『柏書房、1年以内(文芸・小説、実用)』の電子書籍一覧
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★第6回「書店員が選ぶ今年の本」選出(自己啓発・経営、経済、科学部門/韓国書店組合連合会発表)
★寄せられた賛辞
“女性の経験と共にあるさまざまな議論が複雑に入り混じった科学の話を読んでいるうちに、私自身も、科学と女性が出合うことで、目の前の壁を飛び越えられる日が来るかもしれないと夢見るようになった。”――キム・チョヨプ(韓国SFの俊英)
“我々が今まで男性の立場から科学をしてきたことに気づかされた。(…)女性が参加し、女性の観点で創造されるフェミニズムと科学技術の研究は人類の希望だ。”――チャン・ハソク(科学史・科学哲学者/ケンブリッジ大学教授)
★本書の内容
受精は、能動的な精子が受動的な卵子を捕獲する過程ではない。
卵子凍結はあるのに、男性のための精子凍結がないのはなぜ?
アシスタントロボットが「女型」である理由とは?
本書は、かつて科学者になる夢をあきらめた著者が、フェミニズムと科学技術社会論に出合い、憎んでいた科学と「和解」し、女性の観点から科学を見つめ、科学の観点から女性の体と経験を理解しようとした思索の軌跡をまとめたものだ。
“私は、科学と分かり合えなかった経験のある人たち、そのせいで科学の本にはなかなか手が伸びないという読者を思い浮かべながら本書を執筆した。ほかでもない、私がそういう人間だったからだ。”(「はじめに」より)
本書の探究は、「子どものような純粋無垢な好奇心」からばかり出発するわけではない。その出発点は、卵子凍結について悩むことかもしれないし、高校を卒業してすぐに受けた二重手術かもしれない。うつ病になること、摂食障害になること、妊娠とキャリアについて考えること、無責任な父親について考えること、かもしれない。さまざまな要素が混ざり合う、複雑な個人の暮らしから、本書は話を始めていく。
客観的で普遍的で価値中立的であることを装いつつ、じつのところ女性について無知だった科学にかけられた「呪い」を解き、「よき友」として付き合っていくためのエッセイ集だ。同時に、理系への進学を検討している学生や、その子らを見守る大人たちにもおすすめしたい。
“科学が本当の意味で変化するためには、賢い女子学生ではなく、平凡な女子学生こそもっと必要なのだ。(…)科学者や工学者になりたいという女の子や青少年が周囲にいたら、めいっぱい励ましてあげてほしい。(…)「実力さえあれば女でもなんだってできる」といった言葉の代わりに、「今までそこそこしか勉強してない男子学生だって科学者になれたし、科学界の80%に所属できているんだよ」と付け加えてあげてほしい。”(「おわりに」より) -
かつてレズビアンカップルとして見做され、自分たちでもそう思っていた私たちの輪郭はわかりやすい名前を失ってとろりと溶けた。家人は世の中の女性、男性という枠組みのすき間をゆらりゆらりと行き来する。その家人とパートナーシップをむすぶ私がレズビアンと自称するのは実情とやや乖離してしまうだろうか、などと考えたりもする。”
──「第2章 ヤマウチくんはノンバイナリー」
この名づけがたく、かけがえのないパートナーシップについて。ドラマティックなくせに驚くほど心温まって、地に足がついている。そんな私たちの生活と愛について。
【本書の内容】
清水えす子さんと山内尚さんはカップルで、ふたりとも「出生時に女性として割り当てられた者」として生きています。そして、山内さんはノンバイナリーでもあります。
バイナリー(男女二元論)が前提とされるこの社会のなかで、このようなパートナーシップのあり方は、ときに規範からの「逸脱」と見なされ、シスジェンダーの異性愛カップルと比べて「承認」が得られにくいどころか、構造上の不利益や不平等も受けやすい……。この本に登場する〈シミズくんとヤマウチくん〉は、そうした社会状況において生み出された〈非実在カップル〉です。
“家人がかつて祖母に交際相手の人となりを説明するよう求められたとき、非実在文学青年シミズくんが生まれた。この交際相手とは私のことだ。シミズくんは、私について性別を伏せて語ったところの産物である。”
──「プロローグ」
この本は、クィアたちがパートナーの存在を隠すときに立ち上がる〈非実在の恋人たち〉を、想像力で掬い上げようとした結果です。〈非実在〉に思えるかもしれないけれど、〈かれら〉のような存在はたしかにこの社会にあり、そんな〈かれら〉にも個別具体的な生活があり、感情があり、それぞれのやり方で日々を生きのびているのではないでしょうか。
そちらの暮らしはどう?
実際のカップルだからこそ編むことができた、喜怒哀楽に満ちた(パラレルな)日常をえがく、唯一無二のエッセイ集の誕生です。
【登場人物】
ヤマウチくん
漫画家。シミズくんのパートナー。家事においては料理を主に担当している。シミズくんがあまりに熱いものを持つのが下手でしばしばびびる。比較しようがないけれど、自分に比べて皮膚が薄いのかなと思っている。そろそろ新しいフライパンがほしい。
シミズくん
ヤマウチくんのパートナー。もともと食器洗いの担当で、最近食洗機を導入できたのがうれしい。洗濯物も自動で畳めるようにならないかなと思っている。ヤマウチくんが仕事中に水分をちゃんと摂っているとほっとする。普段は精神科医をしている。
山内尚(やまうち・なお)
漫画家。清水えす子のパートナー。
清水えす子(しみず・えすこ)
山内尚のパートナー。普段は精神科医をしている。
【もくじ】
プロローグ
第1話 シミズくんとヤマウチくん
第2話 ヤマウチくんはノンバイナリー
第3話 こんな社会で生きています
第4話 魂が貴族──あるいは異形たちの生活
第5話 ふたりで暮らす
エピローグ -
【本書の内容】
皆さん服とどう向き合っていますか? 自由な、しっくりくる「装い」で、日々生きることができていますか?
この本を書いたのは、男女二元論で説明しきれない性別を生きる、ノンバイナリーの山内尚さんです。漫画家としても活躍中の山内さんは、服が大好き。しかし、自分にとって心地いい服と出会うまでの道のりは、けわしい獣道でした。
服屋さんの多くはメンズとレディースにはっきり分かれていて、最近では性別を問わない“ということになっている”ユニセックスの服も増えてきたものの、そもそもこの三分類がしっくりこないと感じている方も、案外いるのではないでしょうか。
この本では、62点のファッションイラスト、4つのコラム、2つのマンガ、5本のエッセイがフルカラーで収録されています。あらゆる表現を駆使しながら、ノンバイナリーであること、ノンバイナリーにとっての装いの問題など、さまざまなテーマに向き合った贅沢な一冊です。
“ノンバイナリーにとっての服ってなんなのでしょう。(…)ノンバイナリーであることを主張するためのプラカードであり、自分を“ふつう”の人たちのなかに隠すための木の葉であり、自分の気持ちを落ち着かせるためのお守りであり、日々を暮らしていくなかでの苦しみを生み出す毒薬であったりするのではないかと思います。一筋縄ではいかなくて、でも味方になったらすごく頼もしいやつ、服。”
もちろん、「これがノンバイナリーの正解の服である」と伝える本ではありません。山内さんの服をめぐる旅路を追体験することを通して、皆さんにとっても新たな発見があることを願っています。
【もくじ】
はじめに
僕/私にとっての「ノンバイナリー」
春夏
ノンバイナリーにとっての服──忘れられないひと言
おそろい
パートナーと共に装う──世界と対峙する方法
秋冬
バイナリーな社会で労働することの困難
特別な日
僕/私に、まだ自分を表す「言葉」がなかった頃の話
おわりに
小物
アクセサリーたち Accessories
香水 Perfumes
頭飾り Headdresses
部屋着 Loungewear -
〈密航〉は危険な言葉、残忍な言葉だ。だからこれほど丁寧に、大事に、すみずみまで心を砕いて本にする人たちがいる。書き残してくれて、保存してくれて、調べてくれて本当にありがとう。100年を超えるこのリレーのアンカーは、読む私たちだ。心からお薦めする。
――斎藤真理子さん(翻訳者)
本書を通して、「日本人である」ということの複雑さ、曖昧さ、寄る辺のなさを、多くの「日本人」の読者に知ってほしいと切に願います。
――ドミニク・チェンさん(早稲田大学文学学術院教授)
【本書の内容】
1946年夏。朝鮮から日本へ、
男は「密航」で海を渡った。
日本人から朝鮮人へ、
女は裕福な家を捨てて男と結婚した。
貧しい二人はやがて洗濯屋をはじめる。
朝鮮と日本の間の海を合法的に渡ることがほぼ不可能だった時代。それでも生きていくために船に乗った人々の移動は「密航」と呼ばれた。
1946年夏。一人の男が日本へ「密航」した。彼が生きた植民地期の朝鮮と日本、戦後の東京でつくった家族一人ひとりの人生をたどる。手がかりにしたのは、「その後」を知る子どもたちへのインタビューと、わずかに残された文書群。
「きさまなんかにおれの気持がわかるもんか」
「あなただってわたしの気持はわかりません。わたしは祖国をすてて、あなたをえらんだ女です。朝鮮人の妻として誇りをもって生きたいのです」
植民地、警察、戦争、占領、移動、国籍、戸籍、収容、病、貧困、労働、福祉、ジェンダー、あるいは、誰かが「書くこと」と「書けること」について。
この複雑な、だが決して例外的ではなかった五人の家族が、この国で生きてきた。
蔚山(ウルサン)、釜山、山口、東京――
ゆかりの土地を歩きながら、100年を超える歴史を丹念に描き出していく。ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』初の書籍化企画。
【洗濯屋の家族】
[父]尹紫遠 ユン ジャウォン
1911‐64年。朝鮮・蔚山生まれ。植民地期に12歳で渡日し、戦後に「密航」で再渡日する。洗濯屋などの仕事をしながら、作家としての活動も続けた。1946-64年に日記を書いた。
[母]大津登志子 おおつ としこ
1924‐2014年。東京・千駄ヶ谷の裕福な家庭に生まれる。「満洲」で敗戦を迎えたのちに「引揚げ」を経験。その後、12歳年上の尹紫遠と結婚したことで「朝鮮人」となった。
[長男]泰玄 テヒョン/たいげん
1949年‐。東京生まれ。朝鮮学校、夜間中学、定時制高校、上智大学を経て、イギリス系の金融機関に勤めた。
[長女]逸己 いつこ/イルギ
1951年‐。東京生まれ。朝鮮学校、夜間中学、定時制高校を経て、20歳で長男を出産。産業ロボットの工場(こうば)で長く働いた。
[次男]泰眞 テジン/たいしん
1959‐2014年。東京生まれ。兄と同じく、上智大学卒業後に金融業界に就職。幼い頃から体が弱く、50代で亡くなった。 -
★紛争研究会が選ぶ「2022年ブック・オブ・ザ・イヤー賞」最終候補作
★寄せられた賛辞の一部
「平和は可能だがむずかしい。…大きなアイデアと現場のファクト、その両方を知る専門家に耳を傾けることが欠かせない。『平和をつくる方法』は人類の最も崇高な試みについて新たな洞察を与えてくれる」──スティーヴン・ピンカー(『暴力の人類史』著者)
「セヴリーヌ・オトセールは、コンゴであれ、コロンビアであれ、アメリカであれ、日々、地域社会で暴力を減らすために努力している普通の女性や男性の物語を語る。読者に行動を促す、魅惑的で感動的な物語だ」──デニ・ムクウェゲ(2018年ノーベル平和賞受賞者)
「『平和をつくる方法』は、ありふれた国際政治の本ではない。まわりの世界の見方を変える一冊だ」──リーマ・ボウイー(2011年ノーベル平和賞受賞者)
★内容
平和構築という言葉は、私たちが何度も耳にした物語を想起させるかもしれない。ある地域で暴力が発生すると、国連が介入し、ドナーが多額の支援を約束し、紛争当事者が協定に署名して、メディアが平和を称える。そして数週間後、ときには数日後に、暴力が燃えあがる──そのような物語。
はたして、私たちに持続可能な平和を築くことなど可能だろうか? 可能だとすればどのように? そうした問いに答えるのが本書である。
著者は、善意にもとづくが本質的な欠陥を抱える「ピース・インク」と彼女が名付けるものについて──その世界に身を浸しながら(参与観察)──考察する。最も望ましくない状況であっても平和は育まれることを証明するために。
そのため、従来とは異なる問いの立て方もする。つまり、〈不思議なのは…紛争解決の取り組みが失敗するのはなぜか、ではない。ときどき大成功を収めるのはなぜか、だ〉。
そう、多くの政治家や専門家が説くのとは反対に、問題に大金を投じても解決策になるとはかぎらない。選挙で平和が築かれるわけではないし、民主主義はそれ自体が黄金のチケットではないかもしれない(少なくとも短期的には)。
では、ほんとうに有効だったものは何か。国際社会が嫌う方法だが、一般市民に力を与えることだ。地元住民主導の草の根の取り組みにこそ暴力を止めるヒントがある。そしてそれは、私たち自身の地域社会やコミュニティ内での対立の解決にも役に立つ。
本書は、20年間の学びがつまった暴力を止めて平和を始めるための実践的ガイドである。 -
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人、彼らと覇を競った上杉謙信や武田信玄など、小説やドラマでもおなじみの戦国武将たち。しかしそのルーツをはっきりと辿ることができる武家は意外に少ない。そもそも武家ではなかった豊臣氏の出自があいまいなのはもちろんのこと、平氏や源氏の流れを汲むとされる織田氏や徳川氏の家系も疑問符が付かざるを得ないものだったりする。その他の武家多くも、自らの家の「権威づけ」や「辻褄合わせ」のために系譜を操作したり創作したりしているといって過言ではない。
本書は、系譜を「盛り過ぎ」た例、名家の姓を「乗っ取っ」た例、源氏や平家で「権威付け」した例、「出自不明」な例の四つのグループに分けて、その神秘のベールをはがし、真の武家の出自に迫るものである。 -
女性は長命だということは、平均寿命から、だれでも当たり前だと思ってる。ではそれをひっくり返して、なぜ男性は短命なのかと考えたことはあるでしょうか。
それに、男性には知的障害に関連する疾患が多いこともご存じでしょうか。色覚異常も男性のほうが多い。本書はこれまで女性の長生きは、ストレスが少ないだとか、いろいろ的外れな見解が繰り返されてきた中で、本当の理由について明らかにしていく。
本書は、著者本人が救急車で搬送されるシーンから始まる。追突事故による病院への搬送の途中、著者の頭によぎったのは全く別の2つの経験、医師としてNICUで未熟児として産まれた赤ん坊たちの世話をしたこと、そして神経遺伝学者として人生最後の時を迎える老人たちの研究をしたことだ。この2つの経験がストレッチャーに寝そべりながら衝撃的に結び合わさったのだ。そして気づいたのは「女性は遺伝学的に男性より優れている、そのことをわれわれは認めるときがきた」と。
つまり、生まれてから老いにより死を迎えるまでの人生の様々な局面で見受けられる女性の生きる力の強さについてだ。本書では遺伝学からみた男女の違い、つまり女性の性染色体「XX」が個体にもたらす恩恵に注目する。著者は男性で「XY」のようにXを1つしか持たない。それに比べ、女性の方が一般的に長生きし、強い免疫力を持ち、癌などの病気への抵抗や大病の後の回復力があるという。
女性の持つ2つのXはおのおの父親と母親それぞれの遺伝子から受け継いだ情報を持っており、どちらの親から受け継いだXを使うかの選択肢を持つ。そのため、より多様な細胞パターンが可能となり、これが事故による大怪我や大病などで、性染色体内にXを1つしか持たず選択肢のない男性に比べて底力のある身体をつくるのだと説く。また、X染色体異常によって起こる色覚異常を例にとっても、男性は1つしかXを持ち合わせないので顕在化するが、女性であればもう1つのXが正常ならそちらが機能するため、顕在化しない。専門的に言うと女性のバー小体は決して眠っているわけではないのだ。
しかしこの本は、単に女性の方が優れていると訴えるものではない。著者は、この男女の差異と、女性がもつ遺伝子の優位性を認識することが、病気に対する新たなアプローチに繋がると論じている。これは、現在の、汎用性を追求しながら男性にあわせて開発されている治験や投薬への問題提起であり、医療業界が、性の違いに適切に対応した投薬・治療へシフトしなければならないと主張する。
男性偏重の身近な例として、医療実験を専門に行っている企業に、雌雄両方のマウスでの実験結果を依頼したときのことを語る。その企業は雄のみのデータしか持っておらず、その理由が、雌のマウスをサンプリングに含めると、雄よりも強い免疫力を持つために実験結果が複雑になってしまうというものだった(したがって実験予算も膨らむ)。そのために雄のみを採用していることを知った。こうした傾向は、その企業にとどまらず一般的に行われていることであり、著者は、その結果、女性の方が薬による副作用が起きやすく、薬の過剰摂取に繋がりやすくなると、現代の医学が孕む問題を指摘する。しかも単純に雌での実験を行えばいいという話でもない。雌のマウスは、同系交配で量産されているため、XX染色体がまったく同じになっている。つまり実際の女性が持つ遺伝的多様性がないのだ。遺伝的性差を考慮するにしても、この問題も併せて考えなければならない。
ちなみに女性にも前立腺がある。本書にはPSAマーカーが高いため著者のもとに送られてきた女性の話が出てくる。その女性は、前立腺癌であることがわかったのだ。これは、女性の体そのものへの理解が一向に進んでいないという例でもある。
冒頭の事故では、自らもストレッチャーに寝そべりながら、一緒に事故に遭った妻の怪我を案じていたことに端を発している。彼女の方が深刻な怪我を負っていたが、著者の頭の中で過去の様々な経験や知識が繋がり「遺伝子的に女性だから大丈夫」、そんなことを思ったのだ。本書は、男女の違いについて、著者と伴侶(ベターハーフ、これはXXともかけている)との卑近なエピソードや歴史的な出来事、進化論、遺伝子学、生物学、そして薬学などの多面的な科学的見地を織り交ぜながら、男性中心の価値観によって医療開発の過程で見過ごされていた人類の片割れ、すなわち女性とその遺伝子学的特性を積極的に医学に取り入れることを論じている。 -
「酒は百薬の長、されど万病の元」ともいうように、古来より洋の東西を問わず、酒と薬の関係には切っても切れないものがあり、互いに発展を遂げてきた。
古代エジプトでビールは生水より清潔な栄養ドリンクだったし、科学の原型ともいうべき錬金術師たちは万能薬「命の水(オードヴィー)」を求めて様々な蒸留酒を生み出した。その技術を受け継いだ化学者たちによるアルコールの研究は、医学、微生物学、生化学など多くの分野での発見につながり、人々の健康に貢献している。ほかにも、熱帯の人々を苦しめるマラリアの治療薬とジン・トニックの関係、禁酒法下のアメリカにおける酒と薬の関係等、その歴史を繙くと見えてくるのは、まさに酒が薬であり、薬が酒であったという事実なのである。
「薬としての酒」という視点から、アルコールと医術が織りなす人類史の変遷を広範な資料と調査に基づいて読み解いていく、新鮮かつ刺激的な一冊。エピソードに合わせて72のカクテル・レシピも紹介、お気に入りの一杯を片手に、めくるめくような物語に酔いしれてみてはいかがしょう? -
「動物と話してみたい」
人類はその夢にどこまで近づいたのか?
巨大海獣とビッグデータが出会う最前線の旅へ――!
■あらすじ
2015年、ザトウクジラが海から飛び出し、私の上に落ちてきた。奇跡的に無傷で生還するも、知人の専門家に後日こう言われた。「助かったのは、クジラがぶつからないように配慮したからでしょう」。もちろん、なぜそうしたのと尋ねるなんて不可能ですが、という一言も添えて……。しかしその後、「動物用のグーグル翻訳」の開発を目指す二人の若者が私のもとを訪ねてきた。そもそもなぜ、クジラと人間は話せないのか? シリコンベースの知能が炭素ベースの生命に向けられたとき、動物と人間の関係はどう変化していくのか?
――本書は、国際的評価の高い映像作家である著者が、生物学の世界で起こる革命を丹念に追ったドキュメントであり、Amazon Books編集部が選ぶ「ベスト一般向け科学書2022」のTOP10、『ニューヨーカー』誌が選ぶ「必読書2022(ノンフィクション部門)」に選出された。このたびの日本語版では、71点の図版と2023年のペーパーバック版に加えられたロジャー・ペイン(ザトウクジラの歌を発見した海洋生物学者)への追悼文ともいえる「あとがき」を完全収録。人類と動物の幸福な未来、よりよいコミュニケーションのあり方を模索したいと願うすべての人に贈る一冊。 -
「関ヶ原の戦い」の影の仕掛け人にして家康からの信任も厚かった藤田信吉、今も残る河川インフラのスペシャリストとして地元で称えられる伊奈忠次、女城主として島津の精鋭軍を打ち破った妙林尼、信長以前に〈天下人〉となったのに生没年すら曖昧な三好三人衆……教科書には載らない、あるいは、敗者として歴史の片隅に追いやられているマイナー武将たち。しかし、彼らはみな、歴史のキーパーソンとして確実に「爪痕」を残した者であり、“ご当地武将”として語り継がれるレジェンドなのである……知られざる武将たちによる歴史の裏舞台での大活躍を描く、もう一つの日本史!
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女性(雌)とは弱い性なのだろうか?
動物学も文化の影響は受けてきた。ダーウィンが進化論を唱えたのは150年以上前のヴィクトリア朝の時代。画期的な理論を発表したものの、当然、彼の考えにも当時の女性観が反映されていた。その結果、調べる対象となった動物はすべて雄だったのだ。誰ももう一方の雌を調べようとはしてこなかった。そのため両性を見比べた科学的で正確な検証がなされず、たまたま雄に見られるものを動物のすべてにはめ込んだ歪んだ見方がまかりとおってきたのだ。当時は女性の役割は結婚して出産し、夫の興味関心や仕事を支えることだ。そもそも雌は小さく、ひ弱で、色も地味なものとされた。雄のエネルギーが成長に費やされるなら、雌のエネルギーは卵子に栄養を与え、赤ちゃんを育てるのに必要とされた。雄は一般的により体が大きいため、雌より複雑で変化に富み、精神面のキャパシティも上回るとされた。要するに雄は雌に比べてより進化しているとみなされたのだ。
これまで動物の雌雄の役割については、人間での男女の役割を基準にその行動や社会的地位が調べられてきた。つまり雄は雌より優位であり、一夫一婦制が動物にも見られれば、これは倫理的な行動だなどと決めつけてきた。本当だろうか。実はこられはジェンダーバイアスによって男性優位の社会や文化が生み出した歪んだ見方なのだ。動物が種の保存のために遺伝子(子孫)を残そうとするなら、それは雄だけに限ったものではないはず。アザラシがハーレムを作ると、動物の雄にはそうした志向が強いなどと安直に結論づけるが本当だろうか。もし互いの性が子孫を残しつつ遺伝的多様性を獲得するなら、雄だけでなく雄雌ともに熾烈な生存競争をしていると考えるべきだ。だから雄と同様雌も積極的に子孫を残す(浮気する)のだ。
本書は、ジェンダー政策が表だって社会的な問題として認識されるようになった時代に、私たち以外の動物界は女性であることの本質について何を教えてくれるかということを述べている。性別のステレオタイプの犠牲者は人間だけではない。動物種の雌の一般的なイメージは、他の動物を認識する方法にもなぜか組み込まれている。溺愛する母親もいるが、自分では卵を捨てて、寝取られたオスの集団に任せて育てさせる鳥のレンカクもいる。種の7%だけが性的に一夫一婦制であり、多くの浮気性の雌は子孫の遺伝的多様性を高めるために複数のパートナーと狡猾なセックスをしたり(ほとんどの鳥類)、あるいはチンパンジーの場合には父親をわからなくさせるために複数のパートナーとセックスをしたりしている。さらに驚くのは同性愛でも異性愛でもなくバイセクシュアルなボノボ、アホウドリは雌同士で卵をかえしているという事実などなど。すべての動物社会が男性に支配されたり、雄雌の役割を果たしたり、さらには雄を必要とする生活をしているわけではない。
雌の世界でもアンテロープのトピは最高の雄を奪い合うためにその巨大な角で血みどろの戦いを繰り広げ、ミーアキャットの女家長は地球上で最も殺人的な動物であり、競争相手の赤ちゃんを殺して繁殖を抑制する。恋人を食料とする共食いのメスのクモや、雄を完全に排除してクローンのみで繁殖する「レズビアン」のヤモリなどもいる。何世紀にもわたって、動物の女性性の自然なスペクトルの多くは無視されてきた。文化的な偏見に目を奪われた科学者たちは、動物をその時代の社会に見られる役割のなかに投げ込んだのだ。ダーウィンは、男性は支配的で活動的で「情熱的」であるのに対し、女性は受動的で「臆病」で一夫一婦制を求めるという見方をした。これらの考えは、その正味期限をはるかに超えて、科学の世界に残存している。その後の生物学者たちは、確証バイアス(都合にいい例だけを集めること)に苦しみ、これらのレッテルを裏づける証拠を探し、ライオンの淫乱な性癖や雌のキツネザルの攻撃的な優位性など、ふさわしくない例外を一生懸命無視するようになった。このように雌の役割については男性目線での都合のいい偶像作りが行われた結果、雌の本来の意味が研究されてこなかったのだ。本書は、本当の雌とはどういうものか、Bitch(ビッチ)というタイトルで、男目線の幻想をひっくり返すべく、挑発的かつ面白く事例をあげ証明していく。男性が求める女性像を破壊しつつ、本当の女性(雌)とは何かを明らかにする。 -
インドに関する本を一冊読むなら、この本を読んでほしい。
――ギーター・アーナンド(ピューリッツァー賞作家)
2013年夏、ムンバイでマイクロファイナンスを扱うNPOを運営する著者は、融資を求めてやってくるある人々の存在に気づく。市街地の端にあるデオナールごみ集積場でお金になるごみを集め、それを売ることでその日暮らしをするくず拾いたちだ。
絶えず欲望を追いかけてモノで心を満たそうとする現代生活の産物でもあるそのごみ山は、20階建てのビルほどの高さになる。腐った食べ物、古い端切れ、割れたガラス、ねじ曲がった金属、ときには赤子の死体、花嫁の遺骸、医療廃棄物など、あらゆる夢の残骸がそこに行きつく。誰の目にも見えるところにありながら、誰の目にも見えていない広大なごみの町。著者と住民との8年以上にわたる長いつきあいが始まる。
ごみ山が放つ有害な後光(自然発生する火災、都市の上空を覆う有毒ガス等)が目に見えるかたちをとり、無視できなくなるにつれて、市当局による管理の動きも露骨になっていく。その影響を受けるのは当然、そこで生きる人々だ(そもそもこの地区の起源は19世紀末、植民地時代の感染症対策にある)。これまで以上に足場が脆くなるなかで、ある四家族の生活を著者は追い続けた。とりわけ注目したのが、10代の少女ファルザーナー・アリ・シェイクだ。彼女はごみ山で生まれ、そこで愛を知り、子をもうける。悲劇的な事故にまきこまれながらも。
彼女らの目を通して、最も荒涼とし腐臭に満ちた場所であっても、美や希望、愛が花開くことを私たちは知ることになる。同時に、グローバル資本主義が最も脆弱な立場にいる人々にどのような影響を与えるのかも知るだろう。
〈いまや彼らは、目に見える世界に戻るために闘っていた。その姿を見せるために闘っていた。姿を見せる相手とは、すぐそばにいた彼らを避けてきた人々、くず拾いをひき殺す事故に責任を負うべき人々である〉
著者は記す。この地で生まれる物語がまるで非現実的な気がしたとしても、その大半は現実である。そしてそれはごみ山で暮らす人々の物語であると同時に、どこにでもある物語なのだと。
行き場のない核のごみ、不法投棄や環境汚染、連鎖する貧困、新生児遺棄、メガイベントの裏で排除されるホームレス……。日本で起きていることと、ふと重なる瞬間が訪れるはずだ。不思議な既視感を覚える、寓話的ノンフィクション。 -
今度こそ、あらゆる子どもに性教育を、
性の多様性に関する教育を届けるために!
【本書の内容】
2015年にはじまる「LGBTブーム」。そして2018年にはじまる「おうち性教育ブーム」。そうした流れの中で、性と性の多様性に関する教育の必要性が、改めて叫ばれている。
しかし歴史を見れば、権利保障が前に進もうとするとき、それを揺り戻そうとする動きも前後して起こってきた。そんなバッシングがまかり通ってしまったために、性教育の機会が、性的マイノリティの居場所が、奪われてしまったこともある。
そう、戦後の日本には、性教育をめぐって三度のバッシングがあった。そのとき、教員に限らない社会の人々は、何をして、何をしなかったのだろうか?
気鋭の教育学者がその歴史をひもときながら、バッシングを目の前にしたとき、私たち一人ひとりにできること、すべきでないことを考える一冊。
【本書の見取図】
三度にわたるバッシングの歴史をひもとく!
◆80年代――萌芽期
「性教協」という団体で、性の多様性に関する教育がすでに練り上げられ、実践されていた。
◆90年代――スルーされたバッシング
「官製性教育元年」が興るも、旧統一協会が「新純潔教育」を掲げ、性教協に対する批判キャンペーンを展開。
◆00年代――燃え盛ったバッシング
「七生養護学校」の性教育実践に対し保守派が批判を展開。裁判で教師側が勝利するも、以後、性教育はハレモノ扱いに……。
◆10年代――失敗したバッシング
「足立区立中学」の性教育実践に対し保守派が批判を展開。結果的に、いまに続く「おうち性教育ブーム」につながる。 -
動物にも意識があり、ほかの動物が死ぬと悲嘆にくれたり、相手を騙したりと知性があることがわかってきた。これまでは科学でも哲学でもヒトと動物は違うものとして考えてきたが、さまざまな研究から、程度は異なるもののこうしたヒトと同じ認識力があり、集団で生きる上での道徳さえもある。ではヒトと動物を比べてみたらどちらがより平和に暮らしているのだろうか。高度な能力を持つはずのヒトはなぜ不幸なのだろうか、その愚かさを明らかにする。
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不幸のいちばんの原因は、ここではないどこかへ行きたいという望みだろうか?
【本書の内容】
フランスのアナキスト、ルイーズ・ミシェル。ズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ。ウクライナの革命家、レフ・シュテルンベルク――
より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を辿る旅に出た著者。
南太平洋のニューカレドニア、南大西洋のセントヘレナ、シベリアの極東海岸沖のサハリン――
かつて「帝国」の流刑地だった島々を旅するなかで見えてきた、いまなお残る傷跡と亀裂。
「自由を求めて鼓動する心臓には、ごくわずかな権利しかないようですので、わたしの取り分を要求します。」――ミシェル
「わたしのただひとつの罪はチェツワヨの息子であることです。何もしていないのに、悪意によって殺されようとしています。」――ディヌズールー
「もっといい時代がくるよ、モイセイ。ぼくらの星はまだ地平線の上の空高くにある。」――シュテルンベルク
人生がふたつに引き裂かれたとき、自分を保つのはときにむずかしい。
故郷(ホーム)を追われる経験は、当人にとって何を意味したのか。故郷(ホーム)を追われた者を受け入れる経験は、その土地に根づく人びとに何をもたらしたのか。
弱い立場にある者が望まぬ移動と隔離を強いられる現代に放たれた、過去と現在をつなぐ傑作紀行文学(トラべローグ)!
【本文より】
本書は流刑者のことを考える一冊として企画されたが、それと同じくらい帝国についての本にもなった。両者はつねに分かちがたく結びついているからだ。それゆえ本書はまた、帝国の双子の犠牲者のあいだにかたちづくられた
連帯についての一冊でもある。“流刑者”と“先住民”、すなわち追放された市民と植民地化された被支配者のあいだの連帯である。
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