『片岡義男、101円~400円(文芸・小説、実用)』の電子書籍一覧
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百歩譲ってこれが青春だとしても、断じて暴走ではない。
「俺あ、必死だよ」。主人公・美治のその言葉に偽りはない。大人から見れば単なる暴走族にしか見えない集団のリーダーにあたる男には、一定の行動基準がある。世間におもねることなく、四輪で、二輪で走る行為を楽しむこと。同時に、アウトローを気取らないこと。実際彼には、職場があり、家族がいて、フィアンセがいる。そして自らの生命の危機に隣接した時でさえ、社会の側が走る行為を封殺しようとする、その糸口を見事に絶つ。自ら「青春」などと呼ぶことはない。ただそれを、他に何と名付けたらいいのか、わからないだけなのだ。 -
女と男とカーチェイスと拳銃があればすなわち、映画だ。
映画を小説で実行した、という構えを持つ短編。
図体の大きい、目立ちすぎる車をまず登場させ、
そこで女と男のささやかな再会劇がある。
男の素直な、あるいは幼稚な、と言ってもいい願望が語られ、
女の現在の願望、状況が語られ、
あっさりとピストルが導入され、
あとは適切にシーンごとにアクションとショットを重ねれば
物語は最後の場面に突入する。
主役2人にとっては、極上のハッピー・エンディングだ。 -
シリアスさを欠いた三角関係からまっ赤に燃えるゴリラはやがて故郷に帰る。
多くの片岡作品がそうであったように、出会いは路上。
そこにはオートバイがあり、19歳の少年がいる。
年上の女がリードする。女はその筋の男の「イロ」でもある。
初夏から秋にかけての時間の流れの中で
社会から、学校からはみ出し、嫉妬を土台とした堅固な三角関係に
ならない三人は、やがて二手に別れることになる。
三人のあいだには、不思議な好意と信頼がある。
さあ、ここからはそれぞれの時間だ。
ゴリラはカタギになる。まっかに燃えている。 -
雪から雪へ、時は移り始まったものは、終わる。
空から舞い落ちる、白い雪。
夏の青い空と陽射しが主流の片岡作品にあって
雪は貴重な例外だ。
しかしながら、同時にこの作家特有の「型」もここに見ることができる。
走っている男が、約束もなしに、路上で女を拾う、というパターンだ。
現実にそんなことはまずおこらない、という感想は無意味だ。
ここには出会いがあり、自然な流れがあり、喜びがあり、
時が経過して、やがて悲しみが来る。それだけだ。
そして最初と最後に、雪があった。 -
18歳の夏。まだ触れていないものはすぐそこにあり、それはいつまでもまぶしく、ただそのまま残される。
この小説は、「ボビーに首ったけ」と「ボビーが首ったけ」でできている。
前者は、なぜかボビーと呼ばれている高校3年の男子に
会ったこともないのに手紙をよこし、数回のやりとりのあと
喜びを膨らませている同い年の少女。
後者は、ボビーがストレートな情熱を傾けているもの、つまりサーフィンだ。
18歳の夏、手紙から一歩、踏み出す計画を立てる2人。
そしてボビーは、そろそろ自分のサーフボードを手に入れる頃合いだ。
邪なところは少しもない青春の欲求を
さて運命は、どのように取り扱うのか――。 -
例えば東京とは、雨と水商売と、貸し傘と、どうにかなる女と男。
『人生は野菜スープ』に収録された作品では、娼婦やストリッパーなど、社会からはみ出したような女性が描かれているが、本作ではホステスだ。
舞台は東京・銀座。水商売の女性と少なからず同じ時間、空間を共有するのは、例えばクラブで伴奏をするピアニスト。彼女たちにとって、心強い伴奏者であり、時に人生の伴走者である彼とは、店から借りる傘で身を寄せ合って雨をしのぐような関係の中で呼吸をしている。過去も未来もあるだろう、しかし今は関係ない。水商売から提供される相合傘の下で揺れているばかりだ。 -
2人の関係がどこでわかるか?会話だ、と言ってみたい。
ロクでもない男、と言ってもいいかもしれない。
販売促進課に勤めるサラリーマンだ。
片岡義男の小説の多くの登場人物(男)がそうであるように、ここでも年齢は27歳。
恋人らしき女のほうは、実に平凡極まりない名前で、
しかしいい女。のように見えて・・・・・・ さてどうだろうか。
凡庸なようで、停滞のない会話。共に迎える朝。
とりあえず、それだけあれば、なんとかなる。 -
飲んで、移動して、また飲んで、移動して、やがてマーマレードの朝。
クラブのホステスと、たまたま店に来た一介のサラリーマン。
決定すること、依頼することが女の役目であり、
引き受けること、運転することが男の役目だ。
女はアルコールを、飲む、飲む、飲む。
男は部屋に連れて行くこと、待つことくらいしかすることがない。
時間が経過し、女の懸案が済んで、正月五日。
夜ではなく、アルコールはなく、
ベーコンエッグとマーマレードを塗ったトーストと
ささやかな出発の朝が来る。 -
友人でも恋人でもない、相棒という得難い関係性の、風のような成り行き。
ボーイ・ミーツ・ガール。はじまりは映画館。
女はロビーの長椅子に座り、男は眠りこけていたのが目覚めたばかり。スクリーンを凝視していない2人は、映画館は映画を観るところ、という思い込みから自由だ。
友人や恋人のように重力の中で生きない、ただ風の中で生きる、相棒として。新宿で。富浦で。
大切なのは、自分たちが何者で、これからどうするかではなく、例えば変形して痛みの伴う足を、ビー玉を使ってラクにしてやれる技術だ。 -
戦友、という間柄の2人の男にとって悲劇は戦後になってからやってくる。
私立探偵アーロン・マッケルウェイ・シリーズの一編。
今回の依頼は、行方不明になっている男を探し当てることだ。
辻褄の合わない謎の絵葉書と、男に婚約者がいたことだけを手がかりに
女性探偵のアストリッドと助手のアーロンは調査を開始する。
残念ながらしかし、何の進展も見られない。
行方不明の男は原爆投下に係わる仕事をしており
その戦友を訪ねても、何の手がかりも得られない。
だが作者はあっさり、この失踪の謎を読者に明かす。
最後まで知らないのは物語の中の探偵2人だけ、という
トリッキー -
あっけらかん、と、8オンス罐
仲の良い女ともだち、2人。ちょっと久々に会う週末。
楽しく飲んでいるうちに、興が乗って、
知人の男性を呼び出すことになった。
男はステーション・ワゴンを持っていて、
海を見たくなったら横浜へ。車の中では飲みっぱなしだ。
女性2人が、時間をおいて酔いつぶれても、
男が面倒をみることになろうとも、
あっけらかんと屈託のない時間が過ぎていく。
たとえ二日酔いになったって、冷蔵庫には、
自分の好きな8オンス罐がある。 -
友よ、大陸の真ん中で逢おう。
この短編は、『月見草のテーマ』と同じテーマを宿している。
1台のオートバイが東から西へ、もう1台が西から東へ。
やがてその2台が合流する、という物語だ。
そしてこちらはその大陸版。だからスケールの種類が違う。
ハイウェイの、青空の、流れる空気の、豪雨の、
胃に流し込むオレンジジュースの、月明かりの、夜の深さの
その質が日本とは異なる。
多くを語る必要はない。イカれたロードライダーであること、
ただそれだけで信じ合える男と男のストーリー。 -
移動し続けることのやすらぎ、未知の故郷のようなハイウェイ。
荒野の只中を突っ切っている巨大なハイウェイ。
多様な人間がひしめきあい、密集度が高く、
同時に、どこか虚ろにも見えてしまう大都市とは対照的に
ハイウェイの周囲を形成する町はどれも小さく、
しかしそこには親密な、確かに体温を感じる人の営みがある。
ここではないどこかを求めて、いや、それも違うのかもしれない、
ただひたすら移動するために移動し続けるドライバーにとって
そんな町と人々、温かい食事、星空、そして音楽が永遠の友人だ。 -
1人の男の死を悼むために、モーターサイクリストたちは続々と小さな町にやってくる。
人口わずか1800人の小さな町・ウィリアムズ。
そこにある日、数百人規模のモーターサイクリストたちが終結する。
ただならぬエンジン音。見慣れぬ男たち。
平穏な町にとっての異常事態に、警察も非常体制を取る。
しかし、彼ら彼女らの目的はただ一つ。
敬愛するライダー、モンスター・ジョーの葬儀を心をこめて執り行うことだけだ。
葬儀の際の、静けさと爆音。静と動の鮮やかな交代劇。
町に大きな刻印を残したかに見えた轟音もライダーたちも
やがて空気のように去っていく。 -
いつも未知のほうへ、生命のきらめきのほうへ、ビリーは向かって行った。
ビリー・ザ・キッドといえば、アメリカ西部開拓時代のヒーローとして数々の小説や映画に描かれてきた。そのビリーの生きた日々を、片岡義男が書くとどうなるか。伝説の男による銃の早技は確かに描かれはするものの、ここにあるのは少年から青年に移ろうとする1人の男の一日いちにちのていねいな積み重ねであり、主人公である彼さえもがその一部になってしまう北米大陸の圧倒的な自然、そして時代の苛烈さである。ビリーが求めたものは栄光ではなかった。自分を日々新たに鍛え直す恐怖に似た未知のほうへ、彼はいつも向かっていったのだ。 -
思い出してみてほしい。どこかの上に、心をこめてすわったことなんてあっただろうか?
サンダンス。アメリカ西部開拓時代に生き、
伝説的な強盗、アウトローとして知られるその男と
同じ名前を付けられてしまった少年はなんとインディアンだ。
彼はガス・ステーションと簡易食堂を兼ねたような店を
ほぼ1人で切り盛りしている。
囚人。囚人を護送する刑事。病気の少女。ヒッチハイカー。
てんでばらばらの女たち男たちが店に立ち寄り
テキパキとサンダンスは仕事をこなしていく。
ここには、声高なインディアン擁護も社会批判もない。
ただ「心をこめて」カボチャ畑にすわることを
白人たちが -
「ただのラブ・ソング」と「アナザー・ラブ・ソング」。
月明かりのハイウェイを、巡業用バスが走っている。運転しているのはアマンダ。女性として、妻として、母として完璧であり、カントリー・ミュージシャンの夫は、あらためて惚れ直している。結果、20年前のヒットに並ぶ傑作「アナザー・ラブ・ソング」が生まれた。だがしかし、巡業やカントリーを取り巻く様々な人々がすべて幸福なわけではない。だからこそ、アマンダの充実した人生は輝いている。私立探偵アーロン・マッケルウェイ・シリーズの中では事件らしい事件の起こらない地味な一編ながら、読後に深い余韻を残す作品である。 -
別れ話は3度。そして空には、ブルー・ムーン。
女と男がいる。
女が「終わりにしたい」という。男は「なぜ?」と聞く。
人類が、これまで無限に繰り返してきた行為だ。
いったい、平行線ではない別れ話というものが、あるだろうか?
終わりにすることと嫌いになることは違う、という言葉がそこにあり、
しかしその言葉は2人のあいだで共有されない。
されないまま、しかし2人は3度、話すために会う。
一度目と二度目は雨。しかし三度目は晴れた。
すべてを終えて、窓から見えるのは、きれいなブルー・ムーン。 -
1980年、夜、霧の中の別れ。さて今日は、何曜日だろう?
片岡義男の短編小説では、男女の出会いは路上で起きる。
それが再会、としての出会いであれば
しかも完璧に偶然のそれであれば、
物語はめまぐるしく時をかけめぐる。とりわけ、過去の方へ。
路上での、偶然の、実に17年ぶりの邂逅。
2人には、これもまた偶然に、通りかかった友人によって
あの日のスナップが残されていた。
それを所持しているのは女のほうだ。
しかし時はとまらない。男はオートバイ、女はマーキュリーで1人を生きる。
やがて、あたりを取り囲んだ濃い霧の向こうに去っていく。 -
男・マッケルウェイ、21歳。素っ裸の探偵稼業に勤しむ。
私立探偵アーロン・マッケルウェイシリーズの一篇。
人はそれぞれ裸の一個人でありつつ、
職業を持つことによって、社会から認知された存在になる。
しかしその職業から微妙に逸脱し、あるいはそれがボーダーレスの
ゆらぎの中にある時、小説を推進する出来事が起動する。
今回の短編でアーロンが巻き込まれるトラブルは
カリフォルニアに巣食う犯罪によって起きたもの。
今度のマッケルウェイは、文字通り「素っ裸」だ。 -
ミス・マージョリーの信条はただ一つ。「動いていくこと」(ムーヴィン・オン)だけ。
21歳の私立探偵アーロン・マッケルウェイ・シリーズの一編。
今回のマッケルウェイは、パトロールマンから
ヒッチハイカーの老婦人を乗せてやってくれと頼まれる。
老齢でありながらヒッチハイクで長距離を移動しようと試みる彼女は
やはり並の女性ではなく、今は亡き伝説のカントリー・シンガーの
恋人だったことが判明する。
道中、細心の敬意を払いつつ、昔語りに耳を傾けるマッケルウェイ。
そしてその彼女の話から、単なる昔日の回顧ではなく、
現在をムーヴィン・オンする力そのものであることを学ぶ。 -
人生は冗談の連続。その渦中に町でいちばんの伊達男がいる。
ユーモアと余裕に満ちた楽しい一編。
主人公は、保安官のガーランド・デューセンベリー。
彼が日々相手にしているのは、半熟卵が注文どおりに作れないからと妻を散弾銃で射殺したり、未婚にもかかわらず「浮気している夫を逮捕してほしい」と訴えてきたり、酔うと必ず酒場でストリップをして、あげく家まで送り届けなければならないようなデタラメな連中ばかり。
しかし彼はジョークのようでもあり、シリアスでもあるそれらの馬鹿馬鹿しい事件を的確に、すばやく、こなしていく。
西部劇スター崩れの完璧に整えられた服装とと -
男は、バカばかり。彼女を癒すのは、ドライジンと心優しきゲイ・ボーイ
あからさまだったり、まわりくどかったり。
ホステス、という職業をやっている女性の許には
様々な男たちが寄ってくる。
律儀に対応していると、車で連れ出されたり、
ホテルに連れ込まれたり。
やけになって雨の中、放り出されたり。
五月の連休でさえ、つぶそうとしてくる男たちから彼女を解放してくれるのは、
ドライジンと心優しきゲイ・ボーイだけだ。 -
捨てる男あれば拾う男アリ。走ることばかりでなく、留まることも、この先の2人は。
オートバイで走ることだけにリアリティを感じている少年と
高2で家出して以来、家に居つかなくなった少女。
2人は不意に、夕暮れの第三京浜で出会う。
次々に生まれてはもらわれていき、捨てられる猫のように
よるべない時間の中を漂い、生活を積み上げることのできない2人。
しかし、決裂と思われた瞬間を超えて、彼女は戻ってきた。
これから、今までとちがう何かが始まるのだろうか。
ゆっくりと、くりかえしながら、歌いながら。
スローなブギのように。
「野生時代」新人賞受賞作にしてのちに映画化さ -
海と対峙してしまった者たちにとって、人生は射出座席(ベイル・アウト)だ。
深く、海に魅せられてしまう人間がいる。
さしあたって、その人間は2種類に分かれる。
サーフボードで海に出ていく者と
海を、サーフを、サーファーを、フィルムに収める者だ。
フィルムを撮る者はサーファーに魅せられ、
サーファーはフィルムに映った海に魅せられ、新たなチャレンジに出る。
彼らは降服の幸福を知っている者たちだ。
やがてその中のある者は、南太平洋の彼方へと消えて行く。 -
連続しない、いくつもの美しいシーン。そこに吹いている、すべて違う風。そして、コーヒーは2杯だ。
長さとしては長編小説だが、一続きの物語があるわけではない。
「あとがき」が簡潔に説明しているように
エッセイのような、小説のような、様々に印象的な鮮やかなシーンを、前後の文脈なく、28編、集めている。
ごくささやかな共通項として、どの掌編にも風が、あるいは風の気配がある。
夜の、ビジネス街の、電話ボックスの、大きな公園の、少年の、別れ話の、プールの、汚染されて住めなくなった島の、その風。
風にはコーヒーがよく似合う。
できれば、たっぷりと2杯だ。 -
起きてしまった愚かさ。行くことも戻ることもできず、ただ顔に陽が射すだけ。
2つの不良グループがある。
抗争が起き、犠牲者が出る。
やられたら、やりかえす。必然的にそれは
エスカレートしていき、ある時ついに一線を超える。
留まってはいられない、だから
走る、走る。
しかし、走っても行く所は無いのだ。
それが起きてしまったらもう
明日が来るわけない。 -
流れ落ちるのを止め、男はいま、留まって学ぶことを始まる。
延々と続く丘のつらなりの中を1台の赤いピックアップ・トラックが走っている。そこには女と男が乗っており、ニューヨークからカリフォルニアをめざした長い旅の途中だ。すぐに子供っぽい情熱を燃やしながら何一つモノにならない男の幼稚さに女はウンザリしている。しかし不意に、決定的な出会いがあった。羊飼いだ。羊飼いの世界を知り、雷鳴と豪雨と、スカンクの放屁を浴びて1週間意識不明になるという洗礼を受けて、ようやく男は自分の道を見つける。あくまでカリフォルニアに向かう女と別れ、男はそこに留まって学び始める。 -
広大な麦畑の経験は、青年を濾過する。
はるかカナダにまで続く、気の遠くなるような面積の麦畑。
熟練の腕を持つ指揮官の下、麦刈り隊に加わった青年は
恐怖すら感じさせる、そして官能のゆらめきをたたえた
麦畑の法外な物量の中で、かつてない身体の開放と
地球と自分の体が一つになった感覚を獲得する。
麦畑と一緒に在ると、風はひときわよく目で観察することができ、
火はあまりに獰猛で俊敏に動く。
そこにむきだしの、プリミティヴな人間の動きが接する。
この純度の高さこそが、労働というものだ。 -
大きな音で、静かな仕事。2つの赤がこの小説の主役だ。
片岡義男の小説のアクションの中には、いくつかの強靭な定型がある。
この小説もその1つを踏襲している。
全長7メートル近いオールズモービル・トロナード。
豪勢に見えすぎないことに金をかけた邸宅。
プールには全裸で泳ぐ女性。
ただ小さな予想外として、ハイビスカス・ジャムがあった。
予定された1つの赤に加えて、
もう1つの赤が、物語には加わった。 -
それぞれのエンドレス・サマーを描く試みは、今のところ未完のままだ。
タイトルに「1」とあるように、この小説は
さらに長大になる構想のなかにあった。
いや、「あった」ではなく「ある」というべきか。
書かれてから30年以上が経過した今、わかっているのは、
これが未完の小説の一部に過ぎない、ということである。
小説の企みは「あとがき」に簡潔に書かれている。
生きることと波乗りの区別をつけない人々にとって、
いま、生きている夏は過去の夏ともつながっており、
そしてこの先にも伸びていく永遠の夏である、という困難が、
この小説を未完にしている最大の原因なの -
すべての信号が赤の日と、すべての信号がグリーンの日。
オートバイで走る、ということによってしか
知りえない人の魅力、というものがあるのだろう。
男は前を走る赤いオープン・カーの後ろに付いたまま離れない。
女も、普通なら気味の悪い尾行と思えるこの行為が
なぜかしら心地いい。こうして2人は路上で出会った。
路上の出会い。それは、片岡義男の小説の黄金のパターンだ。
その日、彼女の自動車はそのボディの色のように
ことごとく赤信号で止められた。だがその1年後。
今度はことごとく信号がグリーンの道を走る運命にある。 -
移動する時間の長さが違えば、別れと、別れの後の出発の仕方も違うはずだ。
ある者はロディオ・ライダー。かつて栄光に輝いた彼も今年は惨敗、負傷し、おまけに妻は1人になりたがっている。そのロディオ・ライダーを空港まで大きなオートバイで送り届けた日本人青年も、西海岸から東海岸までの長い移動を妻との別れ話にあてる、という試みの最中だ。いっぽうで帰宅してみたら愛する妻と子は書き置きを残して家を出てしまった、という歌を好んでいた長距離トラック・ドライヴァーは自分歌の内容と寸分たがわぬ人生を歩むことになる。別れの痛みとともにある人々を慰撫するのは、アリゾナのむき出しの荒野だけだ。 -
苛立ちも、失敗も暴力も、「さしむかい」の向こう側に消えていく。
出会いの場所は路上。女は唐突に捨てられ、
男は選択の余地もなく、女を拾う。
「スローなブギにしてくれ」にも通じる片岡義男の初期小説のパターンを
この短編もまた踏襲している。
若い女と男が一つ屋根の下に過ごせば
むろん、静穏な時間は長く続かない。やがて
世間が、さまざまな力=暴力が2人を襲うはずだ。
それぞれの痛手を経由して、2人はようやく手に入れる。
そこにある、「さしむかい」という言葉の体温を。 -
波が呼んだら、どこまでも行く。
幸雄と貴志。波乗りを何よりも愛する2人は
そのあいだに麻衣子、という気になる存在をはさみながらも
常に海を、波を第一に考えることにおいて共通している。
ある時2人は、小さな町の映画館で、ポルノ仕立ての安い映画を観た。
そこに彼らが観たものは、他の観客がまるで目にとめないもの、
画面を横に抜けていく完璧なチューブ波だ。
素朴すぎる情熱と手段で、
彼らはその波が生起する場所を、ついに見つける。
あとはもう、いつまでもそこに留まるだけだ。 -
離婚暦、4年の歳月、初夏の東京。2人のシャイネスは、言葉で防波堤を築く。
女が営む店の名前はウェンディ。
ビーチボーイズのナンバーから取られている。
いちばん大切な存在だったのに、
去ってしまったウェンディという女の子を歌った曲だ。
時々店に顔を出す男は、ここへ来て4年になる。離婚暦アリ。
彼女の誕生日に、男は、金がなくて贈り物ができない
若い男性が登場する映画の話をしたりする。
店を閉め、外を歩き、2人は今までにない段階に入る。
それを「幸せ」と呼ぶことをためらいながら、体と言葉を重ねていく。 -
愛してるなんて とても言えないと、言うとき、彼女が語っていること。
彼女と彼の出会い。またしてもそれは路上だ。
片岡義男の黄金のパターンがここでも踏襲される。
トラブルの渦中にある彼女を拾い、とっさに
オートバイに乗せて走る。逃げる。
逃げたら、ひとまず一緒に住む。
しかしそれで平穏に済むはずはなく、彼女の後ろ側にある
ダークサイドとの接触は避けられない。
だから、対峙する。そして再び、逃げる。
ただ、行為があるのみ。
彼女の涙も、アクションである。 -
見る前に翔べ、と悪い星がささやく。
ティーン向けのレーベルであるコバルト文庫に収録された一編。
冒頭、朝の新宿駅のシーンに象徴されるように
17歳の女子高生2人は、朝のラッシュ・アワーで怒涛のように流れてくる人波に逆行し、そこから外れて生きる存在として描かれている。
通常のヘテロセクシュアルからの逸脱。死への傾斜。
生まれてくるべき星は、ここではなかったのかもしれない。
だから、「翔びなさい」と別の星が言う。
しかし彼女は、この星の現実の中でしか、飛ぶことはできないのだ。 -
ベビー・フェースと、呼びたければ呼ばせてやれ
倦怠とユーモア。
広告代理店に勤める中途半端な年齢の男たちは
生活に困らない金はあっても遊ぶ金はそうは行かない。
そこで、45歳の中年男を引っ張り込む。
トライアングルの中心にいるのは、鹿児島から出てきた21歳の女。
どこからどう見ても成熟した肉体だが、ベビー・フェースと呼ばれている。
3人のうち誰を好きでもない、嫌いでもない
倦怠とユーモアの数日を過ごし、時が来れば
さっさと鹿児島に帰るだけ。 -
誰もが例外なく、移ろいゆくものたち。天空の星座のように。
夏のイメージが強い片岡義男の小説にあって
この物語は明確に秋を舞台としている。
「時には星の下で眠る」という短編が先行してあり
それが北米大陸を舞台としていたのに対し、
こちらは明確に、日本の、高原の秋だ。
オートバイを愛する者同士の4年ぶりの再会を介して
人が4年、という時間を生きることの、いくつもの模様が描かれる。
そこにはいくつも死があり、不在がある。
生きている者たちも紅葉の色の変化のように確実に変わってゆく。
そして時には友とともに、星の下で眠る。 -
スポーツだけではないロディオの名残りをとどめた男が町にポツンと。
ロディオ・バムのBumとは、浮浪者や怠け者、ルンペン、無能の者、といった意味。ブロンク・ライダーと呼ばれる一人の男の中には、ロディオがもたらす熱狂、すなわちどこか人間をダメにしてしまう要素と、ロディオがスポーツになっていく過程でそぎ落ちた、ロディオのルーツに係わる何ものかが残っているようだ。だから、大会のためやってきた数百人のライダーたちが町を後にしても彼はまだ酒場で飲んでいる、一人のlooser(負け犬)として。ようやくその彼も町を去る時、取り残される白のサンダーバードがあまりに美しい。 -
見ることは通り過ぎること。すべて自分のものでない風景の中を。
端的なタイトルがこの短編のすべてを表している。
通り過ぎること、それがすべて。
町を通り過ぎながら、見る。
徒歩や自転車やオートバイのように体を外気にさらさない
四角い個室のまま自動車で移動することで
見ることは純化される。
通り過ぎることでカメラ・アイになる。
そこに対向車が、ガス・ステーションが、林が、湖が、
広告の看板が、遊園地が、ビーチパラソルが、教会が映る。
主人公は、カメラではなく、人間であることを忘れないように(?)
時折、リンゴをかじる。 -
レインメーカー・アイランドの奇跡に立ち会う幸福。
雨の日のほうが多く、
通称“レインメーカー・アイランド”と呼ばれるポリネシアの島。
広い場所が好きで、ただ旅をする目的だけで来た青年・西本は
偶然、その島で皆既日食が見られるかもしれないことを聞く。
島に渡った彼以外の観光客は、ほとんどがそれ目当てなのだ。
しかし、あまりにも雨が多いため、
見られる確率は3%もないだろうとメディアは告げる。
にもかかわらず、「雨の伝説」に支えられて奇跡は起きた。
島と、雨と、日食と、当地に生きるシンプルで強い人々の
濃密な描写の数々が堪能できる
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