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『歴史、歴史研究会(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全214件

  • シリーズ65冊
    220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。
  • 明治維新の先駆者

    大村益次郎(1825~1869)幕末・維新期の欄医、軍政家。1825年(文政5月3日。周防国吉敷鋳銭司村に生まれる。父は村田孝益、母はむめ、母は代々勘場付きの医者で、田畠3反あまりの農家でもあった。幼名宗太郎、医名は良庵。のち村田蔵六長州藩主の、命で大村益次郎と改名、諱は永敏。周防三田尻の欄医梅田幽斉に着き1843年(天保14)広瀬淡窓の塾成宜園に入門、1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び塾頭となる。1850年(嘉永3)帰郷して医業を開き、翌年琴子と結婚。1853年宇和島藩に出仕軍制改革に参画、1856年(安政3)藩主の参勤に従って江戸に行く、私塾鳩居堂を開く。同年幕府の蕃調書教授手習い、翌年講武所教授となった。1860年(万延元)長州藩雇士となる。1861年(文久元)長州藩の洋学教育機関博習堂用掛となり、江戸で西洋兵学会読を指導、1863年井上馨、伊藤博文ら「の英国密航を周旋した。手当防御事務用掛から撫育方を兼任、1864年(元治元)には藩地の砲台を検分、兵学校教授政務座役御用、(軍務専任)博習堂用掛兼赤間関応接掛等を歴任1865年に三兵教授兼軍政用掛となり、第二次幕镸戦争では石州で長州軍を指揮し、海軍用掛けも兼ね、上野戦争で彰義隊を討ち、総督府にあって東北戦争に、参画、軍務官副知事になる。1869年永世禄1500石を下賜され、木戸孝允と謀って東京招魂社を建立。兵部省設置で兵部大輔となり、徴兵制の基礎を作った。9月に刺客に襲われ負傷、それが基で11月5日に没した。
  • 勝海舟(1823~1899)幕末・維新期にに活躍した幕臣。通称は麟太郎、後に安房、安芸。諱は義邦。海舟は号。江戸本所で御家人勝小吉の長男として生まれた。1838年(天保9)父が隠居すると、40石の家督を継いだが、小普請組(無役)のまま島田虎之助について剣術を修行し、永井青崖からは蘭学とくに西洋兵学を学んだ。1853年(嘉永3)には江戸赤坂に私塾氷解塾を開いて蘭学、西洋兵学を講じた。1853年ペリー来航に際して提出した「海防意見書」が海防掛の大久保忠還に認められ、1855年(安政2)に蕃書翻訳御用出役として登用されると、大久保について大坂、伊勢、相模、武蔵の海防防備の視察に回った。同年、小十人組に取り立てられて、創設されたばかりの長崎海軍伝習所に派遣された。オランダ士官の指導で航海術を習得する屋、1859年まで旗本や諸藩の伝習生の指導するや、1860年(万延元)には通商条約調印に赴く遺米使節を乗せたポーハタン号に随行した(海臨丸)に艦長核に乗船しし、太平洋横断しサンフランシスコに渡った。帰国後、1862年(文久2)には軍艦奉行並となり役高1000俵を給せられ、1863年から神戸に海軍操練所を設け、諸藩の武士や脱藩した逸材たちを育成した。1864年(元治元)軍艦奉行を命ぜられ海軍警備を任されたが、この時2000石を与えられ安房守に叙任しいる。しかしこの間、坂本龍馬や西郷隆盛らの諸藩の志士と連携を深めたことから、同年11月には(慶応2)には第二次幕镸戦争の終結に際し、軍艦奉行に再任され密使として安芸国宮島に赴き停戦交渉に尽力した。1867年大政奉還、1868年徳川勢が鳥羽伏見の戦で敗れると、海舟は海軍奉行並から陸軍総裁に進み、抗戦派の小栗忠順らに関り幕府の兵馬の権を握って恭順謹慎の方針を貫き、東征の新政府軍参謀西郷隆盛と事前会談し、江戸城無血開城に道を開いた。
  • 維新の志士の蜂起

    「功山寺挙兵の起因」(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。禁門の変・馬関戦争の後、朝廷と江戸幕府は長州藩へ、懲罰として十五万もの征長軍派遣を決定した。 長州では藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、ついに武力衝突にまで発展する。 最終的に正義派が勝利し俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。
  • 田中正造たなかしょうぞう(1841―1913)明治期の政治家、社会運動家。下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角(ろっかく)家の苛政(かせい)に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺(えさし)県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編』などを読み、西欧思想に触れる。1879年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後1890年衆議院議員に選出されるまで在職、1886年からは議長を務めた。この間、1880年安蘇郡に民権結社中節社を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、また嚶鳴社(おうめいしゃ)社員を招き各地に演説会を開き、民権思想の普及に努めた。翌年の自由党結成大会に出席し、都市知識人と地方有志の結合による一大立憲政党の結成を説いたがいれられず、結局、翌1882年立憲改進党に入党、栃木県に全国有数の改進党勢力を築いた。1884年県令三島通庸の土木政策に反対し一時投獄される。1890年の第1回総選挙に栃木3区(安蘇、足利)から衆議院議員に当選、以後1901年(明治34)まで毎回当選を果たす。この間、独自の憲法解釈をもって藩閥政府を批判。ことに1891年の第二議会では当時顕在化した渡良瀬(わたらせ)川沿岸の足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出、以後一貫してこの問題を追及。1896年には群馬県渡瀬村雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設け、ついで東京事務所も設置、足尾銅山鉱業停止の要求を掲げて、被害民を組織し、議会での質問演説で集中的にこの問題を取り上げ、新聞社などに働きかけ世論の喚起に努めた。1900年の第4回被害民大挙請願を憲兵・警官が抜剣、暴行して阻止した川俣事件が起こると、議会で「亡国演説」を行い、政府の責任を激しく追及するとともに、憲政本党を脱党して、自己の立場が党派的利害に出るものでないことを明らかにした。
  • 松岡洋右まつおかようすけ(1880―1946)大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。
  • 田中義一たなかぎいち(1864―1929)陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 「張作霖爆殺事件」中華民国軍政府大元帥、張作霖が関東軍西光参謀河本大作大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和13年)国民革命軍の北伐が北京に迫ったため、張は日本の勧告により6月3日特別列車で北京退去し、京奉線で本拠の奉天に向かった。かねて張への不信感をつのらせていた関東軍(司令官村岡長太郎)中将(1871~1930)は、この機に張をげやあせ、満州を中国から独立させようと図り、錦洲方面へ出勤する体制をとったが、張をなお利用する考えであった田中義一首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようとした。奉天の京奉線と満鉄線のクロス地点のガードに爆薬を仕掛け、6月4日早晩、帳の列車を爆破。帳は爆死した。しかし「事前の打ち合わせが不十分で、関東軍は出動せず、河本の策謀は失敗に終わった。政府・軍は真相を秘匿し、国民革命軍の犯行と過ったが、満州某重大事件として疑惑を呼び、田中義一は天皇陛下に叱責されるに及んで内閣総辞職をきたした。また中国では後継の張学良が反日の姿勢を強め1928年末には東三省易易識中国東北の遼寧省、吉林省、黒龍省に、満州国国旗を五色旗にかえて国民政府の国旗であることを正店白日満地紅旗を挙げさせた。これを機に満蒙問題を重大化招いた。
  • 浜口雄幸はまぐちおさち(1870―1931)大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。
  • 尾崎行雄おざきゆきお(1858―1954)政治家。戸籍上は安政6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義内閣では外務省参事官、第一次大隈重信内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望内閣が倒れると、国民党の犬養毅とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。
  • 頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。
  • 大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。この結び付きから、31年(昭和6)には、軍部内閣樹立のクーデター計画事件である三月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃(けんじゅう)と資金を提供したため逮捕され、下獄した。37年に出獄したのちは、大川塾と称された東亜経済調査局付属研究所を開設し、研究要員の育成にあたるほか、著作活動に力を注ぎ、『日本二千六百年史』をはじめ数多くの著書を刊行した。45年(昭和20)12月A級戦犯容疑で逮捕されたが、巣鴨(すがも)収容中に精神障害をおこし免訴となった。なお、都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた。昭和32年12月24日死去。
  • 上海事変(しゃんはいじへん)日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。第一次目次を見る満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。
  • 大正デモクラシー

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
  • 尼港事件(にこうじけん)シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。
  • 明治維新

    副島種臣(1828~1905)明治期の政治家。父は佐賀藩士,藩校弘道館教授枝吉忠左衛門,母は喜勢子。安政6(1859)年父が死去し,同藩士副島利忠の養子となる。号は蒼海,一々学人。嘉永3(1850)年兄の枝吉神陽を中心とする義祭同盟に大木喬任,江藤新平らと共に参加し,尊王論に傾倒。5年京都に遊学し,国学者矢野玄道らと交流。その間神陽の命を受け公家大原重徳に意見書を提出,青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵上洛を求められる。帰藩後,藩兵上洛は藩主鍋島直正に退けられ,副島は藩校教諭を命じられた。元治1(1864)年長崎に行き米国人宣教師フルベッキに師事し,英学,米国憲法を学ぶ。慶応3(1867)年大隈重信と脱藩し江戸に行き,目付原市之進(水戸藩士)に大政奉還を説いたが,藩より謹慎処分を受けた。維新後長崎で対外折衝を担任,さらに参与,制度事務局判事を命じられ,福岡孝弟と共に政体書を起草した。明治4(1871)年外務卿に就任。樺太国境問題をめぐる対露交渉,マリア・ルス号事件(ペルー船積み込みの清国人奴隷解放をめぐる外交問題),日清修好条規批准交渉などに功績をあげたが,征韓論に同調して下野した。その後,自宅で愛国公党を結成し,民選議院設立建白書にも署名したが民権運動には参加しなかった。9年から11年にかけて清国を漫遊し,書道への造詣を一段と深めた。17年伯爵に叙せられ,枢密院顧問官・同副議長などを経て,第2次松方正義内閣の内務大臣となったが,在任3カ月で辞任するなど,大きな政治力を発揮することはなかった。
  • 大逆事件(たいぎゃくじけん)明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳事件ともいう。 日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦、大杉栄らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた管野は、宮下太吉、新村忠雄、古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。 取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助らの紀州派、松尾卯一太らの熊本派、武田九平らの大阪派、さらに森近運平、奥宮健之、内山愚童ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂太郎内閣下の平田東助内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎司法省行刑局長兼大審院検事、松室致検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
  • 明治維新

    佐賀の乱(さがのらん)1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。
  • 歴史の回想

    鈴木貫太郎すずきかんたろう(1867~1948)海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。
  • 歴史の回想

    夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。
  • 歴史の回想

    中江兆民(なかえちょうみん)(1847―1901)明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。
  • 歴史の回想・

    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。
  • 歴史の回想

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して1941年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。
  • 歴史の回想

    「ポーツマス条約」(ぽーつますじょうやく)1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
  • 歴史の回想

    壬午軍乱(じんごぐんらん)1882年朝鮮のソウルで、日本の侵略と閔(びん)氏一族の腐敗、売国政策に対して立ち上がった軍人たちの反乱。日本では甲申政変とあわせて京城事変といったこともある。1876年の江華条約(日朝修好条規)以来、日本をはじめとする外国資本主義国が朝鮮を侵略、李朝(りちょう)封建体制の危機は深まり、民衆の生活苦は倍加していった。時の権力者である閔氏一族は1881年に日本の要請で軍制を改め、日本陸軍少尉堀本礼造を軍事教官に招き、両班(ヤンバン)の子弟を中心に別技軍という新式軍隊を組織した。これに対し旧来の軍隊の兵士たちは、俸禄(ほうろく)米も13か月も支給されないままであった。82年7月にやっと1か月分の俸禄米が支給されたが、腐っていたり、砂が混ざっていたりした。ここで兵士たちの不満は爆発、武器をとって立ち上がり、一隊は閔氏一族の大官たちの邸宅を襲い、さらに内殿に侵入して閔妃(びんひ/ミンピ)を殺害しようとした。閔妃は宮女に変装し王宮を脱出、忠州に逃れた。他の一隊は日本公使館を襲撃、これを焼き払い、堀本礼造らを殺害した。公使花房義質(はなぶさよしもと)は命からがら長崎に逃げ帰った。ソウルでは大院君が政権につき反乱を収束。一連の改革を行おうとしたが、清(しん)国の介入で失敗、清国に拉致(らち)され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化した。
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    板垣征四郎いたがきせいしろう(1885―1948)陸軍軍人(大将)、陸軍大臣。明治18年1月21日岩手県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員のあと北京(ペキン)公使館付陸軍武官本庄繁(ほんじょうしげる)の補佐官となる。本庄が関東軍司令官になるとその下で高級参謀、奉天(ほうてん)特務機関長に就任し、作戦参謀石原莞爾(いしわらかんじ)とともに1931年(昭和6)満州事変を引き起こし、「満州国」創設後は満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、師団長を歴任した。この間、「満州国」を「五族協和」「王道楽土」にすると主張し、満州拓殖株式会社を設立して、20年間に100万戸、500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣、国家総動員法の追加発動、満州産業五か年計画の実施に努め、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣にも留任して、汪兆銘(おうちょうめい)政権工作を推進し、三国同盟問題で強硬態度を示した。のち朝鮮軍司令官、第七方面軍司令官となる。極東国際軍事裁判でA級戦犯として、1948年(昭和23)12月23日絞首刑に処せられた。
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    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
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    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。
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    東条英機・とうじょうひでき(1884―1948)陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山らと一夕会(いっせきかい)を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の1935年、関東憲兵司令官となり、1937年には関東軍参謀長となった。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。1938年板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、1940年7月第二次近衛文麿内閣の陸相に就任した。松岡洋右(まつおかようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。1941年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、1943年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、1944年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。
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    「立憲政友会」第二次世界大戦前の代表的な政党。1900年(明治33)9月15日伊藤博文(初代総裁)の下に憲政党や伊藤系官僚が無条件参加する形で結成された。藩閥との激しい対立から妥協、提携へと変化してきた政党の歴史に合同という新段階を画した。国家の帝国主義的発展を挙国一致によって図ろうとする国家政党の基本性格をもち、総裁専制を党運営の特徴とする。同年10月政友会を基礎とする第四次伊藤内閣が発足したが、財政方針をめぐる閣内対立で翌年倒れ、さらに第一次桂太郎内閣下の増税問題で党内は動揺した。その根底には国家利害を優先する伊藤ら官僚派と民衆利害を重視する党人派の対立があった。03年伊藤は総裁を辞任。動揺は後継西園寺公望総裁時代に収拾された。西園寺や実力者原敬(はらたかし)は藩閥勢力との巧妙な妥協によって政権を得、第一、二次西園寺内閣下で鉄道の国有化や新設、築港、学校建設などの積極政策を展開、その利権投与によって党員やその周辺の民衆をひきつけ、党勢拡張、党内掌握に成功。また貴族院への勢力扶植、ブルジョアジー、官僚の入党を推進した。この路線はやがて藩閥勢力とくに長閥・陸軍との関係を悪化させ、陸軍による第二次西園寺内閣の倒壊を招いた。この際は憲政擁護運動に参加したが、13年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の与党となって以降は一般民衆との対立関係を深めた。14年6月原が総裁に就任。米騒動後の18年9月本格的政党内閣である原内閣が成立。積極政策を推進して党勢拡張を図る一方、普通選挙運動に敵対し民衆運動対策に力を入れた。また国際協調外交を推進。
  • 歴史の回想

    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。 1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。 7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
  • 歴史の回想・

    甲申政変(こうしんせいへん)1884年(甲申)朝鮮のソウルで、クーデターによって閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が切迫してくると、支配層内部でも、実学の流れをくむ洪英植(こうえいしょく)、金玉均(きんぎょくきん)、朴泳孝(ぼくえいこう)らを中心とする開化派は、明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうと、留学生の派遣、『漢城旬報』の発刊などに努める一方、高宗にも接近、啓蒙(けいもう)にも努力した。しかし当時清(しん)国と結んだ守旧派が政権を握り、改革を阻んでいた。84年清仏(しんふつ)戦争で清国が敗れたのを機会に、開化派は日本の援助を得て守旧派打倒のクーデターを行った。すなわち、12月4日、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊(びんえいよく)らを殺傷し、ただちに王宮に入り高宗を掌握、クーデターは一時は成功した。開化派は新政府を樹立、6日には14か条からなる新政綱を発表した。内容は門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特権商人の廃止、軍制の改革など、上からのブルジョア改革の志向を反映していた。しかし6日清国軍が介入し、新政権は三日天下に終わった。洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は日本に亡命した。日本公使館は焼かれ、公使竹添進一郎は仁川(じんせん)に逃れ、ふたたび守旧派政権が樹立された。この政変の評価は朝鮮近代史の論争点の一つで、北朝鮮では反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命と評価しているが、単なる支配層内の政権争奪戦という見解もある。
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    西園寺公望(1849―1940)近代の政治家、元老。嘉永2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の次男として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明天皇に近侍。王政復古の際参与、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
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    「小磯國昭」こいそくにあき(1880―1950)陸軍大将、政治家。宇都宮市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員などを経て、1930年(昭和5)軍務局長となる。1931年の三月事件に関与した。その後、陸軍次官、関東軍参謀長などを歴任。1937年大将となり、1938年予備役に編入される。1939年平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣、1940年米内光政(よないみつまさ)内閣の拓相となる。1942年朝鮮総督。1944年には東条英機(とうじょうひでき)内閣の後を受け、米内光政と協力して組閣。戦争完遂を目ざしたが、戦局は打開されなかった。また最高戦争指導会議を設け国務と統帥の一元化に努めたが成果はあがらなかった。1945年4月総辞職。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり、1948年(昭和23)終身禁錮の判決を受けた。服役中病没
  • 歴史の回想

    高橋是清(1854~1936)明治から昭和期にかけての銀行家,財政家,政治家。川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。横浜において英語を学び,慶応3(1867)年仙台藩の留学生として渡米,奴隷に売られるなどの辛酸をなめ,翌明治1(1868)年末帰国,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,同14年文部省に入り,すぐ農商務省に転じて商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。22年,辞職してペルーの銀山の経営に当たったが失敗して,財産を失い逼塞。25年,総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職,26年正社員となり西部支店長(下関)として成績をあげ,28年横浜正金銀行本店支配人,30年副頭取として経営を刷新,32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。37年,日露戦争に際して外債募集のため2度にわたって英米両国に出張し,戦費および内国債償還のため,5回にわたり1億500万ポンド(約9億円)の募債に成功。38年貴族院議員,40年男爵,44年日銀総裁。このころより原敬と積極的な財政政策について意見が一致し,大正2(1913)年山本権兵衛内閣に蔵相として入閣,政友会入党。同7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとり,10年原暗殺ののち首相総裁を引き継いだ。13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選,加藤高明内閣に農商務相として入閣。14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣,犬養,斎藤,岡田の各内閣に入閣,昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年,2・26事件の際暗殺された。
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    若槻礼次郎わかつきれいじろう(1866―1949)大正・昭和期の官僚、政治家。号は克堂。慶応(けいおう)2年2月5日松江藩士奥村仙三郎の次男として生まれ、叔父若槻敬の養子となる。1892年(明治25)東京帝国大学仏法科卒業、大蔵省に入る。愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長を経て、1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣、ついで1908年第二次桂太郎内閣の大蔵次官に就任。1911年大蔵次官を辞し貴族院の勅選議員となった。第三次桂内閣、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相にも就任。この間立憲同志会、憲政会の創立に加わった。1924年(大正13)護憲三派内閣の内相となり、普通選挙法、治安維持法を成立させた。1926年1月加藤高明(かとうたかあき)首相の病死で憲政会総裁を継承、内閣を組織した(第一次若槻内閣)が、1927年(昭和2)枢密院が台湾銀行救済の緊急勅令案を否決したため総辞職した。1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のもとで、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権を務め、難航のすえに条約を締結した。1931年4月浜口の病状悪化のためかわって立憲民政党総裁に就任、第二次若槻内閣を組織、浜口内閣の政策を継承した。しかし満州事変の勃発(ぼっぱつ)で政策の基本とした幣原(しではら)外交、緊縮財政の破綻(はたん)は決定的となり、内相安達謙蔵(あだちけんぞう)の協力内閣運動(民政党、政友会両党による協力内閣成立を目ざした運動)によって総辞職を余儀なくさせられた。 1934年民政党総裁を辞任、以後は重臣として岡田啓介(おかだけいすけ)内閣以降の後継首相指名、重要国策の審議に加わった。戦争に対しては一貫して批判的な立場を表明し続けたが、政界への影響力をもつことはできなかった。太平洋戦争末期には近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、岡田啓介らと東条英機(とうじょうひでき)退陣を画策、小磯国昭(こいそくにあき)内閣を成立させた。しかし戦争を終結させるための具体的な行動をとることなく終戦を迎えた。昭和24年11月20日死去。
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    緒方竹虎おがたたけとら(1888―1956)ジャーナリスト、政治家。山形県生まれ。早稲田(わせだ)大学専門部政経科を卒業して1911年(明治44)朝日新聞社に入社し、政治部記者となる。欧米留学後、編集局長、1934年(昭和9)主筆、常務取締役、1936年専務取締役に就任。その後、重要産業統制委員、内閣情報部参与を経て、1940年新体制準備委員、1943年朝日新聞副社長となるが、1944年退社して小磯(こいそ)・米内(よない)内閣の国務大臣兼情報局総裁。1945年鈴木貫太郎内閣の内閣顧問、貴族院議員。東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣では国務大臣、内閣書記官長、情報局総裁を兼任して敗戦処理にあたる。緒方は国粋主義者の中野正剛(せいごう)とは大学・記者時代からの親友で、自身、国家主義者でもあった。戦後、その経歴から戦犯容疑者となり、1946年(昭和21)公職追放となる。1951年追放解除され翌1952年自由党から衆院選に当選(福岡1区)。第四、五次吉田茂内閣の副総理・官房長官。1954年吉田退陣後、自由党総裁に就任。翌1955年保守合同に党を率いて参加し、自由民主党の総裁代行委員となり、鳩山一郎(はとやまいちろう)首相の後継に予定されていたが心臓病で急逝した。69歳。著書に『人間中野正剛』(1951)がある。
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    重光葵しげみつまもる(1887―1957)外交官、政治家。大分県生まれ。1911年(明治44)東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入る。パリ講和会議全権委員随員、上海(シャンハイ)総領事などを歴任。1932年(昭和7)中国公使として上海停戦協定交渉中、天長節祝賀式場における反日運動家の投弾により右脚を失った。1933年外務次官となり、ソ連、イギリス、中国の各大使を務める。1943年東条英機(とうじょうひでき)内閣外相、1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣外相兼大東亜相として大東亜会議の開催やソ連を通じての和平工作を図るなど、戦時外交に重要な役割を果たした。敗戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣外相として降伏文書に調印したが、ソ連の要請により極東国際軍事裁判のA級戦犯として逮捕される。1948年(昭和23)禁錮7年の判決を受け、1950年仮釈放となり、1952年追放解除後、政界に復帰し改進党総裁となる。その後、日本民主党、自由民主党副総裁を務める。1954年以降は鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣外相として、国連加盟、日ソ国交回復に尽力した。著書に『昭和の動乱』『巣鴨(すがも)日記』『外交回想録』などがある。
  • 「柳条湖事件」りゅうじょうこじけん.1931年(昭和6)9月18日の謀略的満鉄線路爆破事件。満州事変の引き金となった。従来、柳条溝事件と通称されていたが、1980年の中国における学会報告で、事件現場の地名などから柳条湖事件と改称すべきであると提起された。31年3月、宇垣一成(うがきかずしげ)内閣を企図する軍事クーデターが発覚した(三月事件)。関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐や同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らはすでに満蒙(まんもう)領有計画を作成していたが、三月事件後に石原は「満蒙問題私見」などを執筆、満州で軍事行動を起こし、それを機に国内の軍事的改革を断行する計画を作成した。柳条湖事件はこれらの計画を具体化する謀略であった。関東軍の計画には、軍中央部の参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)中将、同支那(しな)課長重藤千秋(しげとうちあき)大佐、支那班長根本博中佐らも加わっていた。軍事行動は計画の漏洩(ろうえい)により早められ、9月18日に実行された。満鉄線路の爆破といっても、列車の運行に影響を与えないように爆薬量が計算され、爆破を合図に奉天(ほうてん)にいた板垣高級参謀が軍司令官名で奉天城と張学良(ちょうがくりょう)軍の宿営北大営(ほくだいえい)を攻撃させ、19日中には計画どおりの軍事行動で営口(えいこう)、安東(あんとう)、鳳凰(ほうおう)城、長春(ちょうしゅん)など満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに計画には朝鮮軍の増援があったが、参謀総長金谷範三(かなやはんぞう)大将が出兵を中止させた。そこで吉林(きつりん)で事件を起こし、吉林出兵を実施、これに伴い朝鮮軍を独断越境させた。これに対し、事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は22日の閣議で軍事行動を追認し、予算の支出を承認、さらに24日には軍の行動の正当性を認める声明を発表し、軍の行動を容認した。
  • 歴史の回想・

    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)1874年(明治7)台湾原住民による日本人漂流民虐待の責任追及を理由に日本政府が台湾に出兵した事件。「征台の役」「台湾事件」などともいう。1871年琉球(りゅうきゅう)八重山(やえやま)島民が台湾南東岸に漂着、うち54名が牡丹社(ぼたんしゃ)原住民に殺害され、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良(つなよし)は政府に責任追及の出兵を建議した。73年には備中国(岡山県)柏島村の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受けた。こうして政府内外に台湾征討の声が高まった。同年特命全権大使として渡清(としん)した外務卿副島種臣は随員柳原前光(やなぎはらさきみつ)にこの件を問いたださせたが、清国外務当局は台湾原住民は「化外(かがい)」であり、清国の統治の外にあると述べて責任を回避した。同年秋の朝鮮使節派遣をめぐる政府分裂(いわゆる明治六年の政変)、翌74年1月の岩倉具視(ともみ)暗殺未遂事件、2月の佐賀の乱と政情不穏が高まると、政府は国内の不満を外にそらすねらいもあって台湾征討に踏み切り、4月参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官に、陸軍中将西郷従道(さいごうつぐみち)を台湾蕃地事務都督に任命し出兵準備に入った。ところが駐日イギリス公使、アメリカ公使が極東の平和を乱すおそれがあると出兵反対の意向を示したので政府は中止を決めた。しかし、西郷は兵3000を率いて独断で出兵を強行し、政府はやむなく追認した。日本軍は5月22日台湾社寮(しゃりょう)港に全軍集結して行動を開始し、6月3日原住民地区をほぼ制圧した。戦死者12名、しかし風土病マラリアのため561名が病死した。清国は日本の行動に抗議し撤兵を要求した。そこで8月参議大久保利通(としみち)が全権弁理大臣に任命され、渡清して総理衙門(がもん)大臣恭親王(きょうしんのう)と交渉に入った。会談は難航したが、駐清イギリス公使ウェードの仲介で、10月31日「日清両国互換条款」が調印され、清国が日本の出兵を認め遭難民に見舞金(撫恤(ぶじゅつ)金)を支払うことを条件に日本は撤兵に同意することになって事件は落着した。かつ清国が日本軍の行動を承認したので八重山島民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に確認された形となった。
  • 米内光政・よないみつまさ・(1880―1948)昭和期の軍人、政治家。明治13年3月2日岩手県に生まれる。1901年(明治34)海軍兵学校第29期卒業。戦艦陸奥艦長などを務めたのち、第三艦隊、佐世保鎮守府、第二艦隊、横須賀鎮守府の各司令長官などを歴任し、1936年(昭和11)連合艦隊司令長官となった。1937年2月林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣の海相に就任。同年海軍大将。以後第一次近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)両内閣の海相に留任。この間1937年日中戦争が始まると、8月以後拡大方針に転換し、1938年1月「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」との強硬方針にくみしたが、陸軍の日独同盟政策には山本五十六(やまもといそろく)海軍次官、井上成美(いのうえしげよし)軍務局長とともに反対し挫折(ざせつ)させた。1940年1月予備役となって内閣を組織したが、親英米的であるとして陸軍や「革新派」の攻撃を受け、7月、日独伊三国同盟政策を進める陸軍の策謀で倒された。1944年7月太平洋戦争の戦局悪化のなかで現役に復帰し、小磯国昭内閣の副総理兼海相に就任。以後、海軍の解体まで鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)各内閣の海相に留任し、戦争終結と敗戦処理のために尽力した。昭和23年4月20日死去。スマートで穏和な人柄の人物であり、海軍穏健派のエース的存在であった。
  • 山本五十六やまもといそろく(1884~1943)海軍軍人。対アメリカ戦争回避論者でありながら,真珠湾奇襲など太平洋戦争緒戦での勝利の諸作戦を立案指揮し,次いでミッドウェー海戦に敗れた。長岡藩士高野貞吉の六男として生まれ,のち山本家を継いだ。 1904年海軍兵学校卒業,日露戦争に従軍し日本海海戦で戦傷,1916年海軍大学校卒業。アメリカ駐在員 (留学) ,海軍大学校教官,霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭など歴任。 1925年よりアメリカ駐在大使館付き武官を長く務め,ロンドン軍縮会議の随員でもあったことから海外の事情によく通じていた。 1929年ロンドン軍縮会議日本全権随員。帰国後,海軍航空本部技術部長となり,航空工業の再編強化,部品の国産化,海外新技術の吸収に尽力。 1933年第1航空戦隊司令官,1935年海軍航空本部長となって,海軍航空軍政に手腕を発揮。 1936年海軍次官として日独伊三国同盟に反対,太平洋戦争にも作戦的見地から反対した。 1939年連合艦隊司令長官に就任。 1940年9月三国同盟が調印されると,日米関係は悪化し,日米戦に勝算なしとした彼が,連合艦隊司令長官として作戦指導にあたらなければならぬ立場となった。尋常一様の作戦では勝利の見込みなしと判断し,開戦劈頭の真珠湾奇襲作戦を計画。 1941年開戦後は対アメリカ戦を指導,常に先手を打つ積極策をとったが,ミッドウェー海戦で彼の構想は挫折,新作戦により後方に取り残される部隊を見舞おうとして,ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜され戦死。死後元帥。
  • 近衛文麿このえふみまろ(1891―1945)大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)の長男として東京市に生まれる。母衍子は文麿の生後8日目に死去し、衍子の実妹前田貞子が篤麿の後妻となる。指揮者秀麿は異母弟。1904年(明治37)父が死去し、不幸な少年時代を過ごした。学習院初等科・中等科から第一高等学校、京都帝国大学法科大学に学んだ。京都帝大在学中の1913年(大正2)毛利千代子と結婚。河上肇の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳して『新思潮』1914年5月号と6月号に発表し、発売禁止処分を受けたこともある。卒業後内務省に入り、1919年西園寺公望全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。五摂家の筆頭、藤原鎌足から数えて46代目という名門の出身であるところから、若くして華族界のホープと目された。1916年10月満25歳になると同時に貴族院議員となり、1922年9月研究会入会を経て1927年(昭和2)11月火曜会を結成、1931年1月貴族院副議長、1933年6月同議長に就任した。若くして論文「英米本位の平和主義を排す」を発表し、「英米本位の平和主義」と「経済的帝国主義を排して各国をして其植民地を開放せしめ」、日本の進路を確保すべきであると論じていた。こうした現状打破的な考えから、満州事変や国際連盟脱退などの日本の政策を高く評価したことが、当時のファッショ化しつつあった時流に投じ、首相候補の一人に数えられるに至った。陸軍の皇道派に親近感をもち、1936年の二・二六事件直後には組閣の大命を受けたが、健康を理由に拝辞した。
  • 岡田啓介(1868~1952)海軍大将、政治家。福井県生まれ。1889年(明治22年)海軍兵学校卒業。1901年海た海軍大学校卒業。1927年(昭和2年)田中義一内閣の海軍大臣となる。1929年7月軍事参議官となるが、翌年のロンドン海軍軍縮条約問題においては、浜口雄幸内閣の方針を支持しており、政府と軍司令部・海軍省の間を周旋し、条約に寄与した。五・一五事件後斉藤実内閣総辞職後、元老西園寺公望浜口雄幸は岡田を後継に指名し、1934年7月組閣した。岡田啓介内閣は反対勢力から「現状維維持」と批判され、天皇機関説事件では2度にわたる国体明微を余儀なくされた。また選挙粛清運動など通じて新官僚が政治的に台頭した。二・二六事件で襲撃されたが、殺害を免れ事件後辞任、重臣の列に加えられらた。日米開戦には消極的で東条英機退陣画策し、1944年7月東条内閣は総辞職した。
  • 東郷平八郎(1848~1934)明治大正昭和期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士東郷吉左衛門,妻益子の4男,妻は子爵海江田信義の娘テツ。日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る。そのため多数の伝記があるが,日露戦争後から死去する昭和9(1934)年までの29年間は知られず,誤解されてきた側面が多い。明治4(1871)年から11年までイギリスに長期留学したが,その前までは非常なおしゃべりで大久保利通に注意されたことさえある。しかし留学中寡黙の人に変身,終生変わるところがなかった。異なる言語習慣に苦しんだ末の変質で,英国人の友人ができなかったのもそのためであろう。帰国後もっぱら海上勤務に従事,中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも珍しい。明治17年清仏戦争の際には「天城」艦長として仏・クールベ艦隊に従い,26年にハワイ政変が起こると浪速艦長として居留民保護に急行,日清戦争(1894~95)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し,33年義和団事件が中国に起きると常備艦隊を天津に集結させ,歴史的事件が起きるごとにきまってそこに東郷がいた。36年連合艦隊司令長官となり,日露戦争終結まで艦隊を指揮,38年5月27日から28日にかけて,日本海でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ,日本の勝利を決定的なものとした。38年軍令部長,42年軍事参議官となって第一線から退いた。大正2(1913)年元帥に列し,3年から10年まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力し,社会的重みを加えた。昭和4年先任元帥井上良馨が没すると言動が活発化し,5年のロンドン軍縮問題で艦隊派の精神的象徴となり,8年まで軍部の動向や政局の混乱に大きなかかわりをもった。
  • 山本権兵衛やまもとごんべえ(1852―1933)海軍軍人、政治家。名前は「ごんのひょうえ」ともいう。旧薩摩(さつま)藩士山本五百助の六男。嘉永5年10月15日生まれ。14歳で父を失い、16歳で藩主島津忠義に従い京都守護に任じ、戊辰戦争に従軍、のち昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮に学ぶ。この間、征韓論に会し西郷隆盛の説諭で学業に専心し、1877年(明治10)海軍少尉に任官。のち世界各地を周航、帰国後「高雄」、「高千穂」艦長などを歴任し、1891年大臣官房主事として縦横にその才を振るい、海相西郷従道の全幅的信頼を得て懸案の海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年海軍省主事、1895年少将として軍務局長に進み、日清戦争では実質上海軍機務を切り回して権兵衛大臣の異名を得た。1898年中将、海軍次官から、山県有朋、伊藤博文、桂太郎各内閣の海軍大臣を歴任して日露戦争の難局を突破し、この間大将に昇任、戦後功一級、伯爵の位を得た。1913年(大正2)の大正政変で第三次桂内閣が倒れたあと、立憲政友会と結んで第一次山本内閣を組織し、現役武官大臣制の改革などで業績をあげたが、翌1914年シーメンス事件で辞職、現役を退いた。その後1923年関東大震災の渦中で再度内閣を組織し、普選実現、行財政整理、日ソ国交回復などを公約したが、震災の事後処理に忙殺されるなかで、同年12月の虎の門事件で引責辞職した。陸軍=長閥の山県有朋に対し、海軍=薩閥の統領として対峙したが、昭和8年12月8日病没、82歳。
  • 五代友厚(1836~1885)明治時代の実業家。号を松陰。薩摩(鹿児島)藩の儒者五代直左衛門秀尭,母やすの次男。幼名徳助,または才助。少年時代には藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。安政1(1854)年父の死後,藩に出仕して郡方書役となるが,同4年藩命により幕府の長崎海軍伝習所に遊学,以後,明治1(1868)年まで主として長崎に居をかまえ,勝海舟,榎本武揚,寺島宗則,本木昌造,佐野常民,高杉晋作らと交遊し,トーマス・グラヴァーとも親交を重ね,開明的知識を養う。文久2(1862)年2度にわたって上海に渡り,薩摩藩のために汽船,武器を購入。文久3年,薩英戦争が起こると寺島宗則(当時松木弘安)と共に,英艦隊と交渉に当たるが,捕虜となり,横浜に拉致される。釈放後,武州,長崎などで亡命生活を送ったが,帰藩を許され,慶応1(1865)年薩摩藩留学生の引率者として英国に渡り,紡績機械,武器を購入し,またベルギー,フランスでは貿易商社設立契約や万国博への出品委託を行った。渡欧中,薩摩藩主に富国強兵に関する18カ条の建言書を送り,慶応2年帰国後は御用人席外国掛に任ぜられて,外国貿易,鹿児島紡績所の建設,長崎小菅修船場の建設,薩長合弁商社設立の計画を行うなど,薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに,諸藩の志士と交わる。明治政府成立後,参与となり,外国事務掛,外国官権判事,大阪府判事を歴任,大阪を中心として外交・貿易事務,造幣寮の建設にかかわるとともに,通商・為替会社設立などを契機に大阪経済界とも接触した。明治2年官を辞し,金銀分析所,弘成館(鉱山経営),朝陽館(製藍事業),大阪活版所,大阪製銅会社を設立。さらに阪堺鉄道,大阪商船,神戸桟橋会社の設立に関係するなど実業界に入った。また,旧来からの大阪商人の力を結集して,堂島米会所の再興,大阪株式取引所の創設,大阪商法会議所(現在の商工会議所)の設立,大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダーシップをとり,商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者となった。
  • 原敬(1856~1921)明治大正期の政党政治家。南部藩(岩手県)藩士原直治,リツ子の次男。本宮村(盛岡市本宮)生まれ。幼名健次郎。号は一山,逸山。明治4(1871)年南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが,学資に窮して受洗,7年神父エブラルの従僕として新潟に赴く。8年帰郷。分家して平民となり,9年司法省法学校に2位で合格。12年食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。同年郵便報知新聞社に入社,社説も執筆し,甲府の『峡中新報』にも寄稿。15年退社。同年立憲帝政党系の『大東日報』(神戸)主筆となり井上馨に知られる。同年末外務省御用掛,16年清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章と交渉。清仏戦争の記録は詳細,本省への報告は的確であった。18年在仏公使館書記官,22年帰国し農商務省参事官,次いで大臣秘書官。陸奥宗光農商務大臣に傾倒し,25年陸奥辞任に伴い辞職。同年陸奥外相に招かれて外務省通商局長,28年外務次官,29年朝鮮公使。 陸奥の死を機に30年官界を去り,大阪毎日新聞社に編輯総理として入社,翌年社長。新機軸により同社の発展に尽くした。33年伊藤博文の立憲政友会創立準備に参画,9月設立されると政友会に入り総務委員幹事長。12月星亨が辞任した逓相を継ぐが,34年6月内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり,36年5月まで務める。この間35年岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限に止めた。以後西園寺公望総裁を助け,桂と交渉して39年1月第1次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革,「政友会知事」の増加に努め,郡制廃止法案で山県系を震撼させ,内閣の柱石となる。第2次西園寺内閣と大正政変(1913)後の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内正毅内閣の準与党となり党勢を回復,大正7(1918)年9月政権を獲得。
  • 山県有朋(1838~1922)明治大正期の軍人,政治家で元老の筆頭格。父は長州(萩)藩士山県有稔,母は同藩士岡治助の娘松子。幼名は辰之助,狂介など。長州閥,陸軍の最長老で官界や警察にも絶大なる勢力を振るった怪物的人物だが,家庭的には恵まれず,母は5歳のときに病死,妻友子との間に3男4女をもうけたが,山県の死後も生きたのは次女のみであった。吉田松陰の松下村塾(萩市)に学び,21歳のとき藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加,文久3(1863)年奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となり,翌年英米仏蘭4国連合艦隊と交戦して負傷(4国艦隊下関砲撃事件)。明治2(1869)年西郷従道と共に渡欧。3年8月帰国直後に兵部少輔となり,数日後兵部大輔の前原一誠が辞任したため実質上明治維新政府軍部の最高首脳となった。4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県の実施と山県の兵部大輔就任が重なり,直ちに国軍の創設に着手,薩長土3藩の兵1万で親兵を組織するとともに,東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台を設置,ヨーロッパで数百年を要した兵権統一の大事業を一気に実行した。5年兵部省が廃止となり,代わって陸軍・海軍両省が設置されると,陸軍大輔に任じられた。以後,16年内務卿になるまで,陸軍卿(初代),近衛都督,西南戦争(1877)における征討軍参謀,参謀本部長など陸軍の枢要ポストをことごとく歴任した。 11年には参謀本部,監軍本部を設置して統帥権の独立(参謀本部を陸軍省から独立させること)を進め,軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と軍令(統帥)の区別を明らかにし,組織上天皇制軍隊の建設に努めた。同年「軍人訓誡」,15年「軍人勅諭」を発布し,「忠君愛国」精神を軍人に注ぎ,内面からの天皇制軍隊の実現も怠らなかった。18年第1次伊藤博文内閣で,はじめて軍務外の内務大臣に就任し,黒田清隆内閣でも引き続き内相を務めた。20年には官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行し,帝国大学出身エリートが官僚を独占する道を開いた。21年市町村制を公布(翌年施行)し,地方に対して国家権力の介入を容易にした官治的地方自治制度の成立を図った。22年12月~24年5月,第1次山県内閣では,23年まで内相を兼ね,全国
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「永正の錯乱の概略」(1507年)細川政元の3人の養子による家督相続争い。永正の錯乱と人物相関、永正4(1507)年、管領の細川政元が暗殺された。政権を掌握した細川京兆家の当主の座にはいったい誰が座るのか。実子のいなかった政元には3人の養子(澄之・澄元・高国)がいたが、彼らは当主の座をめぐって争い、以後数十年にわたって続く事になるのである。この戦乱は、彼らを擁する勢力(三好氏、大内氏、波多野氏、内藤氏、薬師寺氏など)同士の戦いでもあり、また、ややこしいことに明応の政変でふたつに割れた将軍家の争いも絡んで、とても複雑なものに展開していった。きっかけとなった細川京兆家の家督相続争いを中心に、「永正の錯乱」の流れを追ってみると、実子を持たなかった細川政元の3人の養子、この細川氏とその周辺、さらには将軍家をも巻き込んだ壮大すぎる争いが起こった原因は何かといえば、政元が生涯妻を持つことなく、実子がいなかったこと。原因の半分以上はこれであろう。修験道に没頭し、妻を持たなかった。政元は細川京兆家の当主でしたが、修験道に没頭していたために妻帯せず、女性を近づけることなく生涯独身で過ごした。つまり、修験道に凝る政元は、女性と交わると法力が得られないからという理由で真面目に生涯を独身で過ごしたわけです。細川澄之(九条家)政元が最初に迎えた養子は、九条政基の末子の澄之で、延徳3年(1491)にわずか2歳で養子に迎えられると、細川京兆家の当主が代々名乗った幼名「聡明丸」と名付けられ、嫡子として育てられることになる。実は、政元が澄之を養子に迎えた理由には、純粋に跡継ぎがほしかったという理由だけでなく、当時政元が次期将軍にしようと考えていた足利義澄の従兄弟であるという理由があった。しかし、政元と将軍となった義澄との対立が深まったこともあってか、関係が良くなかった澄之を廃嫡することもあった。細川澄元(阿波細川家)澄元は細川氏の庶流のひとつ阿波細川家で、細川義春の子として生まれまた。政元にはすでに澄之という養子がいたが、政元自身と折り合いが悪かったこと、また内衆らが細川家と血縁ではない九条家の澄之を当主に立てることに難色を示したことから、庶流の血縁である澄元に白羽の矢が立って、文亀3年(1503)、内衆の薬師寺元一らが主導して進められて養子に迎えられた。
  • 渋沢栄一(1840~1931)近代日本資本主義の指導者。天保11年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘夷運動の志士であったが、1864年(元治1)一橋家に仕え、慶喜が将軍を継ぐとともに幕臣になった。1867年(慶応3)幕府の遣欧使節の一員として渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞した。1869年(明治2)新政府の招きで大蔵省官吏に登用され、井上馨大蔵大輔のもとで、重要な貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与した。この間『立会略則』を著して株式会社制度に関する知識の普及に尽力した。1873年退官、同時に第一国立銀行(第一銀行の前身。のち第一勧業銀行を経てみずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された)を創立して頭取に就任した。以後財界のリーダーとして目覚ましい活躍を示した。王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などをはじめ創立に関与した会社は枚挙にいとまがない。また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも精力的に努めた。さらに財界の思想的指導者でもあり、実業家は国家目的に寄与するビジネスマンでなければならない(「経済道徳合一説」)ことを絶えず強調した。1915年(大正4)渋沢同族株式会社を設立し、第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成した。翌1916年実業界の第一線から引退し、以後は主として教育、社会、文化事業に力を注いだ。
  • 岩崎弥太郎(1835~1885)明治期の実業家。三菱財閥の創設者。土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男で,弟は弥之助。母は美和。伯父の岡本寧浦の塾である紅友社で歴史と漢詩を学び,次いで江戸の儒官である安積艮斎の私塾,さらに高知城外の吉田東洋の少林塾で治国経世の理論を学んだ。安政6(1859)年に長崎に出張し,さらに慶応3(1867)年に藩営商社開成館の長崎商会に派遣され,艦船,武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社とわたりあい,事業家としての腕を磨いた。維新後の明治3(1870)年に開成館は九十九商会という私商社となり,3隻の藩船を利用して海運と通商を行い,三川商会を経て6年3月に三菱商会と改称したが,この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立した。7年に本店を東京に移し,8年に郵便汽船三菱会社と改称した。 佐賀の乱(1874)から西南戦争(1877)まで,西日本で相次いで起こった内乱や,征台の役(1874),江華島事件(1875)において,新政府の要請に応じて三菱会社の船で兵員と軍需品を現地に輸送し,政府軍の勝利に貢献した。その見返りとして三菱会社は政府の船の払い下げや委託を受け,10年には汽船61隻(国内隻数の73%)を所有して日本海運界の王座についた。この過程で日本国郵便蒸汽船会社,P.O.汽船会社(英国),太平洋郵船会社(米国)などの内外のライバルを撃破し,また大久保利通や大隈重信らの政府実力者と関係を深め,政商としてのし上がっていった。 しかし三菱の海運業の独占が高まると,これを非難する世論が高まり,三井が中心になって14年に東京風帆船会社を設立して三菱を追撃した。「海坊主退治」の世論のもとにさらに壱六年には共同運輸会社が創設され,三菱と同社は値下げを繰り返して死闘を続けた。西郷従道農商務卿が「三菱の暴富は国賊同様なり」と非難すると,弥太郎は「我を国賊と呼ぶか,政府が果してその方針ならば,我も亦所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼き払い,残りの財産は全部自由党に寄附せん。かくなれば薩長政府も忽ち顛覆するであろう」とやり返したという。しかし共倒れの恐れが強まったので,政財界首脳部の斡旋により両社は合併して18年に日本郵船会社が成立し,三菱の有力傍系会社になった。
  • 犬養毅(1855―1932)明治~昭和期の政党政治家。号は木堂。安政(あんせい)2年4月20日備中国(岡山県)の大庄屋犬飼家に次男として生まれる。1868年(明治1)14歳のとき父が急死した。21歳で上京、『郵便報知新聞』に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学んだ。1877年西南戦争に際し報知社より特派され、従軍記者として活躍した。1880年豊川良平らと東海社を設立し『東海経済新報』を創刊、主幹として編集を担当した。1881年先輩矢野文雄の勧めにより尾崎行雄(おざきゆきお)らとともに統計院に入る。このときの関係から以後30余年にわたり大隈重信の陣営に属することとなった。明治十四年の政変による大隈の失脚で同院を退官、翌1882年立憲改進党の創立に参加し、東京府会議員に芝区より選出された。以後50年にわたり政党活動を続けることになった。1887年後藤象二郎の大同団結運動に参加、1890年最初の総選挙に岡山県より立候補して当選、その後17回行われた総選挙に毎回当選を果たした。政党の離合集散に伴い1895年進歩党、1898年憲政党、憲政本党、1910年(明治43)立憲国民党に所属した。1896年には松方正義と大隈の提携のために奔走し、松隈内閣を実現させ、1898年の隈板内閣では尾崎行雄の辞任のあと文相に就任した。これらの時期を除けば、その所属する政党はつねに野党でしかも少数派であり、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍、雄弁家として知られた。1912年(大正1)第一次護憲運動では先頭にたって活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称せられることとなった。また対中国政策にも深い関心をもち、孫文の革命派の亡命を援助したり、中国人居留民子弟の教育機関大同学校(横浜)の校長にも就任した。1918年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が設置した臨時外交調査会に参加、これが政権接近への一つの転機となり、1923年第二次山本権兵衛内閣、1924年護憲三派内閣に逓相として入閣し普通選挙法の実現に努めた。一方、1922年には立憲国民党を解党し、中野正剛、尾崎行雄らと革新倶楽部を結成した。1925年普通選挙法が実現するや革新倶楽部を立憲政友会と合同させ、自らは政界引退を決意して逓相、議員を辞任したが、再選され議席に復帰。
  • 小栗忠順(1827~1868)幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続,同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され,翌年1月横浜を出航し9月帰国した。同年11月外国奉行,翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが現地解決を断念し帰府,7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動,尊王攘夷運動を朝廷,雄藩による幕政介入とみて抵抗,徳川慶喜,松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1(1864)年8月勘定奉行に復職,次いで軍艦奉行,翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ,横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始,また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対,討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行,翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや主戦論を建議。かえって遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住,閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み,世界の大勢にもほぼ通じて,しかも誠忠無二の徳川武士,……三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。
  • 大津事件はロシア皇太子襲撃事件。湖南事件ともいう。1891年(明治24)シベリア鉄道起工式に臨む途中、各国を歴訪していたロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(後の皇帝ニコライ2世。革命により死)は、滞日中の5月11日、滋賀県大津で警衛の巡査津田三蔵に切りつけられ負傷した。津田は当時広く蔓延していた「恐露(きょうろ)病」の影響を受け、同皇太子が、他日日本を侵略する目的でその調査のため来日したと信じ、殺害を図ったものである。事件発生によりロシアの報復を恐れる日本側は、明治天皇自らが負傷の皇太子を見舞い、招きに応じてロシア艦内にあえて赴くなど、異例の措置をとった。首相松方正義も自ら司法部に対し、犯人津田に極刑の判決を下すよう申し入れた。事の重大さに加えて、外相青木周蔵が事件発生後、駐日ロシア当局に、津田は死刑に処せられるはずであるという言質を与えていたからでもある。ところが刑法では、謀殺未遂罪に死刑を適用できず、大逆罪の適用など政府側提案は法律上矛盾を生じるので、大審院長児島惟謙をはじめ、法曹界でも政府の態度に強く反発し、大津地方裁判所内で行われた大審院による一審で終審の裁判では、政府の干渉を排除、法規どおり、5月27日無期懲役が被告に宣告され、ロシア側もこの結果に納得した。この事件は、明治憲法施行後まもないころ、明治政府側の非立憲的発想の残存に対抗して、司法権の独立が守られた意味で著名であるが、背後には「護法(ごほう)の神」児島ら非薩長(さっちょう)出身の司法部首脳による、藩閥政府への対抗意識があったことも否めない。
  • 板垣退助(1837~1919)幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,民権運動指導者,政党政治家。高知城下に藩士乾正成の子として生まれた。幼名猪之助,通称退助,諱正形。号は無形。藩主山内容堂(豊信)の側用役から始まり藩の要職を歴任。慶応3年(1867)年,京都で中岡慎太郎と協力し薩摩藩と密かに私的な討幕盟約を結んだが,藩の路線に反し,要職を外された。戊辰戦争では土佐藩軍司令,東山道先鋒総督府参謀に任じ甲斐,北関東,会津に転戦,この時期に乾姓から先祖の旧姓板垣に復した。藩では家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進。明治4年(1871)年御親兵編成に参画,廃藩置県後参議。西郷隆盛らと留守政府を預かったが,征韓論争で敗北し辞職。7年1月東京に愛国公党を組織,後藤象二郎ら下野参議らと民選議院設立建白書を提出したが却下され,帰郷して立志社を設立,士族教育・授産事業を展開した。8年参議に復帰したが,間もなく辞職。西南戦争(1877)に際して西郷軍へ呼応する機会をうかがったが成らず,立志社の獄を結果した。 10年,国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出したが,却下された。その後,愛国社再興運動から国会期成同盟へと運動を進めて自由民権運動の全国的拡大に貢献。14年政変と国会開設の詔が煥発されたのを機に自由党を創設,総理に就任,以後全国を遊説して党勢拡張に努め,15年岐阜遭難事件では,負傷しながらも「板垣死すとも自由は死せず」と暴漢を叱咤したと世間に華々しく喧伝された。この年,外遊資金の出所疑惑で自由党は大混乱に陥ったが,欧州の憲政事情研究の名目で後藤とふたりで外遊。16年6月帰国。時に各地で過激な突出事件を起こし党の統制は混乱を極め,17年決断して自由党をいったん解党した。華族制度に批判的だったが,20年固辞しきれず伯爵を受爵。条約改正反対運動では伊藤内閣の政治姿勢を厳しく批判。22年2月,憲法発布され,議会開設は翌年に迫った。高知にいた退助は,愛国公党を再興して自由党再建を図る。23年旧自由党諸派は立憲自由党として結束,24年3月党名を自由党と改称,推されて総理に就任した。
  • 武市瑞山・武市半平太(1829~1865)幕末の土佐藩の尊攘運動家。通称武市平太、諱は小楯。高知上下の郷士。剣術に長けて、1856年(安政3)江戸に出て桃井春蔵に入門、塾頭を務めた。時勢は阿世の大獄、桜田門外の変と激動期に突入、藩許を得て九州地方の世情を探索し時局の重大さを確認。1861年(文久元)再び江戸に出て他藩の尊攘有志らと交流、8月在府の導師大石弥太郎らと土佐勤王党を結成。帰郷して血盟同士190名余を糾合、公武合体路線で藩政を強力指導する参政吉田東洋に藩勤王論を進言したが拒絶され、反吉田の門閥派と結託して1862年4月、吉田を暗殺し。参勤上府を活用し藩主山内豊範をを擁して同氏らと入京に成功。京都結集の尊攘志士らの顔役として朝廷政府に影響力を行使、攘夷督促の三条・姉小路勅使に随行し江戸に下向。だが翌1863年、吉田暗殺の遺恨とする隠居山内容堂は土佐勤王党を弾圧し、八月十八日の政変直後に瑞山ら勤王党幹部を捕縛投獄。1865年(慶応元)5月に瑞山は獄中で自刃した。
  • 黒田清隆(1840―1900)明治時代の政治家。天保11年10月16日、薩摩(さつま)藩士清行の長男に生まれる。1863年(文久3)薩英戦争に参加。同年藩命により江戸の江川塾に入り砲術を学ぶ。1866年薩長連合の成立に尽力し、戊辰戦争には参謀として従軍。箱館五稜郭の攻撃を指揮した。1869年(明治2)外務権大丞、ついで兵部大丞となり、翌1870年樺太専任の開拓次官に就任。樺太を放棄して北海道開拓に専念すべきを建議し、これは1875年樺太・千島交換条約として実現した。1871年開拓長官欠員につき長官代理となり、1874年陸軍中将兼参議、開拓長官に就任、アメリカ人ケプロンらを招いて、洋式農法の導入、官営工場の設置、炭鉱の開発、鉄道・道路の建設などを進めた。1874年には屯田兵を創設。1875年特命全権弁理大臣として江華島事件の処理にあたり、翌1876年日朝修好条規を締結。1877年西南戦争の際には征討参軍として、西郷隆盛軍と戦った。開拓使十年計画の満了を翌年に控えた1881年7月、その官有物を極端に有利な条件で同郷の五代友厚らに払い下げようとして激しい世論の批判を受け(開拓使官有物払下げ事件)、10月の「明治十四年の政変」によって払下げは中止、翌1882年開拓使は廃止されて、内閣顧問の閑職にかわった。1884年伯爵。1885年右大臣に登用の動きがおこったが、酒癖の悪さを問題とする天皇らの反対により実現しなかった。1887年第一次伊藤博文内閣の農商務大臣に就任、ついで1888年内閣を組織した。同内閣のもとで大日本帝国憲法発布の式典を遂行。政党の動きに制約されず政策を推し進めるとの超然主義の立場を表明した。しかし、1889年条約改正交渉への反対運動が高まり、大隈重信外相が襲撃されるに及んで辞職し、枢密顧問官となった。元老待遇を受け、1892年第二次伊藤内閣の逓信大臣、1895年枢密院議長に就任。明治33年8月23日脳出血のため死去した。大久保利通(おおくぼとしみち)没後の薩摩閥の中心人物であったが、長州閥に対しつねに劣勢であった。1878年には酒乱のため病妻を殺害したとの風評がたった。

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