁)の下に憲政党や伊藤系官僚が無条件参加する形で結成された。藩閥との激しい対立から妥協、提携へと変化してきた政党の歴史に合同という新段階を画した。国家の帝国主義的発展を挙国一致によって図ろうとする国家政党の基本性格をもち、総裁専制を党運営の特徴とする。同年10月政友会を基礎とする第四次伊藤内閣が発足したが、財政方針をめぐる閣内対立で翌年倒れ、さらに第一次桂太郎内閣下の増税問題で党内は動揺した。その根底には国家利害を優先する伊藤ら官僚派と民衆利害を重視する党人派の対立があった。03年伊藤は総裁を辞任。動揺は後継西園寺公望総裁時代に収拾された。西園寺や実力者原敬(はらたかし)は藩閥勢力との巧妙な妥協によって政権を得、第一、二次西園寺内閣下で鉄道の国有化や新設、築港、学校建設などの積極政策を展開、その利権投与によって党員やその周辺の民衆をひきつけ、党勢拡張、党内掌握に成功。また貴族院への勢力扶植、ブルジョアジー、官僚の入党を推進した。この路線はやがて藩閥勢力とくに長閥・陸軍との関係を悪化させ、陸軍による第二次西園寺内閣の倒壊を招いた。この際は憲政擁護運動に参加したが、13年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の与党となって以降は一般民衆との対立関係を深めた。14年6月原が総裁に就任。米騒動後の18年9月本格的政党内閣である原内閣が成立。積極政策を推進して党勢拡張を図る一方、普通選挙運動に敵対し民衆運動対策に力を入れた。また国際協調外交を推進。
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    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。 1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。 7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
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    甲申政変(こうしんせいへん)1884年(甲申)朝鮮のソウルで、クーデターによって閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が切迫してくると、支配層内部でも、実学の流れをくむ洪英植(こうえいしょく)、金玉均(きんぎょくきん)、朴泳孝(ぼくえいこう)らを中心とする開化派は、明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうと、留学生の派遣、『漢城旬報』の発刊などに努める一方、高宗にも接近、啓蒙(けいもう)にも努力した。しかし当時清(しん)国と結んだ守旧派が政権を握り、改革を阻んでいた。84年清仏(しんふつ)戦争で清国が敗れたのを機会に、開化派は日本の援助を得て守旧派打倒のクーデターを行った。すなわち、12月4日、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊(びんえいよく)らを殺傷し、ただちに王宮に入り高宗を掌握、クーデターは一時は成功した。開化派は新政府を樹立、6日には14か条からなる新政綱を発表した。内容は門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特権商人の廃止、軍制の改革など、上からのブルジョア改革の志向を反映していた。しかし6日清国軍が介入し、新政権は三日天下に終わった。洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は日本に亡命した。日本公使館は焼かれ、公使竹添進一郎は仁川(じんせん)に逃れ、ふたたび守旧派政権が樹立された。この政変の評価は朝鮮近代史の論争点の一つで、北朝鮮では反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命と評価しているが、単なる支配層内の政権争奪戦という見解もある。
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    「小磯國昭」こいそくにあき(1880―1950)陸軍大将、政治家。宇都宮市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員などを経て、1930年(昭和5)軍務局長となる。1931年の三月事件に関与した。その後、陸軍次官、関東軍参謀長などを歴任。1937年大将となり、1938年予備役に編入される。1939年平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣、1940年米内光政(よないみつまさ)内閣の拓相となる。1942年朝鮮総督。1944年には東条英機(とうじょうひでき)内閣の後を受け、米内光政と協力して組閣。戦争完遂を目ざしたが、戦局は打開されなかった。また最高戦争指導会議を設け国務と統帥の一元化に努めたが成果はあがらなかった。1945年4月総辞職。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり、1948年(昭和23)終身禁錮の判決を受けた。服役中病没
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    高橋是清(1854~1936)明治から昭和期にかけての銀行家,財政家,政治家。川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。横浜において英語を学び,慶応3(1867)年仙台藩の留学生として渡米,奴隷に売られるなどの辛酸をなめ,翌明治1(1868)年末帰国,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,同14年文部省に入り,すぐ農商務省に転じて商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。22年,辞職してペルーの銀山の経営に当たったが失敗して,財産を失い逼塞。25年,総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職,26年正社員となり西部支店長(下関)として成績をあげ,28年横浜正金銀行本店支配人,30年副頭取として経営を刷新,32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。37年,日露戦争に際して外債募集のため2度にわたって英米両国に出張し,戦費および内国債償還のため,5回にわたり1億500万ポンド(約9億円)の募債に成功。38年貴族院議員,40年男爵,44年日銀総裁。このころより原敬と積極的な財政政策について意見が一致し,大正2(1913)年山本権兵衛内閣に蔵相として入閣,政友会入党。同7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとり,10年原暗殺ののち首相総裁を引き継いだ。13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選,加藤高明内閣に農商務相として入閣。14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣,犬養,斎藤,岡田の各内閣に入閣,昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年,2・26事件の際暗殺された。
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    若槻礼次郎わかつきれいじろう(1866―1949)大正・昭和期の官僚、政治家。号は克堂。慶応(けいおう)2年2月5日松江藩士奥村仙三郎の次男として生まれ、叔父若槻敬の養子となる。1892年(明治25)東京帝国大学仏法科卒業、大蔵省に入る。愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長を経て、1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣、ついで1908年第二次桂太郎内閣の大蔵次官に就任。1911年大蔵次官を辞し貴族院の勅選議員となった。第三次桂内閣、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相にも就任。この間立憲同志会、憲政会の創立に加わった。1924年(大正13)護憲三派内閣の内相となり、普通選挙法、治安維持法を成立させた。1926年1月加藤高明(かとうたかあき)首相の病死で憲政会総裁を継承、内閣を組織した(第一次若槻内閣)が、1927年(昭和2)枢密院が台湾銀行救済の緊急勅令案を否決したため総辞職した。1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のもとで、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権を務め、難航のすえに条約を締結した。1931年4月浜口の病状悪化のためかわって立憲民政党総裁に就任、第二次若槻内閣を組織、浜口内閣の政策を継承した。しかし満州事変の勃発(ぼっぱつ)で政策の基本とした幣原(しではら)外交、緊縮財政の破綻(はたん)は決定的となり、内相安達謙蔵(あだちけんぞう)の協力内閣運動(民政党、政友会両党による協力内閣成立を目ざした運動)によって総辞職を余儀なくさせられた。 1934年民政党総裁を辞任、以後は重臣として岡田啓介(おかだけいすけ)内閣以降の後継首相指名、重要国策の審議に加わった。戦争に対しては一貫して批判的な立場を表明し続けたが、政界への影響力をもつことはできなかった。太平洋戦争末期には近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、岡田啓介らと東条英機(とうじょうひでき)退陣を画策、小磯国昭(こいそくにあき)内閣を成立させた。しかし戦争を終結させるための具体的な行動をとることなく終戦を迎えた。昭和24年11月20日死去。
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    緒方竹虎おがたたけとら(1888―1956)ジャーナリスト、政治家。山形県生まれ。早稲田(わせだ)大学専門部政経科を卒業して1911年(明治44)朝日新聞社に入社し、政治部記者となる。欧米留学後、編集局長、1934年(昭和9)主筆、常務取締役、1936年専務取締役に就任。その後、重要産業統制委員、内閣情報部参与を経て、1940年新体制準備委員、1943年朝日新聞副社長となるが、1944年退社して小磯(こいそ)・米内(よない)内閣の国務大臣兼情報局総裁。1945年鈴木貫太郎内閣の内閣顧問、貴族院議員。東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣では国務大臣、内閣書記官長、情報局総裁を兼任して敗戦処理にあたる。緒方は国粋主義者の中野正剛(せいごう)とは大学・記者時代からの親友で、自身、国家主義者でもあった。戦後、その経歴から戦犯容疑者となり、1946年(昭和21)公職追放となる。1951年追放解除され翌1952年自由党から衆院選に当選(福岡1区)。第四、五次吉田茂内閣の副総理・官房長官。1954年吉田退陣後、自由党総裁に就任。翌1955年保守合同に党を率いて参加し、自由民主党の総裁代行委員となり、鳩山一郎(はとやまいちろう)首相の後継に予定されていたが心臓病で急逝した。69歳。著書に『人間中野正剛』(1951)がある。
  • 歴史の回想

    重光葵しげみつまもる(1887―1957)外交官、政治家。大分県生まれ。1911年(明治44)東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入る。パリ講和会議全権委員随員、上海(シャンハイ)総領事などを歴任。1932年(昭和7)中国公使として上海停戦協定交渉中、天長節祝賀式場における反日運動家の投弾により右脚を失った。1933年外務次官となり、ソ連、イギリス、中国の各大使を務める。1943年東条英機(とうじょうひでき)内閣外相、1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣外相兼大東亜相として大東亜会議の開催やソ連を通じての和平工作を図るなど、戦時外交に重要な役割を果たした。敗戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣外相として降伏文書に調印したが、ソ連の要請により極東国際軍事裁判のA級戦犯として逮捕される。1948年(昭和23)禁錮7年の判決を受け、1950年仮釈放となり、1952年追放解除後、政界に復帰し改進党総裁となる。その後、日本民主党、自由民主党副総裁を務める。1954年以降は鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣外相として、国連加盟、日ソ国交回復に尽力した。著書に『昭和の動乱』『巣鴨(すがも)日記』『外交回想録』などがある。
  • 「柳条湖事件」りゅうじょうこじけん.1931年(昭和6)9月18日の謀略的満鉄線路爆破事件。満州事変の引き金となった。従来、柳条溝事件と通称されていたが、1980年の中国における学会報告で、事件現場の地名などから柳条湖事件と改称すべきであると提起された。31年3月、宇垣一成(うがきかずしげ)内閣を企図する軍事クーデターが発覚した(三月事件)。関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐や同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らはすでに満蒙(まんもう)領有計画を作成していたが、三月事件後に石原は「満蒙問題私見」などを執筆、満州で軍事行動を起こし、それを機に国内の軍事的改革を断行する計画を作成した。柳条湖事件はこれらの計画を具体化する謀略であった。関東軍の計画には、軍中央部の参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)中将、同支那(しな)課長重藤千秋(しげとうちあき)大佐、支那班長根本博中佐らも加わっていた。軍事行動は計画の漏洩(ろうえい)により早められ、9月18日に実行された。満鉄線路の爆破といっても、列車の運行に影響を与えないように爆薬量が計算され、爆破を合図に奉天(ほうてん)にいた板垣高級参謀が軍司令官名で奉天城と張学良(ちょうがくりょう)軍の宿営北大営(ほくだいえい)を攻撃させ、19日中には計画どおりの軍事行動で営口(えいこう)、安東(あんとう)、鳳凰(ほうおう)城、長春(ちょうしゅん)など満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに計画には朝鮮軍の増援があったが、参謀総長金谷範三(かなやはんぞう)大将が出兵を中止させた。そこで吉林(きつりん)で事件を起こし、吉林出兵を実施、これに伴い朝鮮軍を独断越境させた。これに対し、事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は22日の閣議で軍事行動を追認し、予算の支出を承認、さらに24日には軍の行動の正当性を認める声明を発表し、軍の行動を容認した。

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