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『歴史、川村一彦(文芸・小説)』の電子書籍一覧

61 ~120件目/全213件

  • 「榎本武揚の概略」えのもとたけあき(1836―1908)旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎、梁川と号した。天保7年8月25日、幕臣榎本武規(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆、福沢諭吉らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵。1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。
  • 松平慶永・春嶽(まつだいらよしなが)(1828―1890)幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(靭負(ゆきえ))、鈴木主税らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を推すなど、島津斉彬(薩摩藩)、伊達宗城(宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(のち14代将軍家茂)の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭はじめ、先の大名たちとともに謹慎処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。
  • 北条時行(?~1353)鎌倉末期から南北朝期の武将。北条高時の次男。幼名は亀寿丸他様々に伝えらえている。相模二郎。鎌倉幕府滅亡後に際し、叔父泰家の命を受けた諏訪隆盛に守られて信濃に脱出。1335年(建武2)元関東申し次政権打倒計画に呼応、信濃で挙兵。同国守護小笠原貞宗と戦ったのち鎌倉に向かい、7月25日には足利直義を破って鎌倉に入った。中先代の乱。しかし足利尊氏が下向すると形成は一転、時行は敗れて鎌倉を脱出した。その後、南朝方となり数度に渡って鎌倉を奪回に成功したが、1353年(文和2)捕られて、鎌倉龍口で斬られた。
  • 後藤象二郎(1838~1897)幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5年(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2年(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1年(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4年(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。
  • 小松帯刀(1835~1870)幕末の薩摩藩家老。薩摩藩喜入領主肝付氏の三男として生まれ、のち吉利領主小松清獣の養子となり、帯刀清廉と名を改める。1861年(文久元)島津側役となり、1862年家老。藩政改革に大きな影響力をもった大久保利通ら尊攘派青年藩士の組織組忠組の指導者となった。1862年久光の上洛に随従。1864年(元治元)の禁門の変の処理、1866年(慶応2)には薩長同盟の締結を果たした。翌年城代家老となり、薩土盟約を結び、将軍徳川慶喜の大政奉還の勧奨など、藩を代表して活躍していた。藩主島津忠義には倒幕出陣を説いて実現させ、王政復古・倒幕など明治維新の実現に寄与しした。1868年(明治元)には明治政府の参与、外国官副知事となった。
  • 岩倉具視(1825~1883)幕末・維新期の公家出身の政治家。権中納言堀河康親の次男、母は勸修寺経逸の娘俶子。岩倉具慶の養継子。周丸と称し、号は対岳、法名は友山。関白鷹司政通に認められて、1854年(安政元)孝明天皇の侍従。1858年日米修好通商条約の勅許阻止で公家88名の列参を画策。公武合体の立場から和宮降嫁を推進し、1861年(文久元)和宮に従って江戸に下った。そのため尊攘派から「四好二嬪」の一人として弾劾され、1862年辞官落飾し、洛中より追放、洛北岩倉村に潜居。「全国合同策」「天下一新策密奏書などで時勢を論じ、ひそかに廷臣や大久保利通など薩摩藩士らと交わって倒幕の秘策を練る。1867年(慶応3)許されて、復飾、参内して朝議を主導して、薩長討幕派と結んで「王政復古」の大号令を発した。新政府樹立直後から参与、議定・副総裁を歴任、議定書兼嗣相となり、新政府の中心人物となる。1869年(明治2)東京に移り、大納言となり、永世禄500石を下賜された。1871年外務卿、ついで右大臣となり、特命全権大使として岩倉遣外使節団を率いて、約一年10カ月間、米欧各国における近代国家としての制度、文物等の視察をした。1873年9月に帰国、復命し、留守政府の西郷隆盛らの征韓論に反対し、大久保、木戸孝允らと内治優先論を唱え、ために西郷・板垣退助ら留守居政府参議は下野し政府の主導権を岩倉ら外遊派が握った。よく1874年不満とした武市熊吉ら高知県士族らが岩倉暗殺を企てた赤坂喰違の変をで負傷。華族の同族的結集を図って華族会館を創設した。そのご自由民権運動を弾圧し、太政官大書記官井上毅に憲法制定基本方針「大綱領」「綱領」を起草させ、三条実美太政大臣に提出をした。明治14年の政変後は、皇室財産の確立、家族財産の保護、十五銀行、日本鉄道会社設立など、皇室とその藩屏として家族擁護に努めたが、1883年7月病没した。
  • 幕末

    横井小楠(読み)よこい・しょうなん生年没年:文化6年(1809)~明治2年(1869)幕末の儒学者。名は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。他に畏斎,沼山などと号す。肥後(熊本)藩士横井時直とかずの次男に生まれる。藩校時習館に学び天保10(1839)年江戸に遊学。14年ごろから長岡監物,下津休也,荻昌国,元田永孚らと『近思録』会読を始め,真の朱子学即ち実学を目指した。また私塾小楠堂で弟子を教えた。門人には嘉悦氏房ら藩士子弟と共に徳富一敬(蘇峰らの父)のような豪農の子弟がいた。嘉永4(1851)年上方から北陸を遊歴,越前藩との接触が深まり,翌5年同藩から求められ『学校問答書』を書き,学政一致の道徳政治の担い手たることを藩主に求めた。またペリー来航後書かれた『夷虜応接大意』では,日本は「天地仁義の大道」に基づき「有道」の国と交際すべしと説く。安政1(1854)年兄の死により家督を相続。5年越前藩主松平慶永(春岳)から師として招かれ,藩政を指導し富国策を実施し,その経緯を『国是三論』に著す。文久2(1862)年幕府の政事総裁職に就いた春岳の政治顧問となり,参勤交代制の廃止など幕政改革を推進した。同年末,肥後藩江戸留守居役吉田平之助宅で酒宴中刺客に襲われ福井に戻る。翌3年朝廷,幕府,諸藩さらに外国人代表をも集めた大会議を領導すべく,越前藩挙藩上洛策を指導するも失敗,熊本へ帰り士籍を剥奪され,沼山津に逼塞したが思想的活動は衰えなかった。その思想は儒教的理想主義による政治革新と儒教的主体による東西文化の統合の構想など注目すべきものである。明治1(1868)年4月新政府に招かれ上京,徴士参与に任ぜられたが,尊攘派志士に暗殺された
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    三好政長は三好氏の惣領・三好元長に従い、元長が大永7年(1527)に足利義維・細川晴元を擁して和泉国堺に新政権(いわゆる堺幕府)を発足させるに際して軍事的中核を担い、いわば堺幕府樹立の功労者であった。その堺幕府から元長が離脱した大永8年(=享禄元年:1528)以後は三好一族の長老格として晴元の参謀格となり、一貫して晴元に付き従っている。元長死後の三好氏惣領はその嫡男・三好長慶が継承し、天文3年(1534)より幕府に出仕しているが、長慶と政長は不仲であった。長慶と政長の対立は根深い。長慶の父・元長は享禄5年(=天文元年:1532)6月に畠山義堯に与して木沢長政・一向一揆の連合軍と戦って敗死したが(飯盛城の戦い、顕本寺の戦い)、この抗争に際して晴元は木沢陣営を支援していたため、長慶にとって晴元および晴元に連なる政長は仇敵であった。また天文8年(1539)には幕府での声望を高めた長慶が、河内国十七箇所の代官職を要求して晴元に拒絶されているが、ここに政長の影を見て取ったのである。因みにこの地は政長の属城・河内国榎並城(別称:十七箇所城)の勢力域となっている。長慶・政長の主君である晴元はこの両者の対立を気に病み、政長に隠居を勧めた。これを受けて政長は天文13年(1544)5月に隠居して家督を子・政勝に譲りはしたが依然として帷幕に在り、なんら解決には結びつかなかったのである。天文17年(1548)8月、長慶はついに政長の排除を晴元に求めた。政長を重用する晴元がこれを黙殺すると長慶は晴元をも敵と見なし、同年10月下旬には晴元と細川京兆家の家督を争っていた細川氏綱や、岳父で氏綱を擁立する河内国南半国の守護代・遊佐長教と結んで実力行使に及ぶこととしたのである。この闘争は三好家中における内訌であったが、幕府の要職にある長慶と政長の対立は幕府のみならず、畿内近隣の諸領主をも巻き込むこととなった。長慶は弟・十河一存を先鋒として、居城である摂津国越水城から三好政勝の籠もる榎並城に向かわせた。この頃には摂津国の国人領主らの大半は長慶に与するようになっており、たちまちのうちに榎並城は孤立してしまったのである。
  • 桂小五郎(木戸孝允)(1833~1877)明治維新の最高指導者のひとり。大久保利通、西郷隆盛と並んで「維新の三傑」に数えらえる。維新政府の指導者として立憲制度を始め明治国家体制を構想した。長州藩の藩侍医和田家に生まれ(のちに燐家の桂の養子となった。小五郎と命名された。青年期に剣術修行のために江戸に滞在中、ペリー来航を目の当たりにする。この事件をきっかけに幕末政治に強い関心を抱き、まず西洋砲術や造船技術、オランダ語などを学んだ。一方、水戸学の影響かのもと志士として活動し、長州藩と朝廷及び他藩とを結ぶ外交活動に従事した。現実政治に深くかかわるにつれて彼の思想の観念性を脱して、次第に現実味に即したものに変わった。しかし1864年(元治元)の蛤門の変で長州藩が敗れると彼は但馬に逃れ、いったん政治の世界から遠ざかる。やがて同志である高杉晋作が長州藩の指導権を握ると、呼び返され、木戸と改名され長州藩の主導者として幕末政治に復帰。藩政改革や近代化政策を実行するとともに、坂本龍之介の仲介で仇敵あった薩摩藩と幕府打倒薩長同盟をを結び、明治維新を実現した。維新後は、木戸の課題であった中央集権国家を形成するために、版籍奉還、廃藩置県の断行に向けて政府をリードした。この間に、新政府に権力を集中するために朝鮮出兵を主張したこともあった。1871年(明治4)から岩倉遣外使節団に参加して欧米各国を視察し、近代国家の各側を観察した。帰国後、征韓論争大久保利通らとともに内政優先を唱えてて政府内に実権を握り、長州藩閣のリーダーとなった木戸は薩摩藩閣のリーダーである大久保と対立し、主導権荒層に敗れて晩年は不満を抱き鬱々の後を過ごした。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田信玄の西上作戦は天下取りの破竹の勢いで進んだ。信長・家康を包囲、駿河の大部分を攻め取った武田信玄は、常陸の佐竹義重と結び、相模の北条氏政と和して後顧の憂いを絶つと、元亀3年(1572)10月3日、甲府を出馬し西上の途についた。義昭の御内書を名文に、領国甲斐・信濃の精兵2万余兵と北条氏の援兵2000を率いての行軍であった。信濃から秋葉街道(信州街道)を経て10日には遠江に侵入し、犬居城で先遣隊5000を合わせ、家康・信長らに対することになった。一方、朝倉義景と近江の浅井長政とこれを報告し、家康・信長を包囲する作戦を立てた。信玄の陽動作戦、11月下旬、二俣城を攻略し信玄は12月下旬、三方ヶ原を経て東三河に進む姿勢を示した。対する家康は、これを阻止しょうと22日、信長の援兵3000を合わせた、総勢11000を率い、武田軍が素通りするのを見て三方ヶ原に討って出た。三方ヶ原の北方祝田の坂で攻撃隊形に入ったのがだが、敵状を知った信玄は坂上で迎撃のための戦闘配備を行った。三方ヶ原の合戦、戦端はこの日の夕刻に開かれ2時間に及ぶ白兵戦兵力に勝る武田勢のが終始優位を保ち、夜間に入ると徳川・織田連合軍は隊伍を乱して浜松に遁走した。信玄の嗣子勝頼らはこれを浜松まで追撃した。武田軍の死傷者が数十人に対して、徳川・織田軍の戦死者は1000人及んだという。この後、三河の刑部で新春を迎えた信玄は天正元年(1573)野田城を攻略した。しかし、宿痾の労咳が進み再出兵を期して引き上げる途中、病死した。信玄の西上と三方ヶ原の圧倒的戦勝は武田軍の威勢を内外に誇示するとともに、信玄の死が、苦境にあった信長に至上の脅威を与えた。それだけに西上作戦の中途断念は、信長を生き返させた。
  • 島津斉彬(1809~1858)幕末の薩摩藩主。島津家28代。父は27代島津斉興、母はとり藩主池田治道の娘弥姫。幼名邦丸、後に又三郎忠方。曾祖父重豪の影響を受けて、幼い頃から洋学に関心を示した。早くから西洋列強のアジア進出に危機感を抱き、本格的な西欧の科学技術導入を主張、水戸の徳川斉昭や老中阿部正弘、蘭学者川本公民・箕作阮甫らと親交を結び、公民らに数多くの蘭書を翻訳させた。藩内外でその人格と世界的見識が高く評価され、藩主就任を待望されていたが、斉興や家老調所広郷は斉彬が財政を破綻させるのではないかと危惧して、家督を渋った。こうした状況下、斉興の側室由良たちがその子久光を擁立しょうとしているという風聞が広まり、斉彬擁立派が激高して由良らを暗殺を企てたが、1849年(嘉永2)この計画が露顕し、首謀者の高崎五郎衛門ら多くの藩士の切腹・遠島・謹慎などに処せられた。このお家騒動で斉彬は一時窮地に立たされたが、老中阿部正弘らの後押しで1851年藩主に就任した。襲封後は、まずは鉄製砲の鋳物と洋式船の建造に着手。1852年には鉄製砲を鋳物するための反射炉の建設を鹿児島郊外に磯で始め、1854年(安政元)には洋式軍艦昇平丸を、翌1855年には蒸気船雲行丸を完成させた。その他ガラス工場などを次々築き集成館と名付け、集成館を中核に集成館事業という、富国強兵・殖産興業政策を推進した。ペリー艦隊来航を機に外交問題が表面化してくると、老中阿部を補佐し積極的に幕政に関与していった。阿部らとともに一橋慶喜を将軍継嗣に擁立し南紀派と対立していった。1858年南紀派の井伊直弼大老が就任すると、斉彬ら一橋派の敗北が決定的になり、帰国中の斉彬は西行隆盛に密命を与え上京させたが、その直後7月8日軍事演習中に倒れ8日後に病没した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「三木合戦の概要」秀吉が播磨征伐に着手したのは、天正5年(1577)の秋。西播磨の拠点・上月城や福原城を攻略し、播磨はまたたくまに平定されました。ところが、翌年3月、それまで織田方として活躍してきた三木城主・別所長治が、突如、離反。織田方と敵対関係にあった西国の毛利氏に寝返ります。それに呼応して播磨の諸勢力が次々と毛利方に寝返り、播磨における秀吉の優勢は一挙に後退してしまいました。このエピソードからは、長治の発言力がいかに大きかったかがうかがえるでしょう。それもそのはず。別所氏は、中世以来、播磨国の守護大名として君臨してきた赤松氏の流れをくむ名門氏族。応仁の乱の後、赤松家臣団のなかから別所則治が頭角を現し、就治の代には東播磨を基盤として主家をしのぐほどの勢力を築きあげました。長治離反の折、特に東播磨の諸勢力がこぞって長治に同調した背景には、このような長年にわたる別所氏の権威と権力が強く影響していたのです。写真は三木城内に建立されている長治の騎馬像ですが、後の天下人・秀吉に叛旗を翻した謀反人であるにもかかわらず、地元の人たちがいまでも長治および別所氏に深い思いを寄せているか、この堂々たる雄姿からもうかがえますね。鉄壁の包囲網を突破せよ!淡河弾正忠定範戦死之址碑平田・大村の合戦の翌月、それまで毛利方に与していた備前の戦国大名・宇喜多直家が、織田方に寝返った。さらに、長治と呼応して挙兵した荒木武重の有岡城が陥落。三木城は完全に孤立をしてしまった。万策尽きた長治は城内に立て籠もる将兵たちの命を助けるという条件で自害をするという道を選んだ。天正8年1月17日の事であった。ここに1年10カ月に及んだ三木合戦が幕を閉じた。
  • 高杉晋作(1839~1867)幕末期長州藩の攘夷・討幕派の志士。長州藩高杉小忠太の長男として長門国萩に生まれた。名は春風、字は暢夫、号は東行。変名も多数。藩校明倫館に学んだが飽き足らず、吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞とともに松門の双璧とされ、松陰はその「識」を高く評価した。1862年(文久2)上海に行き西洋列強によって半ば植民地化されている実情を見、対外的防衛がの必要性を強く感じた。帰国後は、イギリス公使館焼き討ち事件などを、いわゆる「狂挙」を行った。この「狂挙」は陽明学の概念で、理想主義という語感に近く、冷静な計算のうえでの行動であることを留意すべきある。1863年6月奇兵隊を結成し、その初代総管となる。1864年(元治元)四国連合艦隊下関砲撃事件に際しては和議の交渉にあたった。その後第一次長州征討の中で保守派に握られたが、12月下関で決起し、翌年、保守派を破って藩の主導権を奪い返した。幕府軍に備えて挙藩体制を固めた。1866年(慶応2)の薩長戦争で小倉口戦で活躍したが、翌年病死した。
  • 明治維新の先駆者

    大村益次郎(1825~1869)幕末・維新期の欄医、軍政家。1825年(文政5月3日。周防国吉敷鋳銭司村に生まれる。父は村田孝益、母はむめ、母は代々勘場付きの医者で、田畠3反あまりの農家でもあった。幼名宗太郎、医名は良庵。のち村田蔵六長州藩主の、命で大村益次郎と改名、諱は永敏。周防三田尻の欄医梅田幽斉に着き1843年(天保14)広瀬淡窓の塾成宜園に入門、1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び塾頭となる。1850年(嘉永3)帰郷して医業を開き、翌年琴子と結婚。1853年宇和島藩に出仕軍制改革に参画、1856年(安政3)藩主の参勤に従って江戸に行く、私塾鳩居堂を開く。同年幕府の蕃調書教授手習い、翌年講武所教授となった。1860年(万延元)長州藩雇士となる。1861年(文久元)長州藩の洋学教育機関博習堂用掛となり、江戸で西洋兵学会読を指導、1863年井上馨、伊藤博文ら「の英国密航を周旋した。手当防御事務用掛から撫育方を兼任、1864年(元治元)には藩地の砲台を検分、兵学校教授政務座役御用、(軍務専任)博習堂用掛兼赤間関応接掛等を歴任1865年に三兵教授兼軍政用掛となり、第二次幕镸戦争では石州で長州軍を指揮し、海軍用掛けも兼ね、上野戦争で彰義隊を討ち、総督府にあって東北戦争に、参画、軍務官副知事になる。1869年永世禄1500石を下賜され、木戸孝允と謀って東京招魂社を建立。兵部省設置で兵部大輔となり、徴兵制の基礎を作った。9月に刺客に襲われ負傷、それが基で11月5日に没した。
  • 江藤新平(1834~1874)明治初期の法制官僚・政治家。号は南白。佐賀藩下級武士の生まれ、貧窮の小青年時代を送る。1849年(嘉永2)藩校弘道館に入学。1862年(文久2)脱藩上京し尊攘勢力に接近するも失望し帰藩、永蟄居となる。1867年(慶応3)幕末政治情勢の激変で許され出京。1868年(明治元)新政府より東征大総監督府軍艦について徴士に任命され、江戸鎮台判事、鎮将府判事、会計官判事として江戸(東京)の民政行政に手腕を発揮した。この間、江戸遷都論を建議する。1869年帰藩し権大惨事として藩政改革を指導したのち、同年太政官中弁として政府に復帰した。1870年制度取り調べ専務となり、新政府の官制改革案の策定に指導的役割を果たし。また、民法会議を主宰して民法典編纂事業をし維新し、、最初の民法草案官僚として卓越した見識を持っていた。1871年の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、1872年に初代司法卿に就任し、司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、司法改革に力を注ぎ、日本近代の司法制度の基礎を築いた。1873年参議に転出し太政官正院の権限強化を図った。同年、征韓論争に敗れて辞職。翌年民撰議院設立白書に署名する。帰郷後も佐賀の乱の指導的立場に指され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。
  • 山内容堂(1827~1872)土佐藩主、幕末四賢君の一人。分家山内豊著の長男。1848年(嘉永元)中継ぎ養子として15代藩主として就任。1853年、ぺリ^来航を機に吉田東洋を抜擢、海防強化政策に着手。将軍継嗣問題では一橋擁立派にくみしたため、大老井伊直弼に圧迫され隠居、謹慎、以後容堂はを名乗った。1862年(文久2)謹慎を解かれ、公武合体路線の一橋慶喜・松平春嶽(慶永)らと幕政改革、公武周旋尽力。土佐へ退去しして、旧吉田派を復権させ主張する武市瑞山らを中心とする(勤王党)を弾圧、殖産政策、軍部充実政策を推進した。1867年(慶応3)7月、後藤象二郎の進言を採用し、幕府に大政奉還を受け入れさせた。維新政府の議定内国事務局総督、刑法官知事、学校知事、制度寮総裁、上局議長を歴任、1869年(明治2)7月、麝香之間祗候の優遇を受けて隠遁した。
  • 中岡慎太郎)1838~18867)幕末土佐出身の尊攘・倒幕の志士。土佐国安芸郡大庄屋の長男。剣術を武市半平太に就き修行、1861年(文久元)土佐勤王党にに加盟。翌年隠居山山内容堂の護衛隊50人組に参加、その後容堂の公武合体路線に疑問を深める。土佐勤王党弾圧時事には七卿落ちの実情調査に長州三田尻へでていたために捕縛を免れたが9月脱藩して石川清之助と変名。1864年(元治元)7月、来嶋又四郎の遊撃隊に属して蛤御門の変に参戦、負傷して三田尻に帰還。真木和泉亡き後の忠勇隊の総督に任じられ、五卿の警固にあったた、高杉晋作の奪権闘争を間近に観察。また土方久元らと筑前大宰府に移った五卿の庇護に奔走、土方とともに薩長和解・連合を構想し、坂本龍馬らと共同して1866年(4月2)正月にそれを達成。翌年に4月脱藩を赦免され、5月に土佐藩討幕派の乾退助と提携して薩土倒幕密約を西郷隆盛らと結び、土佐藩の支援を取り付け浪士の集合体である陸援隊を組織。一挙に藩を倒幕路線の誘おうとしたが、同年11月15日、京都三条近江屋で坂本と密談中を幕府見回り組に襲撃され17日に落命した。
  • 鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。
  • ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれた。9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていた。天保12年(1841年)14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着した。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられた。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなった。救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではなかった。それに、帰国できたとしても命の保証はなかった。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろしましたが万次郎の事を気に入った船長は、アメリカへ連れて行きたいと思い万次郎に意志を問い、万次郎もアメリカへ渡りたいという気持ちがあったので、船長とともにアメリカへ行くことを決断をした。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられた。そして、万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れることになった。アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らした。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学習に励んだ。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励しんだ。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニア。金鉱で得た資金を持って、ハワイの漂流仲間のもとへ向かった。そして帰国準備を整えて、日本に向けて出航したのである。嘉永4年(1851年)薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸した。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた。そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのである。
  • 島津久光(1817~1887)29代薩摩藩主島津忠義の実父。幼名晋之進、後又次郎忠教、三郎と称した。父は27代斉興。母は側室由良。島津忠公の養子になって重富島津家を継ぐ。1858年(安政5)異母兄斉彬が急死、その遺言により久光の長男忠義が家督を継承して薩摩藩主となったため本家に戻り、忠義の後見役となって藩の実権を握り、国父と呼ばれた。斉彬の遺志にを継承して公武合体論を唱え、大久保利通ら藩内の攘夷派を諭して突出を押さえた。1862年(文久2)には藩内攘夷過激派を弾圧(寺田屋事件)。この時に命令を背いた西郷隆盛を流刑に処した。さらに同年、勅使大原重徳とともに東下し、幕府に改革を迫った。その帰途に、供の藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)。翌年にはこれが原因となって薩英戦争が勃発した。1864年(元治元)の参与会議では、長州処分・横浜港問題を巡って徳川慶喜と対立。事態打開のために西郷隆盛を呼び、第一次長州征討、薩長同盟締結、第二次長州征討などにあたらせた。この間に藩論を王政復興後は、政府の開明政策に不満を抱きつけた。1871年(明治4)玉里島津家をおこす。1873年内閣顧問、1874年左大臣に任じられたが、1876年政府の欧化政策に批判して鹿児島に帰り隠棲した。1884年公爵になる。国葬により鹿児島市の旧福昌寺墓地に葬られた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「第一次黒井城の戦い」について説明すると1575年10月から1576年1月にかけて行われた。黒井城は現在の兵庫県丹波市にある城で、別名を「保月城」「保築城」ともいいます。建てられたのは1335年頃とされ、足利尊氏に従って新田義貞軍と戦った赤松貞範が、その功績によってこの地を賜り築城された。以降、赤松氏が5代にわたってこの地を治めていましたが、1530年代頃には荻野秋清が城主になっています。城主が変わった経緯については史料が残されておらず、詳しいことはわかっていません。赤井直正は、1529年に後屋城の城主である赤井時家の次男として生まれ、黒井城の城主である荻野氏のもとで幼少期を過ごした後、そのまま養子になりました。そして1554年突如として荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取るのです。理由はわかっていませんが、これ以降彼は「悪右衛門直正」と呼ばれるようになります。1570年には、甥の赤井忠家とともに織田信長に拝謁し、従属。しかし1571年、同じく信長に従属する山名祐豊が丹波に侵攻してくると、赤井直正はこれを撃退し、逆に山名祐豊の居城である此隅山城と竹田城に攻め入った。この事態に、山名祐豊は織田信長に救援を求めました。「信長包囲網」によって苦戦を強いられていた信長が、明智光秀率いる軍勢を送ることができたのは1575年のことです。赤井直正は「信長包囲網」に参加し、黒井城に立て籠もって光秀と闘う道を選びました。これを「第一次黒井城の戦い」といいます。もともと赤井直正が織田信長に従属したのは、信長が第15代将軍の足利義昭を奉じていたからで。しかしすでに両者の関係は冷え込み、年には足利義昭が挙兵していました。赤井直正が織田信長に従属する理由はなくなっていた。また、先に侵攻してきたのは山名祐豊なのに、その援軍要請に応じるという織田信長の判断も、不信感が高まり離反の要因になったと考えられています。
  • 荒木村重(1535~1586)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが、池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて中川瀬兵衛らと池田二十一人衆を形成し主導権を掌握。1571年(元亀2)茨城の茨城佐渡守や高槻の和田惟正らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正元)足利義昭と織田信長の不和に際しては信長に従い、功により摂津一国の支配を任された。従4位下により摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言によって信長の怒りを買い、止むえず本願寺・毛利氏と通じ本拠伊丹城有岡城に立て籠もり信長に叛いた。籠城十カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れた、のち尾道に住んだが。かつては利休に茶の湯を学び、晩年には境に住み茶の湯をもって豊臣秀吉に仕えた。
  • 柳生宗矩(1571年~1646年)江戸初期の幕臣、剣術者。初代柳生藩主。柳生宗厳の五男。通称又右衛門。従5位下但馬の守、1594年(文禄3)徳川家康に拝謁。関ヶ原の戦に際し、大和地方の豪族を東軍に引き入れる工作に成功し、旧領2000石を安堵された。大坂夏の陣にも参戦し、夏の陣後坂崎直盛説得し手を自刃させたのは有名な話である。1632年(寛永9)には大目付に昇進し、石高もしだいに加増されて1636年には大名に列せられ、最終的には宗矩は、秀忠・家光の師範として信任厚く、また有力大名にも多く交わり剣技を教授した。以降、将軍師範地位は江戸柳生が世襲することになる。純粋に武術家というより政治家の側面が強いこともあって、当時からとやかく風評があったようで、父の後を受けて柳生流の地位を高めたことは確かである。技術ばかりでなく理論上の研鑽に努め「兵法家伝書」などの著書がる。理論上の深化には沢庵宗彭との交流があずかって大きい。「不動智神妙録」は沢庵が宗矩に与えたとされる。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    慶長五年、天下分け目の戦い「関ケ原の戦い」が始まった。時を同じくして出羽を舞台に始まったのが、もう一つの関ケ原とも呼ばれる戦い「慶長出羽合戦」である。豊臣方西軍上杉景勝の重臣直江兼続は二万余りの軍勢を率いて、徳川方東軍の最上義光を討とうと山形を攻めていった。最上軍はわずか約三千。畑谷城を落城させた直江軍は、勢いに乗って長谷堂城へと攻め入っていった。義光はこの城を守るために全力を挙げた。直江軍は三回の総攻撃をかけますが、激しい攻防戦が約半月も続いたころ、関ケ原での徳川軍勝利の知らせが両軍のもとに届き、両軍ともに一歩も譲らぬ合戦の最中、直江兼続は西軍の敗北を知ると陣を引き払い、鉄砲隊を巧みに使って三万余りの軍勢を無事に米沢城に帰還させた。武勇・学問ともに優れ、人望厚い直江兼続の潔い退却は見事なものと義光が感心するほどの戦であったと伝えられた場面である。
  • 歴史の回想

    賤ケ岳の戦い(1583年)天正11年4月、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。秀吉は山崎の戦で明智光秀を滅し清洲会議によって織田信長の孫の(三法師)を後継者に据えたが、宿老筆頭格にあたる勝家は、信長の三男(信孝)を擁してこれに対抗した。秀吉は1582年10月に、他の宿老えお排除する形で信長の葬儀を盛大に行い、さらに越前国北ノ庄に居城する勝家が雪で行動が困難な時期を見計らって美濃から近江に兵を進め、信孝を孤立させた。勝家はこれを助けるために南下し、賤ケ岳から柳ケ瀬で合戦が行われたが敗退し、居城の北ノ庄で自殺した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「槙島の戦い」元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。確執の始まり、永禄12年(1569)10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。(信長包囲網)この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    高師直(?~1351)南北朝時代の武将。高師重の子。足利尊氏の執事。1333年(正慶2)3月、鎌倉幕府の命令により、足利高氏(尊氏)が上洛したとき、高一族を率いて高氏に従った。建武政権下では、三河権守、窪所の衆中となり、1334年(建武元)8月の雑訴決断所の拡充再編に際しては、決断所三番方(東山道管轄)の奉行を務めた。翌年7月中先代の乱の際には、尊氏に従って東下し、箱根竹之下の戦で新田義貞の軍勢を破った。1336年に後醍醐天皇との京中合戦に敗北した尊氏は九州に逃れ再起を図った際、尊氏の姪を受けて九州各地の兵船を徴発した。同年5月湊川の戦で、新田・楠木正成の連合軍を破り入京。室町幕府の創設期、尊氏の執事として軍事・財務面を掌握した。1338年(暦応元)5月、北畠顕家軍を和泉石津浜で破り功名を挙げた。機内近国の悪党的中小武士団組織して師直派を結成し幕府政治の主導権を巡って、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする足利義直派と対立した。1347年(貞和3)、南朝方の楠正行が河内・和泉の守護細川顕氏軍を破り、救援に向かった山名時氏軍を破るや、戦線は一気に緊迫し、幕府は楠木軍の北進を阻止するために師直軍を投入した。翌年正月、四條畷の戦で正行軍を破った師直は休む間もなく吉野に侵攻して、南東の行宮や蔵王堂などを焼き払った。この合戦結果、師直派の勢力は急速に伸長した。師直は、直義派を打倒するために1349年8月、自派を京都に集結させ、直義が逃れた尊氏邸を包囲し、直義の政務をとどめて尊氏の子の義詮と政務交代させること、上杉重能と畠山直宗を配流に処することを要求した。このため、尊氏・師直派直義派の対立は決定的なものとなった。1351年(観応2)2月摂津打出浜の合戦で敗れた師直は、上杉能憲によって武庫川で一族とともに討たれた。
  • 高僧名僧伝

    円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
  • 明智光秀(?~1582)安土桃山時代の武将。美濃氏土岐氏の庶流と伝えらえるが、確かなものではない。「永禄六年諸役人付」足軽衆明智とあるので、足利義輝の代から幕臣と思われる。1565年(永禄8)義輝が殺害されたのち、越前朝倉義景に仕えたらしい。68年足利義昭が義景のもとを去って織田信長に頼った際に、細川藤孝とともに仲介工作をしたと伝えられ、以降光秀は幕臣であるとともに、信長にも仕えることになった。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕置きなど京都の近辺の政務を1575年(天正3)頃まで担当した。他方、武将としても、1570年(元亀元)信長の朝倉・浅井攻めに参加、翌年近江南部のの一向一揆や延暦寺との戦いに従軍し、信長による延暦寺の焼き討ち後に、その旧領近江国志賀郡を与えらえて坂本城を築城した。この頃より義昭とは不和となり、1573年に信長が義昭を攻めて追放した際には信長方に従軍した。同年7月信長から惟任の名字を受け、日向守に任じられた。同年より主として丹波攻略を担当し、1579年八上城主波多野秀治らを降して攻略を完了、同国を与えられた。徳政令の発布のなど同国の民政にも努めた。1580年佐久間信盛の追放後は、大和の筒井順慶など畿内近辺諸将を指揮下に置いた。1582年5月、備中高松城を攻囲中の秀吉から救援をを求められた信長は決意し、安土城で徳川家康の饗宴役にあった光秀を急遽出陣を命じたのち、少人数の供のみで上洛した。有力武将が諸方面に出陣中なのに乗じて、光秀は6月2日京都本能寺に信長を、二条御所に信忠を討った。しかし、毛利氏と甲江和して急ぎ東上した秀吉に対して、6月13日にに山崎の戦で敗れ、敗走中に小栗栖で土民に襲撃され負傷し自害をした。
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    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    慶長14年(1609年)2月、ポルトガル領のマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場でポルトガル船であるマードレ・デ・デウス号の船員と些細なことから口論、そして乱闘となって、晴信側の水夫60名ほどが殺害され、積荷まで略奪されるという事件が起きた。この事件に晴信は激怒し、直ちに徳川家康に長崎に寄港してくるマードレ・デ・デウス号への報復の許可を願い出た。家康はこれを放置しておけば、日本の国家権威が甘く見られると判断して即座に晴信に報復するように命じた。そして晴信は同年12月12日、マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃し、3日後には沈没させてしまった。そしてこの時、晴信の報復処置への目付役として同行していたのが、家康の側近・本多正純の与力である岡本大八であった。有馬晴信の報復処置は、大八の報告によって本多正純を通じて家康に伝えられ、家康は有馬晴信を激賞した。晴信はキリシタン大名であり、実は大八もキリシタンでしたのでその関係から晴信は大八をもてなしたのであるが、この時、大八が晴信に「旧有馬領であったが、今は鍋島氏の所領となっている藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい」という虚偽を囁いたそうである。晴信としては旧領の回復は悲願であった。大八の主君・本多正純は家康の側近中の側近であり、正純が家康に働きかけてくれれば、旧領の回復は間違いないと思い込んでしまい、そして晴信は大八に金品を渡すとともに、正純に家康へ働きかける運動資金として、大八を通じて金銀を提供を思い立った。しかし、岡本大八はこれらを全て自分の懐に入れて着服したのである。しかも大八は、晴信に家康の朱印状まで偽造して渡し、その見返りとして更なる運動資金の提供を求めた。その結果、有馬晴信は6000両にも及ぶ金銀をつぎ込みましたが、大八が全て懐にしまい込み、有馬氏の旧領回復運動の資金として遣うことはなかった。時間が経てども旧領を与えるという恩賞の通達が来ないことに業を煮やした晴信は、遂に直接本多正純に面会し、恩賞を催促したのである。当然、本多正純は何も知るはずも無く、晴信の訴えを聞き驚愕した。直ちに与力の大八を呼びつけて詰問したが、大八はシラを切り続けたので、最終的には徳川家康に申し出て、裁決を仰ぐことになった。
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    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「御館の乱・御館は新潟県上越市にあった城館。かつて越後の中心地として府中あるいは府内と呼ばれていた一角、今日のJR直江津駅の西南方、関川の自然堤防上にあった中世の城館である。東西約250m・南北約300mの規模を持ち、主郭を含め5つの郭で構成されていたもので、越後では最も規模の大きな城館とされる。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を居城としていた関東管領の上杉憲政は1551年(天文20)3月、小田原北条氏(北条氏康)が上野に侵攻したことから、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れた。謙信は憲政を迎え、その居館(関東管領館)として、弘治年間(1555~58年)に居城の春日山城(上越市)の城下に建設したといわれている。謙信はこの館を外交館としても使用した。その後、御館は謙信の死後の1578年(天正6)、上杉景勝と上杉景虎の2人の養子が争った御館の乱の主戦場の一つとなった。御館の乱では景勝が春日山城を拠点としたのに対し、景虎は春日山城を脱出して御館を拠点とした。翌1579年(天正7)2月18日、景勝は御館を包囲して食糧を遮断し、3月17日に一斉攻撃を行い、御館は炎上・落城した。このとき、上杉憲政は春日山城に和議交渉に向かう途中で景勝の兵により殺害された。上杉景勝が豊臣秀吉により会津へ移封された後、この地に入った堀秀治は御館跡を利用したともいわれるが、1599年(慶長4)時点ですでに耕地になっていたといわれる。1964年(昭和39)に行われた跡地の発掘調査で、建物や庭園、井戸跡が見つかり、櫛や簪のほか鉛製の銃弾なども発見された。現在、御館跡の一部が御館公園となっている。園内には御館があったことを記した石碑が建っている。JR信越本線・北陸本線直江津駅から徒歩約10分。
  • 戦国時代

    信長包囲網の中心にいたのは、すでに室町幕府としての実体が無いに等しい将軍足利義昭であった。義昭は、元亀3年(1572)10月に、武田信玄が西上の軍をおこしたことで強気になり、信長と敵対したが、翌天正元年4月に武田信玄が病死してしまったことで、義昭も信長に攻められ、追放された。信長にとって、残る近くの敵は石山本願寺の顕如と浅井・朝倉両氏だけとなった。8月に入って、小谷城包囲の戦いが続けられていたが、小谷城の支城山本山城の阿閉貞征が信長側に寝返ってきたという連絡が入った。信長は8月8日、自ら近江に出陣。その情報を得た朝倉義景は、自ら2万の大軍を率いて小谷城の後詰に出て、13日、小谷城の北で両軍はげしい戦いとなった。信長としては、そこで雌雄を決しようという覚悟で臨んでおり、朝倉軍を撃ち破り、追撃している。信長はあらかじめ、「朝倉軍が退散するのを見逃さず、追撃せよ」と命じていた。しかし、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益ら、信長家臣の錚々たる部将たちは朝倉軍の退却を知らず、追撃が遅れ、信長から痛罵されていた様子が『信長公記』にみえる。そのとき、佐久間信盛が、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」と弁解し、さらに信長の怒りを買っている。後年、信盛が織田家から追放されたのも、この時の一言が原因であった。信長は逃げる朝倉勢を追い、木之本から刀根越えをし、疋田敦賀に乱入していった。刀根坂の戦いは特に激戦として知られている。14・15・16日と信長は敦賀に逗留している。浅井軍の動きを牽制していたのか朝倉文化とも呼ばれる、洗練された生活様式。その城下の暮らしまでも再現されている。再現された一乗谷の暮らしもしれない。しかし、浅井軍に動きはなかった。すでに信長と戦うだけの気力も軍事力もなかったようである。17日、木ノ芽峠を越え、18日には府中の龍門寺に本陣を置き、いよいよ朝倉氏の本拠一乗谷に迫った。一乗谷には麓の平時の館のほか、山上に詰の城としての山城があり、そこに籠って戦えば戦えるだけの軍事力はあったと思われる。しかし、頼りにしていた平泉寺の衆徒が信長方についてしまい、その平泉寺衆徒によって一乗谷も焼き払われてしまったため、義景は一乗谷に入ることができず、結局、大野郡の六坊賢松寺に逃れたが、そこで20日、一族の朝倉景鏡に迫られ、自害して果てている。
  • シリーズ65冊
    220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。
  • 建武の新政

    後醍醐天皇(1288年~1339年)鎌倉末期から南北朝時代の天皇。1318年(文保)~1339年(暦応2・延元4)在位。後宇多天皇の第二皇子、母は藤原忠継の女談天門院忠子。諱は尊治。1308年(延慶元)花園天皇の皇太子となり、1318年即位。1321年(元亨元)12月後宇多法王の院政を廃して記録書を再興親政を開始た。吉田定房、北畠親房らを側近とし、さらに家格にとらわれず日野資朝・俊基らを積極的に登用した。生前みずからの諡号を「後醍醐」と定めていたようで、延喜・天暦の治を行った醍醐・村上天皇の治政を理想としていた。宋学を深く学び、宋朝型の君主独裁政権を目指していたとも言われている。天皇は諸政の刷新に努めたが、その実をあげるためには、皇位継承問題に容喙する鎌倉幕府の存在が障害であった。天皇は討幕の計画を練るために無礼講や宋学の購書会を開いて同氏と糾合した。しかし、この計画は事前に漏れ、1324年(正中元)9月、六波羅探題軍の急襲によって土岐頼兼、多治見国長らが殺され失敗した。天皇は、こののちも討幕の意思を変えず、子の尊雲法親王を天台座主としたり、畿内の大社寺の兵力を味方に引き入れようと努力した。日野資基を山伏に変装させ諸国の政情や武士たちの経済力を調査させた。1331年(元弘元)4月、吉田定房の密告によって、またもや討幕の計画が発覚した。鎌倉幕府は直ちに長崎高貞らを上洛させ、日野俊基、円観、文観らを逮捕した。同年8月、天皇はかろうじて京都を脱出して笠置に布陣して、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。しかし、幕府の大軍の前に笠置砦は旬日を経ずして陥落し、天皇は捕らえられて翌1332年3月、隠岐へと流刑になった。隠岐の配所に従ったのは阿野廉子や千種忠顕らであった。こうして討幕運動は鎮圧されたかに見えたが、同年11月頃から、吉野で護良親王が、また河内千早城で楠木正成らが挙兵すると、諸国の反幕運動が急速に展開した。諸国の悪党の蜂起によって幕府の支配機構は麻痺した間隙をぬって、1333年2月、天皇は隠岐を脱出して伯耆名和湊の海商名和長利の助けを受けて船上山に立て籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    宝亀11年(780年)3月、突如として呰麻呂は反乱を引き起こすこととなる。当時、政府による東北地方経営を現地で取り仕切っていたのは陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純であった。按察使とは複数の令制国を管轄して国司を監察する律令国家の地方行政の最高官である。その紀広純が山道蝦夷の本拠であった胆沢攻略のための前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)造営を計画し、工事に着手するため呰麻呂と陸奥介大伴真綱、そして牡鹿郡大領の道嶋大楯を率いて伊治城に入った折、呰麻呂は自ら内応して俘軍を率い、まず道嶋大楯を殺害、次いで紀広純も殺害するに至ったものである。大伴真綱のみ多賀城まで護送したが、これは多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる。多賀城には城下の人民が保護を求めて押し寄せたが、真綱は陸奥掾石川浄足とともに逃亡してしまった。このため人民も散り散りとなり、数日後には反乱軍が到達して府庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ったという。この時伊治城・多賀城ともに大規模な火災により焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている。この反乱の理由として『続日本紀』では、呰麻呂の個人的な怨恨を理由に挙げている。夷俘の出身である呰麻呂は、もともと事由があって紀広純を嫌っていたが、恨みを隠して媚び仕えていたために、紀広純の方では意に介さずに大いに信頼を置いていた。これに対し道嶋大楯は常日頃より呰麻呂を夷俘として侮辱していたために、呰麻呂がこれを深く恨んでいたとするものである。道嶋大楯は呰麻呂と同じく郡の大領であるが、道嶋氏はもともと坂東からの移民系の豪族であり蝦夷ではない。また、同じく道嶋氏からは中央貴族となった近衛中将道嶋嶋足も輩出しており、陸奥国内での勢力は他を圧するものであった。道嶋大楯がつとに呰麻呂を侮辱してきたのもその威を借りたものと考えられ、政府に協力し功績を認められて地位を上昇させてきた呰麻呂にとって耐えがたい屈辱であったと考えられる。一方で呰麻呂の蜂起に同調して多数の蝦夷が蜂起しており、その中には宝亀9年、呰麻呂と同時に外従五位下を賜った吉弥侯部伊佐西古も含まれる。このことはすなわち、事件の原因が呰麻呂の個人的な理由に留まるものでなく、政府の政策に多数の蝦夷が怨恨を抱いていたことを示すものである。
  • 岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となる。その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山となり、旧名は稲葉山と言う。そのため、1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃している。その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせた。そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握った、1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居した。その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死してしまった。長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所である。斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退している。1564年、竹中半兵衛・安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こっている。西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行った。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問している。1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となった。1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従した。
  • 永禄12年(1569年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し摂津に入国、芥川山城主の三好長逸が阿波国に逃走し、松永久秀が織田軍に与すると、久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津三守護に新たに抜擢された幕臣和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津は常に戦乱の地であり、信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ1つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化した。荒木村重は元亀元年(1571年)7月に阿波から再上陸した三好長逸の支援を受けており(野田城・福島城の戦い)、この対立は三好氏と幕府軍の勢力争いでもあった。元亀2年( 1572年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。未だ陣形が整わない茨木・和田連合軍から、郡山城主郡正信が単身で荒木・中川連合軍の陣取る馬塚に出向き、時間稼ぎをしようとした。惟政の息子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。この時郡正信は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである(『陰徳太平記』)。しかし惟政はこの申し出を全く聞き入れず、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである(『日本』)。また、進言を聞き入れてもらえなかった正信は、名馬「金屋黒」に乗り戦闘に参加したが、荒木・中川連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった(『陰徳太平記』)。村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台を与える」という陣礼を出し、清秀が惟政の首を取った。
  • 高松城の水攻めは、三木の干殺し、鳥取の飢え殺しと併せて、秀吉三攻めと称さる事も。備中国高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城を巡る、主清水宗治と包囲者羽柴秀吉の戦い。水攻めの最中に本能寺の変で織田信長が明智光秀にたれた為、自体は講和によって終結している。備中国は守護大名・細川氏が衰退した後、複数の国人領主によって支配が争われるという、文字通り麻の如く乱れた状態にあった。 このうち三村家親は毛利氏に接近して勢力を拡大したが、当時備前を支配していた浦上氏傘下にあった宇喜多直家によって暗殺されたのをきっかけに衰退した。三村氏傘下にあった清水宗治は先んじて毛利氏に帰順し、小早川隆景配下となって中国平定に尽力、信任を得ていた。経過天正10年(1582年)、並び立つ政敵のほとんどを排除した織田信長の命により、羽柴秀吉が中国攻めを本格化する。この時秀吉は清水宗治に対し、降伏すれば備中国を安堵すると持ち掛けたが、宗治はきっぱりと断ったとされる。 3000から 5000の兵をもって彼が籠城した備中高松城は湿地に立つ平城で、周囲のドジョウはぬかるんで騎馬や兵卒を踏み込ませず、近づく事も困難だった。過去2度の籠城戦の経験則から周囲の小城を攻め落とし、3万近い大軍で城を包囲した秀吉だったが、城内からの反撃にあって二度敗退を喫する。安芸国(現在の広島県)からは毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるという報を受け、秀吉は信長に援軍を要請する。信長からは明智光秀を援軍に送ると返事があったが、これを待たず備中高松城をただちに落とすべしとの厳しい命令もついてきた。そこで黒田官兵衛の献策により、秀吉は地の利を逆手に取った水攻めへと方向転換する。蜂須賀正勝が築堤奉行に任命され、城の近くを流れる足守川の東、蛙ヶ鼻(かわずがはな)から全長約 4Km、高さ約8の堅牢な堤防を築いた。この時動員された兵士や農民には、土1俵に対して銭 100文米1升という報酬が払われたが、これは当時でも非常に高額だったという。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    有岡城の戦いは、織田信長に重用されていたはずの荒木村重が、突如信長を裏切ったことによって起こった戦いである。あの信長に謀反を起こすことは、無事でいられるとは思われない。信長に背いた荒木村重は、その後どんな運命をたどることになったのか、意外な人生が待ち受けていたようである。天正元年(1573)3月(織田信長が足利義昭との対立を深めていた頃)より、信長に仕え始めた荒木村重。天正2年(1574)11月には、摂津の国の支配権を与えられるまでになっていた。他家(池田氏)の家臣出身でありながら、村重はかなり優遇されていたようである。有岡城の戦いの経過と結果同年11月9日、第二次木津川口の戦い勝利の報せを聞いた信長は、京都を出陣した。翌日10日には、織田信忠・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らも、摂津に入りをした。高槻城・茨木城の開城高山右近の高槻城、中川清秀の茨木城。有岡城へ向かう途中にあった2つの城があって、信長はキリシタン大名の高山に対して、こんな方法で切り崩しを図った。宣教師を呼び寄せ、高山を説得してもらうように依頼したのである。(1)説得できたらキリスト教を保護(2)引き受けないなら、キリスト教は禁教という条件を突きつけたのです。すごい二者択一。宣教師の説得を受け、高山右近は高槻城を開城した。高山は村重に息子と姉を人質に差し出していたので、苦渋の決断以外の何物でもなかったでしょうね。ただ息子と姉は無事だったようである。11月16日、高山は信長のもとを訪れ、信長より領地を与えられた。そして24日には中川清秀が降伏し、茨木城も開城。続いて、大和田城などが開城している。総攻撃の失敗有岡城を奪取すべく、信長は5万もの大軍で取り囲みました。そして12月8日午後6時、総攻撃が開始された。しかし有岡城は、村重が大改修を行って完成させた堅固な城。3つの砦と城下町を取り込んだ惣構え(城郭全体を土塁・堀で囲んだ構造のこと)を持っており、そう簡単に攻略できるような城ではなかった。村重軍の激しい反撃に遭い、信長軍の攻撃は失敗。信長の側近・万見重元はここで討ち死にしている。
  • 戦国期の地域的な結合体。雑賀荘(しょう)・十ヶ郷・中郷・宮郷・南郷の5郷(郷は組・緘・クサリともいわれた)から構成され、その範囲は和歌山市・海南市の大部分を占める。構成員には神官・浄土宗徒もおり、従来いわれてきたような本願寺の門徒組織とは考えられない。1542年(天文11)に河内に進発する守護畠山稙長の軍勢中にあるのが初見で、以後も畠山氏の軍勢として活動している。1562年(永禄5)に、代々室町幕府奉公衆で御坊市に本拠を置く湯河氏と取り交わした起請文などから、1534年(天文3)以降同氏と一揆を結び、「惣国」と称し、守護畠山氏を推戴していたことがわかる。当地には本願寺門徒も多く、守護代遊佐氏に畠山昭高が殺された1573年(天正1)以後、織田信長方(中郷・宮郷・南郷)と反信長方の本願寺に結ぶ勢力(雑賀荘・十ヶ郷)とに分裂し、77年(天正5)信長軍による攻撃を受け、いったんは降伏するが、80年の石山退城まで本願寺を支える主力部隊として活動した。とくに鈴木(雑賀)孫一と鉄砲衆は著名で、宣教師ルイス・フロイスは「軍事に於ては海陸共に少しも根来に劣らぬ事で、其の戦場に於ける武勇によって日本に大名を得た」と記している。同年以後は長宗我部元親と結び、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、羽柴秀吉の背後を攻撃したため、翌年紀州攻めにあい、太田城(和歌山市)に立てこもるが水責めにされ、降伏し、一揆は解体された。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    1180年(治承4)10月、駿河国富士川岸で行われた源平合戦の一つ。同年8月の石橋山の敗戦から再起し、相模国鎌倉を本拠として南関東に軍事政権を打ち立てた源頼朝を追討するため、9月末に京都を発進した平維盛を総大将とする平氏軍は10月18日富士川西岸に漂着した。これに対して頼朝軍は鎌倉を出陣20日富士川近くの賀島に至った。また富士川東岸には甲斐源氏軍が布陣しており、平氏は軍はまずこの軍勢と対戦することになった。所が、もともと兵力は・兵糧に不安有戦意は低かった。平氏軍は「山愾記」等によれば20日夜半富士川河口の浮島ケ原に群棲していた水鳥数万羽が飛び立ち羽音を源氏軍の襲来と誤認し一斉に退却、戦わずして敗北した。頼朝は平氏軍を追って西国へ攻め上がりうとしたが、諸将に引き留められて、東国の地固めに鎌倉に帰還した。この時の平氏軍の敗走は、以降の東国の反乱状態を長期化させる原因となった。治承寿永の内乱の最大の画期となった。
  • 天正元年(1573)8月、織田信長は朝倉氏を滅ぼして(朝倉征伐:刀禰坂の合戦~一乗谷の戦い)越前国を所領に収めると、前波吉継を一乗谷城に置いて守護代に任じるとともに、降伏した朝倉旧臣にも旧領を安堵し、その支配を委ねた。この前波吉継は、かつては朝倉氏の重臣であったが元亀3年(1572)に織田氏へと寝返り、朝倉征伐において侵攻の案内役や国衆の調略などで功績を挙げた武将である。越前国の隣国・加賀国は長享2年(1488)6月に一向一揆が守護・富樫政親を滅ぼして(高尾城の戦い)以来「百姓の持ちたる国」と言われ、一向宗徒によって統治の成されてきた国であった。朝倉氏はこの加賀国の一向一揆と交戦・和睦を繰り返しつつ越前国を維持してきた実績があり、信長はその朝倉旧臣を起用することで越前国を維持しようと試みたのである。しかし、この信長の試みは失敗であった。前波による越前国の統治はうまくいかず、朝倉旧臣同士の反目や野心が露呈されることとなったのである。とりわけて前波と富田長繁の対立は顕著で、天正2年(1574)1月に至ってついに富田長繁は一向一揆と結んで味方として前波の居館を襲って討ち果たし、さらには鳥羽野城主の魚住景固をも謀殺して、越前国の支配権を握ろうとした。しかしその長繁も一揆の敵である信長に意を通じたとして、石山本願寺より派遣された坊官・七里頼周の指揮する一向一揆によって翌2月に討たれ、さらには織田勢力に属していた朝倉景鏡・朝倉景冬・溝江長逸ら朝倉旧臣や平泉寺などもことごとく滅ぼされ、越前国も「一揆持ちの国」と化したのであった。信長もこうした情勢を察知していたであろうが、この頃は甲斐国の武田勝頼が領国拡大へ向けて活発な動きを見せていたために美濃・遠江国方面への警戒を優先しており、越前国方面への対策は、近江国に配した羽柴秀吉らに命じて警固を強化するに止められたのである。しかし、一向一揆によって制圧された越前国では新たな対立が生じていた。前波吉継・富田長繁を倒した際の大きな原動力となったのは主に農民層の門徒による爆発力であったが、武家による統治を除いたあとの支配権は、新たに派遣された本願寺の坊官らに握られた。しかしこの本願寺坊官と在地寺院の坊主衆は支配権をめぐって水面下で対立し、さらには在地坊主衆は以前と変わることのない負担を農民層に強いたため、農民層の不満は募るばかりだった。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    鎌倉幕府を開いた事で知られる源頼朝の父である源義朝は、源氏の頭領として平家に挑みますが、1159年平治の乱で敗れて殺害され、勝利した平清盛は、三男であった源頼朝を伊豆に流罪とします。そして、流刑の地である伊豆にて北条時政の娘・北条政子を妻とした源頼朝は、やがて平家打倒の挙兵を決意し、以仁王の令旨を受けて1180年8月17日に伊豆目代の山木兼隆を討ちます。その後、源頼朝は北条時政、北条義時、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐奈田義忠、大庭景義、佐々木四兄弟、加藤景廉、仁田忠常らを従えて相模を目指して進軍開始しますが、僅か300騎程度と言いますので、総兵数にすると約1200名と言ったところでしょうか?兵力が少なかったため、三浦半島の三浦義澄、和田義盛ら500騎を頼りにし、三浦一族は合流すべく軍を発しました。当然、平家は討伐の軍を発して、大庭景親、俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら相模の平家寄りの諸将が3000騎を率いて伊豆へと向かいます。そのため、源頼朝は石橋山に陣を構えて、谷ひとつ隔てて大庭景親の大軍と対峙しました。相手が大軍であったため、道が狭い箇所にて迎え撃とうと考えたのでしょう。作戦的には悪くないでのであるが、しかし、伊東の豪族・伊東祐親が300騎を率いて、源頼朝の背後を塞いだため、源頼朝は挟まれた形になり、状況的にはかなり不利になります。頼りの三浦一族も、大雨も降った為、酒匂川が増水し渡河できず、合流が困難となり、増々不利でした。このような状況の中、平家側の大庭景親は有利な状況でしたが、三浦勢が到着する前に、雌雄を決した方が更に得策だと判断したようで、1180年8月23日に暴風雨の中、夜戦を仕掛けます。平家物語によると、北条時政と大庭景親が名乗りあう「言葉戦い」が行われたあと、戦闘になったとされます。大庭景親は「後三年合戦にて、源義家に従って奮戦した鎌倉景正の子孫である」と名乗ります。対する北条時政は「景正の子孫が、何故、義家の子孫である頼朝に弓を引くことができるのか?」と言い放ちました。この頃の武士の名乗り合いは、相手の悪口を即興で言います。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    加賀・越中など北陸の一向一揆は、織田信長と戦った石山本願寺の一向一揆と同様に大量の鉄砲を保有しており、また一向宗の宗徒で構成されていたため団結力も強固であった。謙信にとって一向一揆は、武田信玄や北条氏康に次ぐ強敵であった。謙信はこの尻垂坂の戦いを含む前後一連の戦いでの勝利により、越中において一揆等の反上杉勢力に対する優位が決定的となり、主導権を確立して後に越中を平定。京への上洛を目指す道を拓いた。上杉謙信と越中一向一揆の対立越中は元来、加賀・越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆が強固な勢力を持つ国であった。越後の上杉謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆と激しい戦いを繰り広げてきた。謙信が越後守護代として家督を相続し、さらに越後国主になって以降も越中一向一揆との対立は続いた。北信濃・川中島において謙信と敵対した甲斐の武田信玄は、謙信の背後を牽制するため、加賀一向一揆・越中一向一揆を扇動した。弘治2年(1556年)8月23日、謙信の家臣、箕冠城主・大熊朝秀は信玄に通じて謀反を起こし、一揆勢を率いて越中から越後へ攻め入ったが、謙信は上野家成を派遣し、これを破っている。(駒帰の戦い).。永禄3年(1560年)3月29日、謙信は、一揆勢と結び勢力を拡大する越中守護代・神保長職を、その居城・富山城に攻め勝利を収めている。しかし謙信が関東へ出陣し、相模の北条氏康と戦っている間、長職は再起して攻勢に出た。同5年(1562年)9月、謙信は長職を増山城に攻め、降伏させた。永禄11年(1568年)、謙信は、先年家臣団の反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱の復権を支援するため、越中へ侵攻。放生津で一揆勢と対陣しつつ、3月16日に守山城へ攻撃を開始した(放生津の戦い)。 これに対し、越中一向一揆の頭領である勝興寺(安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆の頭領・金沢御坊の坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信の越中侵攻を報じ、警戒を呼びかけた(『勝興寺文書』)。25日、謙信の家臣で揚北衆の本庄繁長が本国・越後で反乱を起こしたとの知らせが入り(本庄繁長の乱)、攻撃を中止。
  • 甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。 新選組は京都守護職指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった。近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を浪費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。一方。同年正月には甲府城へ公家の高松実村を総帥とした「官軍鎮撫隊」が入城した。高松隊は高松を中心に伊豆国出身の宮大工・彫刻師である小沢一仙らを加えた草莽諸隊で、甲斐で年貢減免などの政策を約束しつつ甲府城へ入城したが、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない高松隊への帰国命令が発せられ、小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)。同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。甲府城内の勤番士は立退きを命じられ、後に官軍は甲府市中に残った勤番士を場内に戻し、近藤派に属したものは入牢させた。甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、壱弐壱まで減ってしまったという。近藤は会津藩の兵がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走を防いだ。土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を頼むが黙殺される。参月六日、山梨郡一町田中村・歌田において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年)6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。天正2年(1574年)2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。
  • 手取川の戦いは、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦である。七尾城主の畠山義隆が死去し、まだ5歳~6歳である畠山春王丸が家督を継ぐと、春日山城の上杉謙信は、1576年9月から対立していた能登へ侵攻した。この時、畠山家で実権を握っていた長続連・長綱連の親子は、2000にて七尾城に籠城した。能登・七尾城は要害であったため、2万の上杉謙信でも、数ヶ月では容易に落とすことはできなかった。そこを、小田原城の北条氏政が1577年3月に、北関東へ出陣したため、関東の諸将より救援要請を受けた上杉謙信は、越後へ兵を戻した。すると、畠山勢が反撃に出たため、7月になって上杉謙信は再び能登へと出陣を開始した。畠山勢はまた七尾城に籠りましたが、今度は危機感を募らせて、領民を含めて15000もの大軍で籠城した。さらに、長続連は、上杉勢に対抗するため、子の長連龍を安土城に派遣して、織田信長に援軍要請した。織田信長は、越後を狙っていましたので、この要請を了承して、8月8日、北ノ庄城の柴田勝家ら織田勢が出陣した。柴田勝家が総大将で、従った織田勢の武将は、滝川一益、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀、斎藤利治、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、長谷川秀一、徳山則秀、堀秀政、若狭衆と総勢4万の大軍である。七尾城の長続連も安心したと言いたいところですが、15000での籠城は兵糧の消耗も激しく、幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病し、疫病で亡くなる者が多発した。一説によると、屎尿処理ができず、極めて不衛生な状態になったとの事で、コレラなどの疫病が発生したと考えられている。そして、上杉謙信に近かった遊佐続光は長続連への権力集中を嫌い、温井景隆や三宅長盛の兄弟らと上杉家に内応した。こうして、9月15日、七尾城の門が開いたところを上杉勢がなだれ込み、長続連だけでなく、その子・長綱連と弟・長則直や、長綱連の子・竹松丸と弥九郎ら一族を討ちとった。ちなみに、長一族で生き残ったのは、安土城に行っていて長連龍と、長綱連の末子・菊末丸くらいであった。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    九戸政実は同盟関係にあった櫛引(くしびき)、久慈(くじ)、七戸城主・七戸家国、そして、七戸朝慶の娘を正室に迎えていた武田系七戸氏の七戸慶道(七戸伊勢守慶道)らを誘って5000にての実力行使に出ました。九戸勢の櫛引清長が苫米地に攻撃し、南部家に組する館・城を次々に攻めたため、三戸南部家は北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦しています。また、九戸政実は、北信愛の次男・北秀愛が守る一戸城に夜襲をかけたため、北秀愛はいち早く南部信直に反乱を伝えたとあります。南部家の中でも円子金五郎、長内庄兵衛、種市伝右衛門ら精鋭を揃えた九戸勢は強く、南部信直は子の南部利直と北信愛を大坂城に派遣して、豊臣秀吉に救援を要請しました。そのため、総大将・豊臣秀次に徳川家康が加わり、仙北口からは上杉景勝、大谷吉継、津軽方面には前田利家、前田利長、、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が進軍。そして、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らが指揮下に入、奥州再仕置軍は一揆を平定しながら、蒲生氏郷や浅野長政と合流し、8月下旬には南部領近くまで到達しました。九戸政実は、8月23日に小鳥谷摂州ら50名にて、美濃木沢で豊臣勢に奇襲をかけますが、多勢にむぜいで、9月1日には九戸勢の根反城が落ち、九戸政実らは九戸城にて籠城しました。そして、九がつ2日には、豊臣勢6万が九戸城を包囲し、九戸城の戦いとなりました。妻子や城兵は助命すると言う言葉を受けて、豊臣勢に降伏した九戸政実でしたが、九戸城を開城すると、城内の者は撫で斬りにされ、火を放たれたとあります。九戸政実・九戸実親・七戸家国らは、三ノ迫(さんのはざま)に連行されて斬首となりました。九戸政実、享年56歳であったと伝えられています。言い伝えでは、斬首された九戸政実の首は、家臣・佐藤外記が密かに持ち帰り、九戸神社近くの山中に埋めたされています。九戸氏は滅亡しましたが、九戸政実の実弟・中野康実は、豊臣家の九戸城攻めの際に、道案内した功績もあり花輪城を預かり、その子孫が、のちに八戸氏・北氏と共に盛岡藩・南部家の家老を務め、南部家「御三家」の一つとして続いています。
  • 三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる三好長慶の時代、三好政権を支えてきた三好三人衆。彼らは長慶の死後も政権の中枢を担いますが、信長が上洛してきた時に反発して幾内から追い出されてしまった。本記事で扱う「野田城・福島城の戦い」は三好三人衆による幾内奪回戦の一つです。合戦の途中で本願寺勢力も三好方に加担したことから「第一次石山合戦」とも言われ、以後10年にもわたる石山合戦の端緒となりました。さて、戦の展開はどのようなものだったのでしょうか。背景は信長の上洛にあり織田信長が上洛して将軍足利義昭を誕生させたのは永禄11年(1568) このときに信長上洛を阻止しようとした三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、戦いに敗れて京都を追い出されます。これがきっかけで「織田 vs 三好」という敵対関係ができあがることになった。再び京の奪還を狙っていた三人衆は、翌年に入ってすぐに将軍義昭の仮御所・六条本圀寺を攻撃。しかし、このときも明智光秀らに阻まれて京都奪還は叶わなかった。(本圀寺の変)それでも三人衆は反織田を貫き、元亀元年(1570)6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、同 19日にこれを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が摂津の荒木村重を調略。村重は池田城から主君・池田勝正を追放して三好方に与する。7月21日に三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城。ここを拠点として反織田の兵を挙げるためにのもである。この三人衆の動きに呼応し、細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったと言われている。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子がいち早く対応した。彼らは大和の信貴山城で戦闘準備を整えると、27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えた。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    1570年(元亀元年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)率いる「朝倉軍」が対峙した。約3万の織田・徳川連合軍に対し、約4,500の朝倉軍。当初は、織田・徳川連合軍が優勢であったが、織田信長の義弟「浅井長政」の裏切りにより、形勢逆転。戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている。織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)を平定。三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康、及び近江国北部(現在の滋賀県北部)の浅井長政と同盟を組み、美濃国(現在の岐阜県南部)を支配していた斎藤家を滅亡させた。加えて、伊勢国北部(現在の三重県北部)も支配下に入れた織田信長は、1568年(永禄11年)に、当時の将軍「足利義輝」を殺害。織田信長を頼ってきた足利義輝の弟・「足利義昭」を擁して上洛を果たした。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長は、足利義昭を名目にして各地の大名に上洛を催促していった。しかし、越前国(現在の福井県)を支配する朝倉義景は再三これを無視。越前国は美濃国と京都の間に割って入るような位置にあり、織田信長は越前国を支配下に入れる必要があり、そこで、織田信長は朝倉義景の上洛拒否を叛意ありとし、これを口実に越前国へ出兵した。浅井長政の祖父「浅井亮政」は浅井氏の初代当主。当時、浅井亮政が仕えていた「京極氏」(きょうごくし)や「六角氏」と対立しながらも、北近江へ勢力を拡大した人物である。京極氏は鎌倉時代以前より近江にいる一族で、源氏の流れを汲む武家。また、六角氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて勢力を持った武家で、近江国南部を中心に勢力を誇っていた。朝倉氏との同盟関係1525年(大永5年)、浅井亮政は「美濃の内乱」に介入した。六角氏と朝倉氏は浅井亮政を牽制。このとき、朝倉氏より派遣されたのが、「朝倉教景」です。朝倉教景は約5ヵ月間、浅井亮政と六角氏の調停に務めた。苦戦を強いられていた浅井亮政にとって、この調停は非常にありがたい物でした。そして、これ以降、長きに渡って浅井氏と朝倉氏は同盟関係で結ばれることとなるのです。
  • 三好長慶の家臣として頭角を顕し、長慶の亡き後は長期に亘って三好三人衆と畿内の覇権を争っていた松永久秀は永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に逸早く降伏した。その後は信長の配下武将として大和一国を安堵されたが、やがて足利義昭・三好三人衆・石山本願寺・武田信玄らと結託して信長を裏切るに至る。元亀4年(1573)7月、信長はついに義昭を追放した(足利義昭の乱:その2)。これによって室町幕府は滅亡し、元号は元亀から天正へと改められた。久秀は再び信長に降伏して許された。大和国の統治権や居城・多聞山城などを没収されこそはしたが、助命されたのである。裏切りには苛烈な処置を与える信長が久秀を許したのは、不安定な畿内の統治を進めるにはまだ久秀の力が必要だったのであろう。ところがその3年後、大和国の守護にかつて敵対していた筒井順慶が据えられた。ここに久秀の信長への反感が募ったといわれる。そして天正5年(1577)、久秀は再度の謀叛を起こした。その当時信長は北陸平定を進める柴田勝家に宛てて大軍を派遣しており、畿内の備えは手薄になっていた。それに加えて越後国の上杉謙信が兵を率いて上洛するという情報もあり、ここを好機と見てのことだったのであろう。佐久間信盛配下の将として石山本願寺を包囲する天王寺砦に詰めていた久秀は8月17日、突如として息子・久通と共に大和国に帰り、信貴山城に籠もった。軍勢は3百騎、8千余人といわれる。松永久秀はかねてより領内統治をするには多聞山城、軍事においては信貴山城と、2つの城を使い分けていた。信貴山城は河内国と大和国の境界をなす生駒山地にある山城で、近世城郭の祖といわれる久秀の縄張りだけに、7方に伸びる峰と谷を要害として巧みに作りあげられていて守りは極めて堅い。久秀の突然の帰国の報に、信長は松井夕閑を派遣して帰国の理由を尋ねさせたが、夕閑は城の中にさえ入れなかったという。しかし、上杉謙信は北陸地方で織田勢を打ち破る(七尾城の戦い~手取川の合戦)と自国へと引きあげていったのである。上杉勢侵攻の脅威が除かれるとすぐに、信長は久秀討伐の軍勢を催したのである。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    圧倒的に兵力で勝る師直軍に対し、正行から攻撃を仕掛け熾烈な戦いとなった。師直が野営地を築いていた野崎周辺は、当時は東を飯盛山などの生駒山地に、西を深野池に囲まれた狭い地であり、かつ湿地帯でもあった。そのため、大軍の騎馬兵の運用には不利であり、正行はそこを突いたという説がある。史料に乏しく戦闘経過には諸説あるが、いずれにせよ、少なくとも正行が師直を本陣である野崎から後退させ、北四条もしくはそれ以北までに押し込んだことは確実である。しかし、正行は北四条でついに力尽き、結果としては南朝側は正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。楠木兄弟の戦死によって、南朝側は同月末に臨時首都吉野行宮を喪失し、賀名生へ逃れた。一方、この戦いの勝利と吉野行宮攻略によって執事師直の名声が高まったことで、幕府の事実上の最高権力者である足利直義(将軍尊氏の弟)との政治力の均衡が崩れ、幕府最大の内部抗争の一つである観応の擾乱(1350年 – 1352年)が発生することになった。なお、史実での戦闘発生地に基づけば「野崎・北四条の戦い」とでもなるはずだが、軍記物語『太平記』により「四條縄手の戦い」(『太平記』流布本による表記)あるいは「四條畷の戦い」(現在の四條畷市という自治体名に基づく表記)の呼称が著名である。
  • 観音寺騒動事件の概要六角氏は六角定頼が当主(あるいは陣代)の時代、北近江の戦国大名であった浅井氏を事実上の支配下に置き、さらに室町幕府からも管領代の地位を与えられるなどして全盛期を迎えていた。定頼の死後、後を継いだ六角義賢は、畿内に一大政権を築きつつあった三好長慶と抗争して、中央政界での勢力を拡大しようとしたがこれに失敗。逆に六角氏の畿内における影響力は減退してしまった。そのうえ、定頼の死去を見て服属下にあった浅井氏が自立傾向を見せ始める。永禄3年(1560年)8月中旬、義賢は大軍を率いて浅井氏を討とうとしたが野良田の戦いで浅井長政に敗れた。近江佐々木氏の家中問題も絡み、義賢の近江における権威は低下した。この前年に家督を子の六角義治に譲っていた義賢は、この敗戦を契機に出家する。また、この頃から義治の婚姻問題などで義賢と義治の対立が深刻化することになる。跡を継いだ義治であるが、永禄6年(1563年)10月1日に六角氏の有力な重臣であった後藤賢豊と後藤壱岐守(名は不詳)の父子を、種村道成(三河守)と建部日向守に命じて観音寺城内で殺害させた。理由は諸説あるが、賢豊は定頼時代からの六角家中における功臣として人望も厚く、隠居した義賢からの信任も厚かった。また、進藤貞治(騒動当時には病没)と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの宿老で、奉行人として六角氏の当主代理として政務を執行できる権限を有していたことから、賢豊の権力(及びその背景にある義賢の権力)と若年の当主・義治とが争った末に、当主としての執行権を取り戻すために暗殺したと言われている。事件後観音寺騒動は、六角氏の家臣団に衝撃を与えた。賢豊は前述したように重臣の筆頭格であり人望も厚かったから、この事件(義治が賢豊を討ち取った名目は無礼討ちとされていた)は、佐々木六角氏の家督問題と関係して六角家臣団の義治に対する不信を持たせることにつながった。そして、浅井氏が六角氏を攻める動きを見せたことで、浅井方につく者まで現れ始めた。さらに義治はこの事件に不満を抱く永田・三上・池田・進藤・平井ら一部家臣団によって、
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    筒井城は近鉄橿原線筒井駅より東北一帯にあり、おおよそ南北 400m、東西500mあり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、宅地、畑地、水田となっているが、内曲輪と外曲輪を巡った堀跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の屋敷があった。また、筒井には市場があったことが確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と指摘されている。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。筒井城をはしる吉野街道(築城当時は更に鍵の手状に折れていたと考えられている)筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった永享元年(1429年)で城主は筒井順覚。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと思われている。嘉吉元年(1441年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱、戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる攻城戦が行われその史料も豊富に残されている。応仁の乱は細川勝元を総大将とする東軍と、山名宗全が率いる西軍の争いであったが、河内ではそれ以前に畠山義就と畠山政長が分かれて争っており、これに大和の国人衆が分裂してそれぞれに加勢し、その流れに応仁の乱が巻き込まれていく。
  • 宇喜多直家の独立浦上宗景は元は赤松氏の重臣であった兄浦上政宗から独立して備前で旗揚げし、毛利元就などの助力を得ながら次第に勢力を広げ、やがて兄の勢力を凌ぐようになると毛利とも手を切り戦国大名となった勢力である。その後、浦上氏は永禄10年(1567年)の明善寺合戦で備中国の三村元親を撃破し、永禄11年(1568年)には備前松田氏を滅ぼし更に勢力を拡大し、備前ほぼ一国と美作・備中・播磨の一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長した。これらの戦いの中で活躍し、浦上家中で大きく勢力を伸ばしたのが宇喜多直家であり、長船氏や岡氏を傘下に率いて松田氏を滅ぼした後は備中に攻め込み毛利の援護を受けている三村領までも圧迫するなど強勢であったが、この頃から独自に足利義昭に接触するなど独立傾向を強め始める。永禄12年(1569年)に浦上宗景が赤松政秀の所領を圧迫し、足利義昭が織田信長に政秀救援を要請した際にはついに足利義昭を公儀として奉じ、「備前衆」の盟主として浦上氏からの離反を宣言するに至った。同年7月、直家は軍事行動を開始。備前北部で浦上配下の垪和・原田ら美作国衆の軍団と戦って勝利を収め、また美作でも美作三浦氏再興を目指す三浦貞広の軍勢と合流し毛利氏の香川広景の守る高田城を攻めたがこちらは途中で包囲を解き、宇喜多軍は撤退した。その後、播磨で黒田孝高の活躍で打撃を負った赤松政秀が織田氏の救援が届く前に浦上軍に降伏してしまい(青山・土器山の戦いも参照)、直家は孤立。直家はそれ以上の交戦を避けてすぐさま浦上軍に降伏して非礼を詫び、この時の事は宗景と尼子勝久の間で話し合いが行われた結果、罪は赦免された。直家に危害を加えれば公儀や織田氏に明確な敵対の意志が有ると見られる恐れが有ったため、できる限り穏便な措置を執らざるを得なかったのである。直家は浦上氏を倒すことは出来なかったものの事実上の独立はこの時点で果たされた。ただ、浦上・宇喜多両家の関係は悪化したもののこの時点では破綻せず、共通の脅威である毛利氏と対峙するという点で一時的に修復される。宇喜多軍は浦上との停戦後は主戦場を備中に移し、同年12月に毛利元清・熊谷信直・三村元親らが宇喜多に臣従している植木秀長の治める備中佐井田城に肉薄した時には戸川秀安が出陣し、三村元親に傷を追わせ穂井田実近を討ち取る勝利を収め、毛利・三村軍を退かせた。
  • 今川氏滅びる 駿河と遠江二カ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し、今川領に同時進攻をはかった。氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。第一次・元亀2年の戦い信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニカ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。こうして第一次高天神城の戦いは終った。このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。第二次・天正2年の戦い元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。)三方ヶ原の戦いの項を参照) 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ヶ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の援軍を要請した。なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日
  • 林羅山(1583~1657)江戸初期の儒者。名は信勝・忠、通称又三郎・林道春、字は子信、別名は羅浮子・夕顔巷。祖父は加賀の牢人で、京都市四条新町に生まれた。13歳で建仁寺に入り、儒仏を学んだが、15歳で寺を出て、18歳の時朱子学に志した。1603年(慶長8年)京都で講席をを開いて「論語集註」を講じ、翌年角倉素庵の紹介で藤原惺窩に書を送り、その門人となった。1605年二条城で徳川家康に拝謁し、以降その信任を得て幕府の文事に従事し、家康の死後も秀忠・家光・家綱と4代の将軍に仕え、古書旧記の調査収集と出版、朝鮮通信使の応接、寺社関係の裁判事務、外交文書や諸法度の草庵作成にあたり、幕府運営に貢献した。1630年(寛永7)家光から上野忍岡に屋敷を与えられた、そこに家塾を開いた。これがのちの「昌平黌」(しょうへいこう)の基になった。しかし1657年(明暦3)明暦の大火で書庫が焼失し、その落胆の為か4日後病死した。家は三男林鵞宝峯が継ぎ、羅山は後の幕末まで続く幕府儒官「林家」の祖となった。羅山はすでに家康に拝謁した段階で440余の漢籍を読破し、その後も大いに読書を重ね、博学多識の人として有名で、漢書籍や国文学の注釈、儒学の入門書、排物書、辞書、随筆、紀行など広い分野で著書を残した。また、羅山は、現世の人間関係に着目点で、近世の人倫的世界の先駆けとなったといえるが、社会秩序の維持を至上目的にしたために、その世界観を徹底できず、思想上の独創性は乏しい。しかし、啓蒙家としての性格に富み、朱子学を信奉して、陸象山や王陽明学風を排したり、儒学の立場から神儒一致を解いたところに特色を見られる。羅山こうした多彩な活動によって儒者の社会的地位を高めその後の儒学の発展に寄与したといえる。
  • 徳川光圀(1628~1700)江戸前期の大名、第二代水戸藩主。初代藩主頼房の第三子、母は側室谷久子。水戸城下で生まれ、三木之次夫妻に養育された。幼名千代松。1633年(寛永10)6歳の時世子として江戸藩邸に移り、1636年元服して光国として名乗る(国は後圀に改めた)号は日新斎、率然子、常山、梅里、西山。18歳の時「史記」の伯夷伝に感動して、兄を超えて家督を継ぐことをの非を悟り、将来家を譲ることを決意し兄の子を養い、以降、書を集めて終生学問に励んだ。27歳で前関白近衛の次女近衛尋子と結婚したが5年後に病没され、その後生涯独身を通した。1661年(寛文元)父の没後34年藩主で藩主を継いだが、その藩政は父の創業の上に自ら学問見識に基ずき、神仏を分離し古社寺を再興して信仰を正し、迷信や因襲を排して道徳を勧めた。また貨幣経済の発展に伴う暴利や賄賂を禁じた、微税法の改正や医療法普及に努めたことなど善政とし称えらえた。影響の大きいのは「大日本史」の編纂などの文化事業で30歳のときに史局彰考館を開いて始めた修史は、次第に幕府の御用学である林家史学かけ離れ、「史記」に倣った紀伝体によって「皇統を正閏し人臣を是非する目標を掲げ、全国各地から多くの学者集め史料を収集して独自の史観を樹立した。ことに南朝を正統とし、引退後楠木正成のために「嗚呼忠臣楠子之墓」とした墓を湊川に建てことは、後世志士の心を奮起させた。そのほか古典の校訂や文書記録の保存に務めたことが朝廷・公家の心を引き、また「扶桑拾葉集」「礼儀類典」を編集献上したことは朝議復興・文運興隆に貢献した。1690年(元禄3)兄頼重の子綱条を第3代藩主につけて領内水戸近郊西山に隠居した。10年後73歳で没し義公と贈りなされた。
  • 熊谷直実(1141~1208)平安後期から鎌倉前期の武将。武蔵国大里郡熊谷を本拠とし熊谷二郎と称した。保元。平治の乱では源義朝に従う。平氏政権下、伯父久下直光の代官として大判役を務めていた時、同輩から対等な扱いを受けていなかったことに反発して平知盛の家人となった。しかし、源頼朝挙兵後はこれに従い、常陸の佐竹氏追討に活躍。一の谷戦で平敦盛を討った話は有名である。自尊心が強く、鶴岡社における流鏑馬の際、徒歩の的立役を拒否して所領の一部を没収されたり、久下直光との境相論に事実により弁舌が重視されたことに怒って出走、出家するなどの行動をとった。法然の弟子となり漣生と称した。自ら指揮を予言し、合掌念仏のまま往生を遂げたたと伝えらえる。
  • 新井白石(1657~1725)近世日本を代表する儒学者、政治家。白石は号で、名は君美。日本の儒学者としてはまれな例として本格的幕政の中枢に関り、自ら思想信念をもって現実政治にあたった。江戸生まれ、浪人生活を経て1686年(貞享3)藤原惺窩の門人だった木下順庵に入門、室鳩巣とともに順庵門の双璧をなした。1693年(元禄6)に順庵の推薦によって、甲府徳川家を継いだ徳川綱豊の侍講となり、綱豊が6代将軍家宣となってからは、その信任を得て幕政の改革に努め、7代将軍家継に時代に及んだ。一連の改革政治は一般に「正徳の治」といわれ、儒教的な理想主義の性格の強いとされる。1716年(享保元)8代将軍の吉宗の代に至り政治上の地位を失った。白石は朱子学を学びながらも、古典への注解といった世界には関心を持たず、その他の分野について幅広い業績を残した。「読史余論」や「古史通」「古史通或問」といった歴史書は、いずれも直接・間接に、日本史を貫く政権の変動、徳川武家政権の成立の正統性・必然性を弁証することを主題とし、その明晰な理論とダイナミックな構想力で、日本史学史の一つの頂点をなした6代将軍家宣の信任の下に幕政の改革に着手し、ついで幼い将軍家継を補佐した時代がきびきびとした和文によって描かれ、文学的にも高い評価を得ている。また、綱豊の侍講となった1693年(元禄6)から没する3年前の1716年(享保元)まで書き継がれた「公退録」などは「新井白石日記」として知られている。

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