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『歴史、歴史研究会(文芸・小説)』の電子書籍一覧

121 ~180件目/全214件

  • 新井白石(1657~1725)近世日本を代表する儒学者、政治家。白石は号で、名は君美。日本の儒学者としてはまれな例として本格的幕政の中枢に関り、自ら思想信念をもって現実政治にあたった。江戸生まれ、浪人生活を経て1686年(貞享3)藤原惺窩の門人だった木下順庵に入門、室鳩巣とともに順庵門の双璧をなした。1693年(元禄6)に順庵の推薦によって、甲府徳川家を継いだ徳川綱豊の侍講となり、綱豊が6代将軍家宣となってからは、その信任を得て幕政の改革に努め、7代将軍家継に時代に及んだ。一連の改革政治は一般に「正徳の治」といわれ、儒教的な理想主義の性格の強いとされる。1716年(享保元)8代将軍の吉宗の代に至り政治上の地位を失った。白石は朱子学を学びながらも、古典への注解といった世界には関心を持たず、その他の分野について幅広い業績を残した。「読史余論」や「古史通」「古史通或問」といった歴史書は、いずれも直接・間接に、日本史を貫く政権の変動、徳川武家政権の成立の正統性・必然性を弁証することを主題とし、その明晰な理論とダイナミックな構想力で、日本史学史の一つの頂点をなした6代将軍家宣の信任の下に幕政の改革に着手し、ついで幼い将軍家継を補佐した時代がきびきびとした和文によって描かれ、文学的にも高い評価を得ている。また、綱豊の侍講となった1693年(元禄6)から没する3年前の1716年(享保元)まで書き継がれた「公退録」などは「新井白石日記」として知られている。
  • 山本勘助(?~1561)戦国の武将。甲斐の戦国大名武田信玄の軍師として知られる。名乗り晴幸や出家して道鬼と号したいという説があるが確証はない。生年も1493年説、1500年説、1502年説がある。はじめに三河国牛久保城の牧野氏に仕え、のちに甲斐の武田信玄に従ったという。勘助についてはこれまで「甲陽軍鑑」が捜索した架空の軍師というう説有力だったが、近年の釧路「一河文書」の発見によって信玄の口上を伝える「軍師」山本勘助の実在が明らかになり、菅助を勘助と同一人物と説が唱えられている。いわゆる城取極意などを身に着け軍配者的軍師と思われる。1561年(永禄4)9月10日川中島の戦で戦死した。
  • 荒木村重(1535~1587)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて「中川瀬兵衛らと池田21人衆を形成して主導権を掌握。1571年(元亀2)茨木の茨木佐渡守や高槻の和田惟政らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正3)足利義昭と織田信長と不和に際して信長に従い、功により摂津国一国の支配を任され、従4位下摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言により信長に怒りを買い、やむえず本願寺・毛利氏と通じて本拠伊丹有岡城に立て籠もって信長に背いた。籠城10カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れ、後に尾道に住んだ。かつては千利休に茶の湯を学び、晩年は境に住み茶の湯を持って豊臣秀吉に仕えた。
  • 徳川斉昭(1800~1860)江戸後期の水戸藩9代藩主。7代藩主徳川治紀の第三氏として江戸小石川の藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院(実は烏丸資補の女。幼名虎三郎、のちに敬三郎。幼名は紀教、のちに斉昭。字は叔寛、後の子信。号は景山、潜龍閣。15代将軍慶喜の実父。幕末の政界に大きな影響をもったその波瀾のに富田生涯を部屋住み時代、藩主時代、退隠時代、藩政参与時代、永蟄居時代の5期に分けてみることで斉昭理解に役立つと考えらえる。このうち、1829年(文政12)長兄斉脩の跡を継ぎ、1844年(弘化元)幕命で退くまでの約15年間の藩主時代が斉昭の本領発揮の時期であり、水戸藩の黄金時代と言ってよい。この時期、幕府や諸藩に先駆けて天保の藩政改革に取り組んだ。第一に初代藩主頼房以来の全領検地を実行して混乱した土地問題の改革を行ったこと。第二に藩校、「弘道館」や郷校を開設して教育の振興を図ったこと、第三に領内助川の高台に海防のための城郭を築くなど軍備の充実を図ったこと、第四に神道興隆を目指す宗教政策を行ったこと、4大改革であった。しかし、厳しい寺院整理などから幕府の嫌疑を受けて謹慎を命じられた。長男慶篤に家督を譲って退隠したが、武田耕雲斎ら改革派による幕府への復職嘆願運動や外国艦船の来航など対外危機意識の高まる中で、1849年(寛永2)幕政参与を許され、農兵の設置、反射炉の建設、郷校の増設など安政の藩政改革を推進した。1853年ペリーの来航直後、阿部正之の推挙で幕政にも参与するが、阿部の死により1857年(安政4)免ぜられた。翌年井伊直弼が大老になり将軍継嗣問題や日米修好通商条約の調印などを巡って対立、1859年水戸の永蟄居を命じられた。翌年水戸城中急死、61歳没した。
  • 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】江戸幕府最後の将軍(第15代)の将軍、1866年(慶応2)~1867年在職。明治末期の公爵。水戸藩主徳川斉昭の七郎麿。生母は斉昭正室の有栖川宮吉子。1847年(弘化4)一橋家を相続して慶喜と改名。13代将軍家定の後継者候補だったが、紀州藩主の慶福(14代将軍家茂)に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎処分となった。1862年(文久2)島津久光が率兵上京し、幕政改革を命じる勅使を擁して東下してくるという情勢下で一橋家を再相続し将軍後見人に任じられた。同年8月の参勤交代廃止などの幕政改革は慶喜後見職、松平慶永政事総裁職をトップとする新体制によって強行された。1863年の将軍家茂の上京に際しては旧暦前年末から先行入京し、将軍に政務を委任するとの言質を取り付けることに努めた。天皇と公卿の強烈な要求を受けて攘夷実行を約束し、帰府のうえ不可能を理由に辞表を提出するなどの駆け引きに苦心が多かった。1864年(元治元)には京都で島津久光や山内豊信らとともに朝議にあずかっていた参予会議、幕府の希望でやむなく内側から崩壊させた。同年後見職を免ぜられ禁裏守衛総督に就任して京都に常駐、蛤門の変では禁裏防衛の総指揮をとった。1865年(慶応元)から翌年にかけて長州親征を呼号して家茂が大坂城に滞在したときには、京都、大坂を往復して幕府と朝廷の間を調停することが多かった。1866年家茂が大坂城で病没すると、はじめは徳川家相続のみ、ついに1867年1月10日将軍宣下の2段階を経て戴5代将軍となったが、襲職後も京都にとどまり条約の締結諸国公使らの謁見は大坂城で行った。土佐藩の建白を受け入れて同年11月9日大政奉還を上表、しかし将軍職の辞表は諸侯会議まで待つようにと却下された。1868年1月3日(慶応3年12月9日)諸侯会議抜きで王政復興の大号令が発せられ将軍職廃止が一方的に宣言されると、大坂城に集結した旧幕府系の軍隊はこれは一部の大名の陰謀だと断じ、同月末討薩表を掲げて京都へ攻め上がったが、鳥羽伏見の戦で敗北し、慶喜は城と軍隊を放棄して江戸に戻り謹慎、徳川宗家を田安亀之助に譲って隠居した。
  • 勝海舟(1823~1899)幕末・維新期にに活躍した幕臣。通称は麟太郎、後に安房、安芸。諱は義邦。海舟は号。江戸本所で御家人勝小吉の長男として生まれた。1838年(天保9)父が隠居すると、40石の家督を継いだが、小普請組(無役)のまま島田虎之助について剣術を修行し、永井青崖からは蘭学とくに西洋兵学を学んだ。1853年(嘉永3)には江戸赤坂に私塾氷解塾を開いて蘭学、西洋兵学を講じた。1853年ペリー来航に際して提出した「海防意見書」が海防掛の大久保忠還に認められ、1855年(安政2)に蕃書翻訳御用出役として登用されると、大久保について大坂、伊勢、相模、武蔵の海防防備の視察に回った。同年、小十人組に取り立てられて、創設されたばかりの長崎海軍伝習所に派遣された。オランダ士官の指導で航海術を習得する屋、1859年まで旗本や諸藩の伝習生の指導するや、1860年(万延元)には通商条約調印に赴く遺米使節を乗せたポーハタン号に随行した(海臨丸)に艦長核に乗船しし、太平洋横断しサンフランシスコに渡った。帰国後、1862年(文久2)には軍艦奉行並となり役高1000俵を給せられ、1863年から神戸に海軍操練所を設け、諸藩の武士や脱藩した逸材たちを育成した。1864年(元治元)軍艦奉行を命ぜられ海軍警備を任されたが、この時2000石を与えられ安房守に叙任しいる。しかしこの間、坂本龍馬や西郷隆盛らの諸藩の志士と連携を深めたことから、同年11月には(慶応2)には第二次幕镸戦争の終結に際し、軍艦奉行に再任され密使として安芸国宮島に赴き停戦交渉に尽力した。1867年大政奉還、1868年徳川勢が鳥羽伏見の戦で敗れると、海舟は海軍奉行並から陸軍総裁に進み、抗戦派の小栗忠順らに関り幕府の兵馬の権を握って恭順謹慎の方針を貫き、東征の新政府軍参謀西郷隆盛と事前会談し、江戸城無血開城に道を開いた。
  • 安国寺恵瓊(?~1600)安土桃山時代の禅僧、大名。恵瓊は法諱、瑶甫と号す。安芸国銀山城主武田重信の遺孤という。1541年(天文10)銀山落城の時、竹若丸(恵瓊の幼名)は逃れて安国寺の不動院に入り出家。1553年安国寺の上寺の縁で東福寺の竺雲恵心を頼り法弟となる。その後、恵瓊は1569年(永禄12)に安芸国安国寺の住持をも兼ね、さらに1579年(天正7)東福寺退耕庵主、1598年(慶長3)には東福寺住持となった。その間、不動院金堂・鐘楼・山門や厳島の大経堂、建仁寺方丈など、時代を代表豪壮絢爛な建造物の新築・修復に尽くした。一方、恵瓊はその師恵心が毛利氏の使僧としていたのを受け継いで、外交僧になって活躍した。1573年将軍足利義昭と織田信長の不和調停のために上洛した際、信長没落刀伊木下藤吉郎の将来を予言したことが有名である。1583年頃毛利氏の外交僧から「秀吉の直臣となり、1585年の四国平定に後は6万石を領地する大名になった。秀吉の死後、石田三成に加担しが、関ヶ原の戦に敗れ、京都で曝し首にされた。年は63歳か64歳、墓は京都建仁寺方丈の裏手にある。
  • 本多正純(1565~1637)江戸幕府初期の年寄(老中)。下野国宇都宮藩主。通称弥八郎。上野介。本多正信の長子。幼少より徳川家康に仕える。関ヶ原の戦には家康に供奉し、その直後から幕政に参与し、家康の駿府時代には側近の第一人者として権力を振るう。1601年(慶長6)従5位下上野介に叙任。1610年頃、下野国小山3萬300石を領した。大坂の陣に供奉。1616年(元和2)家康の死後、2代将軍秀忠の年寄となり、同5月に加増され15万石に加封。1622年最上氏改易の上使として山形に出向いたおり、自らも改易された。福島正則の改易にあたって秀忠に脅すごとき虚言を吐いたこと、自分に不似合いな城であるとして宇都宮城の返上を秀忠に直訴したことが、改易の直接の理由であった。なお日光参詣の途中宇都宮城に宿泊の予定の秀忠を殺害しようとしたことが、改易の理由だとする俗説がある(宇都宮釣り天井事件)翌年同国大沢に移され、翌1624年(寛永元)秋田の佐竹氏に預けられ、71637年同国横手で死去した。
  • 大久保長安(1545~1613)江戸初期の幕府奉行衆。十兵衛、石見守。猿楽衆大蔵大夫の次男。はじめ甲斐武田氏に仕え、土屋姓を称した。1582年(天正10)武田が滅亡の後徳川家康の家臣に登用され、大久保忠隣の庇護でを受けて大久保姓に改姓。1589年、1590年の駿遠甲信三の5か国国領検地や農政改革に活躍し、1590年8月の家康関東入国後は武蔵国八王子に陣屋を構え、伊奈忠次らとともに関東領国支配の中心的役割を担った。長安の検地は石見検地、大久保安縄と称され、伊奈氏の備前検地と並ぶ初期幕府検地の代表的仕法となった。1600年(慶長5)関ケ原の戦後その支配は急速に拡大し、関東、越後、佐渡、信濃、甲斐、美濃、駿河、伊豆、大和、近江、石見に及んだ。とりわけ石見、佐渡、伊豆の金銀山の開発には成果を上げ、幕府財政基盤の拡充に貢献した。1603年幕府開設後、従5位下石見守に叙任、幕府奉行衆に加えらえ、家康の側近として幕政の中枢として位置した。自ら頻繁に各地を巡回しつつ、鉱山のほか木曾の林業などの産業開発、東海道・中山道宿駅制度などの確立交通整備江戸、駿府、名古屋の築城調達などの多大な功績を残した。死後、生前の金銀隠匿、幕府転覆の発覚などを理由として遺児7人が死罪、一族、縁故者の多くが連座して処罰された。その真相、詳細は不明である。
  • 土井利勝(1573~1644)江戸幕府初期の年寄(老中・大老)下総国古賀藩主。徳川家康の落胤ともいうが、「寛永諸家系図伝」では土井利昌の子とする。はじめ大炊助、1622年(元和8)以降大炊頭。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)上田城攻めに参加。1602年下総で1万石を領す。1610年2代将軍秀忠付年寄(老中)になり、下総国佐倉3万石を築く。以後しばらくはしばしば加増される。大坂の陣に参戦。家康の信任厚く、秀忠側近として活躍する。1626年(寛永3)従4位下ついで侍従に叙任。1623年に秀忠死去の1632年まで秀忠付き西丸筆頭年寄の地位にあり、秀忠死後も家光の年寄(老中)として幕政に重きをなした。1633年古河16万国に移り、翌年古河城を修築。1638年大老となる。翌年中風となり一線を退くが、ポルトガル船追放などに重要事項に参画、江戸城で死去した。
  • 柳沢吉安(1658~1714)江戸中期の側用人。甲府藩主。上野国舘林城主徳、徳川吉に仕えた安忠(勘定頭、知行160石・禀枚370俵)の子。初名房安、安明。1675年(延宝2)家督を相続、小姓組を務める。1680年綱吉が5代将軍となると幕臣に入れらえ、小納戸を経て1688年(元禄元)側用人に昇進、万石以上に列した。1694年には武蔵国川越7万石2030石に封じられ、評定の席に出座を許された。ついで1698年には左近衛少将に任じられたて老中より上格となり、1701年には松平姓を許され、綱吉の偏諱を与えられ吉保と名乗った。1704年(宝永元)綱吉の後継が甥の甲府城主徳川綱豊(家宣)に決まると。その功績によって家宣の旧領のうち15万ⅰ200石余を与えられ、翌年改めて甲斐国山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになった。甲斐国は従来徳川一門にしか与えらえない領国で、しかも3郡一円の石高は22万8700石余に及び、事実上加増が行われた。新井白石は、吉保が幕政に専断したと評しているが、吉保の日記や当時の御用部屋の記録などからは、老中合議を重視する誠実な人柄が窺える。吉保の側用人政治を実務面から支えたのは舘林旧臣の勘定方たちであった。1709年、家宣が第6代将軍に就任すると隠居して保山と称して、1714年(聖徳4)11月江戸馬込の別荘六義園で死去した。
  • 「田沼意次」(1720~1788)江戸幕府の老中。幼名龍助、のち主殿頭。徳川吉宗の宗家継統に随従した新参幕臣の田沼意行(吉宗の小姓)の長子で、父の兼務する江戸城内田安御用屋敷で生まれる(幕府へは1719年生まれと届ける)父の縁故で吉宗の世子家重の小姓に召しだされ、1735年(享保20)父の死後家督を継ぎ、主殿頭に叙任。9代家重の時代に本丸小姓から御用取次へと昇進し、1758年(宝暦8)美濃郡上藩法歴騒動に吟味し際し評定所出座を家重に命じられた折、万石に列した。家重の信頼が厚く、家治の代の格別の恩寵も家重の遺言によるもので、目を見張る昇進を遂げる。1767年(明和4)には側用人に進み、2万石に加増、遠江相良にに筑城を許され城主となった。1769年老中格、1772年(安永元)には老中に進み、合わせ7度の加封で5万7000石を領した。明和・永安~天明期(1764~1789)の幕政のに参画し、その時期を「田沼時代」という称され、権勢を振るったといわれる。例えば「田沼意次時代」の重要な幕府経済対策が明和・永安期に実施されているので、これらをすべて田沼の政治と結びつける考えがある。しかしこの時期の政治の主導権は老中首座の松平武元にあった。経済政策の実権は勝手掛老中にあり、武元が首座として兼務していた。また松平忠恒が勝手係若年寄として武元を補佐して入り、この両人が同時期の幕府経済政策を遂行して,意次の介入する余地はなかった。意次の全盛期は天明年間(1781~1789)で、特に老中就任以前の意次は政治の表舞台では幕政に関与していない。むしろ御用取次、御用人といった、将軍側近をとしての立場を利用したに過ぎない、フィクサーとしての役割を演じた。田沼時代を賄賂政治として言われるのも、すでに前前代の吉宗政権の末期からその兆候はあった。天明期(田沼全盛期)田沼政権の経済政策ぼ展開に伴い、その弊害が一層顕著になったのは事実である。1786年8月、家治が急病死した。その直後、将軍の小姓、小納戸らがクデターめいた行動に出て、意次は老中を総辞職し失脚する政変が起こり、その後意次の政治生命は終わった。で語り継がれる。
  • 尾形光琳(1658年~1716)江戸中期の画家。後半生の一時期小形と改姓。名は惟富、惟亮、伊亮、50歳で方祝。通称は市丞。35歳の頃から光琳を称し、積翠、道崇等を号す。東福門院の御用を務める裕福な呉服商、雁金屋の尾形宗謙の次男として京都に生まれる。弟は陶工の尾形乾山。曾祖父道拍の妻は本阿弥光悦の姉で、父宗謙も光悦流の書をよくした。そのためか光琳は漆芸の分野で光悦蒔絵を倣った。「住之江蒔絵硯箱」(重文)などを遺し、そのほか「八橋蒔絵硯箱」(国宝)などの優品がある。また能をたしなみ、お伽衆的な存在として公家の二条家に出入りした。光琳が画家としてたったのは、父から譲られた莫大な遺産を蕩尽した40歳頃であったとみられ、1701年(元禄14)に法橋に叙せられた。光琳伝記が比較て明らかなのは、嫡子の養子先に伝わった「小西家文書」の古文書によるところが大きい。「尾形流略印譜」などに光琳が初めて本格的に絵を学んだのが狩野派の山本素軒だと伝えられているが、同文書に含まれる狩野派の紛本により確認される。「鳥獣写生図」も模写で、狩野探幽の原本によることが近年判明した。
  • 井伊直政(いいなおまさ)安土桃山時代・戦国時代~江戸時代(永禄4年2月19日(1561年3月4日)~慶長7年2月1日(1602年3月24日))に生きた戦国武将。安土桃山時代に徳川家康へ仕えた武将。徳川四天王の一人で、武田家から赤備えを引き継いだ。佐和山藩(後に彦根藩へ改組)初代藩主。子孫の方が知名度が高い人物。徳川家康に仕えた徳川四天王や徳川三傑に数えられる名将の一人。井伊家は江戸時代には譜代扱いになるが、ほかの四天王三人の家がより古い時期から安祥松平家(徳川家の先祖)に仕えていたのに対して、そもそも三河武士ではなく遠江出身で、元は今川家の家臣だった。また、先祖は南北朝時代には南朝側に付いていた古い家系である。今川家家臣・井伊直親の長男として遠江国(静岡県西部)で生まれた。幼名は「虎松」。しかし、家臣といっても外様である井伊家は今川家との関係があまり良くなく、父は今川氏真から謀反の疑いをかけられ処刑された。断絶の危機にあった井伊家は信親の従兄妹(虎松のはとこ)の井伊直虎が女当主として井伊家を存続させ、虎松を養子に迎え育てた。その後、母が徳川家康の家臣・松下源太郎に再嫁したため虎松は所領と家督相続権を失ってしまう。天正3年(1575年)、徳川家康に見出されて小姓として仕え、「万千代」と名を改め、井伊姓を名乗った。天正10年(1582年)3月、武田攻めの頃に22歳で元服して、「直政」と名乗った。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こった際、堺から家康とともに伊賀越えに従い、無事に三河へ帰還した。北条家との外交交渉で手腕を発揮し、武田家から受け継いだ直政直属の精鋭部隊「赤備え」の大将となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは赤備えを率いて戦功を挙げ、勇猛な姿から天下にその名を馳せ、「井伊の赤鬼」と称され、豊臣秀吉にも評価された。天正18年(1590年)の小田原攻めでも活躍し、徳川家の江戸転封では上野(群馬)国高崎に12万石を与えられ、城を構えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方として島津軍と戦い、島津豊久を追撃して討ち取った。しかし、戦いの最中に銃弾を受けた。戦後には敗将の毛利輝元の講和や長宗我部盛親の謝罪の取次ぎをし、真田信之の懇意を受け入れて、進退もかけて真田昌幸と信繁の助命に尽力した。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    西行(1118~1190)平安後期から鎌倉初期の歌人。父は藤原氏北家藤成流、左衛門尉佐藤康清。母は監物源清経の女。鳥羽院の北面武士を務めていたが、1140年(保延6)23歳で出家。法名円位。出家後しばらく東山や嵯峨野辺りにとどまっていたが、初度の陸奥への旅にを終えたのちは高野山に居を構えた。約20年の高野山の修行には中国・四国地方にも赴いている。1180年(治承4)頃、高野山から伊勢へ移住。その後1186年(文治2)東大寺復興のために砂金勧進を目的として再度陸奥に旅した。無地旅を終えたのち嵯峨野に庵に居を構える。伊勢神宮に奉納するために『御裳濯河歌合』『宮河歌合』の自歌合を編み、藤原俊成・定家に加判を依頼。1190年(建久元)2月16日「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という生前の願い通り河内国弘川寺で没した。西行の生涯とその詠歌は当時の人々に深い感銘を与えた。その後成立した『新古今和歌集』には最大の94首が選ばれた。
  • 円空(1632~1695)江戸時代初期の彫刻僧。修験者。北海道、東北、中部、近畿地方他、各地を遊行。鉈彫りと称する木彫仏(円空仏)を残した。出生地については諸説があり、美濃国中島郡中島(現岐阜県羽島市)が有力。初期作品(現岐阜県郡上)地区にある天照大神像ほか3体には寛文3年(1663)銘があり、ついで青森、北海道を巡って洞爺湖観音堂には観音像を安置した。三重県志摩市三蔵寺では大般若経扇絵を書き、奈良県大峰山では役行者像を刻み、群馬県富岡市貫前神社の大般若経(1681)には「壬申生美濃国圓空」と墨書した。滋賀県伊吹山でも修業し「江州伊吹山平等岩僧内」銘の作品がある。岐阜県関市弥勒寺で没した。円空仏は5000体近く数え、他に類をいない独創性に支えられた作品として「円空歌集」があり、「近世騎人伝」には大木に彫刻する円空の姿が描かれている。
  • 葛飾北斎(1760年~1849年)江戸後期の浮世絵師。姓は川村、後に中島。俗称に鉄蔵。三浦屋八右衛門など、画号は、主要なものとして使用順に春郎、宗理、北斎、戴斗、為一、卍があり、生涯で70年に上るその広範囲作画期の区分も、これら6つが援用される。だが、それ以外にも数は30を超える。浮世絵師葛飾派の祖とされる。絵は最初19歳で勝川春章に入門し、翌年春郎の名で浮世絵画壇に登場した。勝川派のお家芸である細判役者絵を始め、美人錦絵や黄表紙挿絵などに手掛けた。この時期に画業自体にはとくに目覚ましい活躍がないが、春章没後に勝川派を去り、1795年(寛政7)江戸琳派絵師の俵屋宗理の名跡を継いだころから大きく画風を転じ、私製版画の摺ものや狂歌絵本を主な活躍の場とした。宗理風と呼ばれる、瓜実顔の独特の美人画風が一世を風靡した。1799年には北斎と改号、宗理期以来の摺物等のほか、洋風版画や読本小説の挿絵、さらに肉筆美人画の制作に傾倒した。30代後半から50代、画号で宗理期から北斎期にかけてのこの期間浮世絵以外の様々な流派の絵画を学んだ形跡があり、狩野派や住吉派、洋風画、町絵師などの画様を折衷して、北斎流と呼ばれる自己の洋式を確立た点が特筆されよう。なお、北斎期の後期から続く戴斗期にかけては、「北斎漫画」に代表される多数の絵手本、画譜類も発表している。「還暦後の北斎」為一と名を改め還暦の年、1820年(文正3)以降の文政年間は、作画活動としては中休み感があり、他方で川柳などをたしなんでいたことも確認される。だが、70代にを迎えた次の天保年間に入ると、その旺盛な作風意欲は再燃し、「富嶽三十六景」に代表される風景版画や花鳥版画など、揃い物錦絵の優品を集中して世に送り出している。そして1834年(天保5)以降は事実上最後の号となる卍を名乗り、再び絵手本などの絵本や、神仏画、霊獣などを主題とする肉筆画の制作に、90歳の没年まで渾身の筆力を傾けた。
  • 伊藤若冲(1716年~1800年)江戸中期の画家。当期の文化を代表する一人。名は汝鈞、字は景和。米斗庵、米斗翁とも号す。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれたあg、絵画と禅に傾倒し、「若冲」の居士号を得たのち、40歳で家業を弟に譲り画業に専念した。最初に学んだ狩野派の画法を不足とし、京都の寺に伝わる宋元・明の中国画を模写した果てに実物写生を絶対視するに至り、自宅の庭に飼っていた鶏から始めて多数の動物・植物を写生したと伝わる。その背景には時代の実証主義的精神の高まりがあるが、実際の作品には当時長崎経由で流行した沈南蘋の花鳥画や、黄檗宗関係の水墨画などの影響も大きく、むしろ細密描写とデフォルメとの共存による幻想的・表現的な作風が高く評価される。40代の約10年間を費やして完成し、「釈迦三尊像」3幅とともに相国寺に寄進した「動植物彩絵」30幅が、その特色をよく示す濃彩花鳥画の代表作であり、天明の大火後に避難した大坂で制作した。仙人掌郡鶏図襖、西福寺蔵重文も金箔で覆いつくした画面に形態を誇張した濃彩の鶏とサボテンを構成する傑作である。相国寺に寿像、石峰寺に墓がある。
  • 天海(?~1643年)江戸初期の天台僧。慈眼大師。東叡山寛永寺の開山。3代将軍徳川家光の熱狂的帰依を受けて、家康の神格化に大きな役割を果たした。陸奥国高田出身で、比叡山天台を学んだ後、園城寺や奈良で経論を学んだといわれる。さらに足利学校で儒学を学んだといわれる。1591年(天正19)び江戸崎不動院の住持となり、1599年(慶長4)武蔵国川越の仙波喜多院にうつる。この頃から家康の知遇を受けて、1607年、山門執行探題にとなり比叡山を掌握。1616年(元和2)家康の死に際しその遺言を受けたとして、家康を東照権現とし山王一実神道によりまつるべくことを主張し、大明神として吉田神道で祀るべきとする以心崇伝や梵俊と対立。家康の日光改装以降は輪王寺を建てて日光を管轄し、家康の祭祀を主宰する位置についた。さらに1625年(寛永2)には寛永寺を建てた。その後、寛永寺は1647年(正保4)寛永寺を親王門跡寺とし、天台宗を管轄するに至る。1637年(寛永14)木活字版の天界版大蔵経を刊行。1639年、家光の命令で「東照宮縁起」を起草(上皇・天皇・諸公家が執筆)1643年、寛永寺で没、108歳と言われているが信頼性は少ない。
  • 曲亭馬琴(滝沢馬琴)(きょくていばきん)(1767年~1848年)江戸時代の読本・合巻作者。本姓滝沢氏。名は興邦。俗称は左七郎、左吉、清右衛門。号は著作堂主人、蓑笠魚隠、飯台陳人、玄同など。父滝沢興義は松平鍋五郎源信成の用人、その五男として生まれ江戸深川の松平邸内で生まれる。9歳の時父が死に、長兄が他家に仕え、次兄も他家に仕え去り、場君が滝沢家を継いで主君の孫八十五郎に仕えた。14歳の時主家を出走し、儒学・医学に身が入らぬまま俳諧、戯策ににふける。1791年(寛政3)京伝門人大栄山人の名で処女作の黄表紙「尽用而二分狂言」を刊行。翌年地本問屋蔦屋重三郎に認められ幾つかの黄表紙出版。この年会田氏海老屋市郎兵衛の娘百を娶り清右衛門を名乗るが、やがて商売をやめ、滝沢姓に戻る。1804年(文化元)に本格的読本の初作「月氷奇縁」出版1807年、「南総里見八犬伝」の刊行が始まり、競合関係にあったかつての師山東京伝を凌駕して読本の第一人者の地位を不動のものにした。寛政の改革によって次々と戯作を断念していった同時代の作者に対して、馬琴は勧善微悪と理想主義を貫くことによって身をかわして読本分野を大成した。子息鎮五郎興継は医術を修めて宗伯と名乗り妻路との間に一男二女を設けた。滝沢家復興の期待を一身に負った宗伯は1835年(天保6)38歳で死去。1841年には妻百没。以降寡婦路は盲目となった馬琴を助けて「八犬伝」を代筆して完成へ導いた。滝沢家の記録は1822年(文政5)~1842年(天保6)の「吾賀仏之記」1835年(天保13)の「後の為の記」など多数の戯作を残した。
  • 忍性(1217年~1303年)鎌倉時代の律宗の僧。鎌倉の極楽寺開山長老。字は良観房。大和国の人。幼少より母の影響で文殊菩薩信仰に触れ、母の死を契機として出家を決意した。1239年(延応元)23歳で西大寺叡尊と出会い、戒を受けてその弟子になった。彼は母の解脱のため、大和国の非人宿に文殊菩薩の図像安置することに念願としており、忍性の文殊信仰が取り入られ、非人を文殊菩薩の化身とみなす西大寺流律宗による非人救済運動だ展開されていくこととなった。忍性も癩病(ハンセン病)のために足腰の立たない奈良坂の非人を、毎日奈良の市まで背負って送り迎えをし、乞食で生計が成り立つようになど、非人救済に奔走した。1252年(慶長4)36歳で律宗の東国布教を目指して関東に下向し、常陸三村寺に住した。1262年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で忍性も鎌倉幕府の北条氏の信頼を得、多宝寺を経て、1267年(文永4)生涯の活動の拠点となる極楽寺に住した。以降、鎌倉に有って非人救済・左道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。彼が鎌倉に建立した療病施設・桑ケ谷療病では20年間に癒ゆる者4万6千八〇〇人、死する者一万四五〇人で五分の四が治癒したといわれている。彼の慈善事業は鎌倉和賀江島の律の修築のために升米を取り、桑ヶ谷療病所の費用として土佐国大忍荘を北条時宗から寄進されるなど、鎌倉幕府の交通政策や慈善事業政策を代行する体制補完的な役割も果たした。その勧進活動における事業家的能力を買われて、東大寺大勧進、四天王寺別当、摂津多田院別当などを歴任し、多くの寺社の勧進・復興を成し遂げた。彼の死後、その遺徳をしのんで描かれた追慕像とされる絹本着色像が残されている。
  • 一遍(1239年~1289年)鎌倉中期の念仏聖。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫、通広の子、幼名は松寿丸、10歳で出家して髄録と名乗り、1251年(建長3)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台に師事して名を智真と改めた。1263年(弘長3)父の死によって帰国して還俗したが、数年後に再出発して聖戒(一遍の弟あるいは甥)とともに聖達を訪れた。1271年(文永8)信濃の善光寺に参籠して「二河白道図」写し、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏を専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることが同時一体であることを感得し十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参籠し、翌年、超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る。四天王寺・高野山に参籠して、念仏札を配って歩いたが、札の受け取りを拒否されて困惑する。しかし熊野本宮で、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄にかかわらず札を配れ、との熊野権現の啓示を受けて信仰を確立。名を一遍と改めて超一らと別れて、「南無阿弥陀仏」【決定往生六十万人】ときされた札を配り賦算ながら、九州から奥州までほぼ全国を遊行して回った。1279年(弘安2)には信濃国小田切の武士の館、踊念仏を始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続け始めた。一遍に付き添う時衆のための、1287年に生活必需品を12種に限定。宿所ではそれらを修める十二光箱を僧尼の間に置いて男女問題の発生を抑止しようとした。1280年(正応2)所持していた聖教を焼いて播磨国兵庫の観音堂で没した。伊勢や熊野などの神社信仰と親和的な点思想的の特徴がある。
  • 「道元(1200年~1253年)鎌倉時代の僧。別名希名玄。日本曹洞宗の始祖。永平寺開山。父は内大臣久我通親。母は藤原基房の女。京都の木幡に生まれる。3歳で父を失い、8歳で母の死に目に会う。13歳の時、基房が養子を望んだが出家を決意して比叡山の麓の母方の良観の室に投じ、横川の首楞厳院の般若谷先光房で出家生活に入った。慾1213年(建保元)天台座主光円について得度、授戒したが、天台教学に疑問を持ち、園城寺の公胤を尋ねて入宋求法を進めらえて1217年の秋、栄西開創の建仁寺に入り、明全に師事した。承久の乱(1221年)を契機に明全は東大寺に受具の戒牒を制作し、道元は明全から師資証契の印可を受けて、入宋準備を始め、1223年(貞応2)明全とともに入宋した。明州慶元府に着き、船中で阿育王山の典座にあって禅に開眼。太白山天童寺景徳禅寺に赴き、臨済禅の無際了派の下で学び只管打坐を会得した。仏祖の命脈伝授を証明する嗣書の閲覧を許され、正師を求めて怪山万寿寺、天台山万年山寺などを巡錫したが得られず、天童山如浄を正師として師事した。如浄の下で厳しい修行の末、1225年に悟りを開いた。1227年(安貞元)秋、如浄の印可を得て帰国。建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」撰述して坐禅の本義宣言した。1229年(寛喜元)道元を訪れた達磨宗の孤雲懐奘に入門を約したが、延暦寺の圧迫、如浄の訃報などにより、1231年の春、山城深草の安養院に閑居し「正法眼蔵」「弁道話」を著し、宗旨の綱領を説示した。1233年(天福元)の春、正覚禅尼、弘誓院らの外護者の招請もあって、深草の地に観音導利興聖宝林寺を開創し、1236年(嘉禎2)僧堂を開き衆を集めて説法した。多くの信徒を集め説法や、六波羅蜜寺などで示衆、朝廷に「護国正法義」を呈するなどして積極的な教化活動を行った。そのため再び延暦寺に迫害され、洛外追放になり興聖寺は破却された。道元は京都での教化活動を断念し、如浄の遺訓により、京都を離れ在俗信徒の武士波多野義重越前の白山平泉寺を教化活動を行い、大仏寺が建立された。後に同寺を永平寺に改めて弟子の育成にあたった。所が北条氏の余勢によって鎌倉に下向、翌年病に帰洛し京都西洞院の弟子の邸で没した。
  • 柳生十兵衛(柳生三厳)(やぎゅうみちよし)1607年~1650年)江戸初期の幕臣、剣術者。柳生宗矩の長男。幼名七郎、通称十兵衛。1616年(元和2)徳川家康に拝謁。1619年から家光に仕え籠があつかったが、1626年(寛永3)には勘気を受けて、柳生に帰って柳生流武芸の研鑽に励んだ。1638年までには許され、1646年(正保3)父の遺領の内8300石を継いだが、44歳で急死した。若いころからかなりの暴れ者であったというが、剣術には早くから才を示し理論上の研究も深めて「月之抄」などの述作がある。隠密として諸国を回ったとか、集眼の剣豪であったなど、伝説は多いが信憑性は薄い。
  • 以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政における崇伝の役割は、五山僧として学殖と教養に基ずき将軍の諮問に答え、外交文章や法度などの文章にあたるとこにあり、政策決定に参加するものではなかった。僧侶でありながら幕政を左右したという意味では「黒衣の最相」という後世の評価は過大評価である。職業上の記録「異国日記」「本光国師日記」「出世大望之衆目子留書」は幕府の重要資料である。
  • 聖宝(832年~909年)醍醐寺開祖で当山派修験の祖と仰がれる。平安初期の真言僧。理源大師。天智天皇6世の孫で俗名垣蔭王。847年(承和14年)16歳で東大寺に入り、空海の弟子真雅を師として出家、三論・法相・華厳の各宗を学んだ。869年(貞観11)興福寺維摩会の堅義を務めた。874年醍醐寺の密教修業の道場として開き、880年(元慶4)高野山で真然に密教の大法を授かり、実践面の山林修行により験力を得、加持祈祷により庶民を救うことに尽力。大峰修業路を復旧し、中世後期から修験道の中興と仰がれれる。東大寺東南院を建立、貞観寺座主・東寺長者等を歴任。
  • 法然(1133年~1212年)浄土宗開祖。諱は源空、諡号は円光大師。父は美作国久米郡押領使の漆間時国、母は秦氏。9歳の時、夜討ちで父を亡くし、同国菩提寺の観覚のもとに預けられた。15歳で比叡山に登って持法房源光、ついで功徳院皇円に師事して天台三大部を学ぶ。1150年(久安6)18歳で遁世して、西塔黒谷別所の慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と称した。叡空は融通念仏の良忍の弟子で、円頓菩薩戒を伝持した人物であり、法然は浄土教と円頓の両者を学び受けた。法然はこののち生涯持戒を貫き、授戒戎師としても活躍している。顕密諸宗を学んで南都に遊学したのち、1175年(安元元)43歳で善導の「観無量寿経流」により改心した。凡夫も称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いて、東山大谷の吉水に移った。1186年(文治2)延暦寺の顕真の発議で大原の勝林寺で浄土教を論じ、この大原問答で一躍注目を集めるようになり、1189年からは九条兼実邸に出入りするようになる。1190年(建久元)には重源の要請で、東大寺で浄土三部経を講説し、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である。との選択本願念仏説を初めて披露した。1198年には三昧初得や夢中での善導対面などの神秘的体験によって思想的確信を深め、九条兼実の要請もあって「選択本願念仏集」を撰述本願念仏説を体系化するとともに、これを唯一の真の浄土教と主張した。しかし当時、最も低劣な行いと考えらえていた称名念仏を唯一絶対的価値を持つ往生行であると位置づけ、それ以外の一切の善行を往生行であるとしては無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものである。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのために法然児は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。1204年(元久元)には延暦寺が、翌年には興福寺が顕密八宗を代表して専修念仏禁止を上奏した。
  • 覚鑁(1095年~1148年)平安後期の僧。真義真言宗の祖。祖号は正覚房。覚鑁上人、密巌尊者ともいう。肥前国藤津荘の伊佐氏の出身。1110年(永久元)仁和寺で出家し、1114年(永久2)東大寺で受戒。1121年(保安2)仁和寺成就院で寛助から伝法灌頂を受けた。真言教学振興のために高野山伝法の再興を発願し、紀伊国石手荘などの施入を受けて、鳥羽院の支援の下、1132年(長承元)に高野山に大伝法院・密厳院を落成。さらに密教諸流の遍学を志し、院の保護もあって園城寺の覚猶、醍醐寺の定海、勸修寺の覚信らから受法し、鳥羽宝蔵の秘書を閲覧。1134年に院宣により金剛峯滋座主となり、高野山一山を支配し。しかし大伝法院を中心とする高野山の再編は、金剛峯寺・東寺・醍醐寺の反発を招いたたため、1135年(保延元)密厳院に蟄居して無言行に入り座主を辞任。1140年の武力衝突で密厳院が襲撃されたために、根来山に逃れ、そこに円明寺を創建して没した。門弟はその後も金剛峯寺と和議・衝突を繰り返したが、1288年(正応元)の紛争で完全に決別し、ここに覚鑁の系統を真義真言宗とする。1540年(天文9)自性大師の勅諡号を与えらえたが、延暦寺の反対で撤回。1690年(元禄3)に興教大師号を与えらえた。覚鑁は密教を総合した伝法院流を開き、その著「五輪九字明秘釈」では大日如来と阿弥陀如来が同体なることを論じて浄土教を真言密教取り入れた。
  • 叡尊(1201年~1290年)鎌倉時代の律宗の僧。西大寺の中公開山。興正菩薩ともいう。字は思円房。興福寺の学侶慶玄の子として大和国に生まれる。母は藤原氏。1207年(承元元)7歳で母を失って、醍醐寺門前の巫女の養子になり、その縁で醍醐寺に入って1217年(建保5)17歳で醍醐寺恵操を師として出家した。以後、醍醐寺・金剛峯寺・東大寺などで真言密教を学ぶが1234年(文暦元)真言密教の行者が多く魔道に堕ちてゆくのを見て疑問を抱き、その理由は戒律を守っていないことと結論して、戒律の復興を志すに至った。1236年(嘉禎2)9月覚盛・円晴・有巌とともに東大寺法華堂で自聖自戒をし、好夢を感じて比丘となった。大和海竜王寺を経て、西大寺に住み、1238年(暦仁元)以降そこを拠点として戒律の普及に努めるとともに、社会体制の外部に排除・疎外された非人救済運動も展開した。彼の非人救済は非人を文殊菩薩の化身としてみなし非人施行を行うもので、その最大の行事が1269年(文永6)3月に奈良坂中腹にある般若寺の文殊菩薩像の完成を記念し、非人一人一人に斎戒を受けるとともに、米などの食糧や浅鍋などの乞食の道具が施行された。1262年(弘長2)には鎌倉幕府の北条時頼の招きで鎌倉に下向した。蒙古襲来を契機として、聖朝安穏のため、伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行った。1286年(弘安9)に宇治川の網代破却によって殺生禁断を実行することを条件として、宇治橋を再興するなど、勧進・修造活動に活躍した。著書には自叙伝「感心学正記」や「梵網経古述記輔行文集」などがる。
  • 栄西(1141年~1215年)平安末期から鎌倉初期の僧。日本臨済宗の初祖とされる。「栄西えいさい」ともいう。号は明庵。千光国師ともいう。備中吉備津宮神宮賀陽氏の人。14歳で出家、天台と密教を学ぶがとくに大山の基好からは禅宗が請来する頃まで密教をを受法している。1168年(仁安3)4月入宋して天台山・阿育王山などを巡拝重源と出会ってともに帰国、天台座主明雲に請来の典籍を呈す。その約20年間は密教の研鑽と撰述を専らとし、台密葉上流の祖となる。1187年(文治3)再入宋してインドに行こうとして許可されず、天台山へ赴いて臨済宗黄龍派の虚菴懐敞に会う。密教と禅について問答を交わし、天台山から天童山へ移る虚菴に従って臨済宗を受法。1191年(建久2)に帰国して筑前博多聖福寺で禅法を説き、また「出家大綱」を著して戒律、とくに比丘戒の重要性を強調した。筥崎の良弁の訴えもあり、延暦寺からの圧力で1194年朝廷から、達磨宗の大日能忍とともに弘法を停止される。これに対して1198年「興禅護国論」を撰し、自ら意図が最澄の古法の復興にあること、叡山教学に禅の否定であることを述べ、禅宗が時機相応・鎮護国家の教えであると主張した。1199年(正治元)頃鎌倉に降り、源頼朝の忌日法要や密教祈祷の導師を務めるなどして幕府の帰依を受け、寿福寺を建立して鎌倉での地歩を築き、1202年(建仁2)には将軍源頼家の本願で建仁寺の建立に着手、3年で完成して再び京に拠点を得た。その後も幕府の権威を背景とし、重源の後を受けて東大寺の勧請職についたり法勝寺の塔を再建するなどし、京と鎌倉を往来して活躍して、1213年(建保元)権僧正にに任じられた。従来、密教との兼修という栄西の禅は純粋禅の宣揚による軋轢を避けた便宜的なものとされ、建仁寺に真言院・止観院を置いて延暦寺の末寺としたものも同様の配慮であるとみられている。しかし「興禅護国論」の主張や建仁寺建立中に撰した「日本仏法中興願文」を見ると、一貫して戒律の厳守による仏教界の刷新と最澄への復興が述べられており、密教と禅の兼修も便宜的な姿勢でなく、積極的な宗風であったと思われる。また明全を通じて道元にも多大な影響を与えている。1215年(建保3)6月5日鎌倉で母したといわれるが、京で没したともいわれている。
  • 円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
  • 行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来し法興寺禅院に安置した。行基はこれを読み、716年(霊亀2)以降、街頭に出て、民衆不況に乗り出した。出家の弟子には布施行を勧め、知識を結成して、布施屋の建設(9か所)架橋(6か所)、道路修理(1か所)、院と称する民衆的寺庵の建設(40か所)などを進めた。717年(養老元)政府から名前をあげてその行動を叱責され、722年にも抑圧を受けたが、翌年三世一身法が出ると、溜池の構築(15か所)灌漑溝の整備(6か所)・開田にも乗り出し、その行動が社会的に有益であることを立証した。730年(天平2)、731年には15もの院を建設した。これに伴い政府の彼に対する姿勢も変化し、731年在家の弟子の一部に出家が許されるという得点に浴したが、これは藤原不比等と四子と光明皇后の影響が考えられる。740年恭仁京の造営が始まると、大和・山城の国境の泉川(木津川)に泉大橋と泉橋院を建て為政者の注目を集めた。743年、聖武天皇による大仏建立事業が始まるとこれに協力し、745年大僧正に任じられた。749年、不況の拠点であった平城京の喜光寺で没した。
  • 役行者(生没年未詳)役優婆塞、役行者という。飛鳥時代、大和葛城山に住んで呪術宗教家「続日本紀」文武天皇3年(699)5月24日条に、はじめ小角は葛城山に住み、呪術のあることで名を知られていたが、後年その才能を損ね妖惑をもって讒言したので、この日伊豆島に配流に処した。「日本霊異記」では孔雀王の呪法を修め、奇異魔験力を得た人とされ、鬼神を駆使すること自在で、もろもろの鬼神に対して大和の金峰山と葛城山との間に橋を架けよと強要した、ことから葛城山の一言主神が人に託して「役優婆塞が天皇を傾けようと謀っている」と讒言したので伊豆島に流されたとする。平安中期には金峰山山上が岳の金剛蔵王菩薩を祈りだしたといわれ、後期には大峰山、葛城山をはじめ諸国の霊山に踏み分けたとされる。修験道の開祖に仮託され、多様な伝説が生まれた。
  • 「蝦夷」は古代に新潟県北部、東北地方から北海道南部にかけて居住原住の民の総称。中国では古代以来漢民族が自ら国家・文化を優れたものとして世界の中心である中華とし、周辺の国家・民族を未開・野蛮な夷狄(いてき)であるとする中華思想があり、それに基ずき周辺の国家・民族を支配する帝国型の国家を構築したが、古代日本はこれを受容して諸藩・夷狄を支配する帝国型国家を構築し、国家支配に組み込まれない東北・北海道・新潟地方の民の夷狄の一つの蝦夷として設定した。この意味では蝦夷は政治的概念である。帝国型国家では地域・人民を天皇の支配の内か外かによって化内・化外に分け、夷狄は諸藩とともに化外に属するるという考えが有力であるが、律令法においては化外諸は諸藩だけで、夷狄は服属しているか帰属をよていされたものとして化内に位置図けられていたと考えられる。蝦夷の表記は7世紀半ばに成立し、その以前は「毛人」の表記を用いる。「蝦夷」の語は中国における東方夷狄の「夷」とエビ、ガマガエルなど体をかがめている小生物を意味する「蝦」の合成語で、日本における造語「蝦夷」の読みはエミシ、エミス、エブス、エビシで8世紀にはエビスと読まれた。エゾのの語は12世紀から見え始める。「蝦夷の文化」形質人類学の上では蝦夷と呼ばれた人々には倭人とそれと共通の祖型から発し別な進化を遂げた続縄文人とを含む。文化的に東北地方北半は縄文文化の系譜を引く北海道系の文化と弥生文化の系譜を引く西日本系の文化が混在する中間地帯で、蝦夷の文かは両者の複合的なものである。「古事記」「日本書紀」などにみるような古代国家が蝦夷を未開な狩猟民と表現するのは、蝦夷・夷狄と位置づけが野蛮人であることを強調するために強調するために一部の生業を誇張したからである。
  • 古代7世紀の天皇。661年~668年称政、668年~7671年在位。中大兄皇子・葛城皇子・開別皇子とも言い、諡号を天命開別天皇ともいう。父は舒明天皇、母は皇極、斉明天皇。同母の弟妹に天武天皇(大海人皇子)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)がある。異母兄古人皇子の女、倭姫王を皇后として「日本書紀」によれば8人の嬪・宮人と間に建皇子・川島皇子・志貴皇子・大友皇子(弘文天皇)・鵜野讃良皇女(持統天皇)など4人の皇子と、10人の皇女(元明天皇)があった。641年(舒明天皇13)父舒明天皇の死を受けて母の皇極天皇が即位したが、この年に中大兄の皇子は舒明天皇の殯宮で16歳で柱(生前の徳行などを称え、死を悼んで詞を述べる)をした。中大兄の皇子は当時の有力な皇位継承候補者の一人であったが、権力者であった蘇我氏と対立する立場にあった。おりからの中国では唐の帝国が発展して周辺に威圧を加え、朝鮮でも高句麗・百済・新羅3国が覇権を争うという緊迫した事態の中で、権力集中化を図る中臣(藤原鎌足)は中大兄皇子に接近し、二人は645年(大化元)蘇我蝦夷を・入鹿父子を倒し、新政権を樹立した。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子として、都を飛鳥から難波に遷し中臣鎌足を内臣、中国帰りの知識人である高向玄理・僧旻を博士に任じ、旧来の世襲的な官制を改め、地方で国造の支配するクニに変えて評の制度を敷き、田地の調査を行い、統一的な税制を志向するなど、いわゆる大化の改新の政治改革を推進した。653年(白雉4)孝徳天皇と対立し飛鳥へ帰っていったが、655年(斉明天皇元)工業区上皇が重祚して斉明天皇になると引き続き皇太子として国政を掌握した。660年唐・新羅が百済を滅ぼすと、日本は百済の遺臣の反乱を支援し、軍を朝鮮に派遣することに決した。翌年斉明天皇は筑紫で客死すると、中大兄皇子は皇太子の地位のまま朝鮮派遣軍の指揮を執った。
  • 長屋王の変、729年(天平元)2月に起こった。左大臣長屋王が自殺に追い込まれた事件。長屋王が密かに左道を学び国家を傾けようとしていると密告を受け、兵が王宅を包囲し、取り調べの結果、王は自刃。妻の吉備内親王、子の膳夫王、桑田王、葛木王らも後を追い、夫妻は生馬山に葬られた。家内の人らも捕らえられ、縁坐したものいたが、まもなく王の兄弟・妻子が許されるなど、事件は終結した。これは聖武天皇と夫人藤原光明子との間に生まれた皇太子基王が前年に死去し、かつ聖武と県犬養広刀との間に安積親王が生まれるという状況下で、光明子立后を図る藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こしたものとみられる。同年8月、天平に改元ののち光明子は皇后となった。
  • 持統天皇(645年~702年)古代の女帝。686~690年称制。父は天智天皇、母は曽我石川麻呂の女。遠智媛名は鸕野讃良皇女、諡号を大倭根子天之広野日女尊、また高天原広野姫天皇という。天智天皇の弟大海人皇子の后となり草壁の皇子を産んだ。672年(天武天皇元)の壬申の乱にあたって夫と行動を共にするとその後皇后となり、政権を補佐した。686年(主鳥元)の天武天皇死後は皇后のまま即位せず国制を取り(称制)689年(持統天皇3)皇太子草壁皇子が没する、翌年正式に即位をした。天皇は夫の跡を継いで律令国家建設の事業を推進、7689年飛鳥浄御原令を班賜し、官制や人民支配の体制を整えた。また初めて中国的な条坊制を採用した。藤原京の造営を進め、694年、ここに遷都。仏教の信仰にも圷、薬師寺の造営を進め、694年には諸国に金光明経を分かつなど、国家仏教を推進した。天皇は自己の系統に皇位を伝えることに腐心し、696年太政大臣の高市皇子が没すると、翌年、草壁皇子の子で15歳の軽皇子(文武天皇)を皇太子としてこれに譲位し、その後も上皇として文武天皇の政務を後見、その体制下で701年(大宝元)大宝律令が完成した。翌年12月22日没、火葬の後天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。その存在は以後の皇位継承に大きな影響を与えた。
  • 古代の群像

    天武天皇(?~686年)古代の天皇。673年~686年在位。父は舒明天皇、母は皇極天皇で、天智天皇・入間皇女の母妹、同母弟。大海人皇子と言い、天智天皇皇女のウノノサラサ皇女(持統天皇)を皇后とした。「日本書紀」によれば、皇后の産んだの草壁皇子他・大津皇子・長・弓削・高市・新田部・忍壁・磯城の諸皇子と大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・託基諸皇女とがあった。「日本書紀」には668年(天智天皇7)立太子したとあり、天智朝において重要政務に参画したと思われるが、やがて天智天皇と疎隔を生じ、671年には天智天皇の子大友の皇子が太政大臣となった。同年天智天皇の死の直前に大海人皇子は近江を去って吉野に引退、翌671年(天武天皇元)には吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒して(壬申の乱)、翌年天武天皇となった。即位後の天皇は、朝鮮半島を統一を完成した新羅との国交を保持しつつ、中国の唐とは交渉を断ち、強大な皇権の下で政治の主導権を握り、畿内豪族層の結集の上に立つ中央集権的政治体制を確立に努めた。天皇は豪族層を国家の官人として組織することに意を用い、673年には大舎人の制を、678年には官人の勤務の評価・昇進の法を定め、また685年には親王をも授与の範囲を含める新しい官位制を施行した。この前年のh八色の姓の制定も、位階の制と結合した朝廷の新しい身分秩序を定めたものである。皇族・豪族の経済的基盤についても、675年、天智朝に諸氏に賜わった部曲を廃止し、食封性にも改革を加え、封主・封民間の私有民的な関係に徹しせしめた。天皇はまた理念的な面で天皇を中心とする支配層の結束に努めた。大来皇女を斎宮とするなど伊勢神宮の祭祀を重んじ、広瀬・龍田の神の祭祀を国家の手で行い、国造を諸国の大祓いにに奉仕させるなど、神祇の祭祀権を天皇に集中させた。仏教については大官大寺等の造営し、また地方に普及に進める一方で、寺院・僧尼には厳しい統制を加え、鎮護国家のためのものとしの位置づけを図った。宮廷においては中国風の衣服をや礼法を定め、礼楽備わった威容を誇示することによって務めるとともに、官人には武装を整え、乗馬に習熟することを命じた。
  • 藤原仲麻呂(706年764年)奈良時代の官人。のちに藤原恵美義勝という名前に改名。武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉もしくは真虎の女貞媛。叔母光明皇后の信任を得て政権を掌握した。民部卿、参議、左京大夫、近江守、式部卿などを歴任し、749年(天平勝宝元)孝謙天皇が即位すると大納言となり中将大将を兼ね、光明皇太后のために新設された紫微中台の長官をも兼任する。756年聖武大上天皇は道祖王立太子を遺詔して死去するが、757年(天平法宇元)天皇、皇太后と偽って道祖王を廃し、自分が後見していた大炊王を皇太子に仕立て上げた。同年紫微内相となって内外諸兵事をつかさどり、橘奈良麻呂らの反乱計画(橘奈良麻呂の乱)を未然に鎮圧して反対勢力を一掃し、兄の右大臣豊成を左遷して政権を掌握した。758年大炊王即位(淳仁天皇)に伴い、大保となり藤原恵美義勝の名を賜わり、鋳銭、挙稲、恵美家印使用などの特権を得た。760年に大師(太政大臣になる)同年光明皇太后が死去すると、権勢は揺らぎ始める。道鏡を寵愛する「孝謙大上天皇と仲麻呂の傀儡である淳仁天皇の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握の宣言に至り、その対立は決定的になった。764年ついに武力衝突し、緒戦に敗れて逃走し仲麻呂は近江の国戦闘の末斬殺された。
  • 戦後日本の回想

    この年一月より北陸地方に「38豪雪」と言われる驚異の積雪に死者156人を出すほどの豪雪に大被害を残した。3月には吉展ちゃん誘拐事件で世間を騒がし卑劣な犯人の犯行に犯人の声を公開した。5月には少女誘拐に部落青年が別件で逮捕し差別捜査に批判が起きた。この年何よりビッグニュースは日米初テレビ宇宙中継に日本人が目にしたニュースはケネデーが暗殺されたニュースであり、その場面遭遇し目にした筆者も随分驚いたものである。同月に国鉄の大事故「鶴見事故」が大々的に伝えらえ、死者161人と多数の負傷者の犠牲を出した。また同月には三井三池鉱で炭塵大爆発で458人の犠牲者を出す大事故で日本国中がその犠牲者の多さに目を見張った。同月に信000札が発行され、世は挙げて「バカンス時代」と言われ浮かれて「ボーリングも庶民に人気を博して「マイボール・マイシューズ」ボーリングバッグを持ってテレビ中継にプロのボーリングのスターまで飛び出した時代であった。
  • 戦後日本の回想

    昭和37年には世界は東西冷戦構造で、キュウバにソ連がミサイルを持ち込もうと画策し密かに輸送するところ察知を米国したケネデー大統領は大西洋で待ち伏せて攻撃の宣言し「一触即発のキュウバ危機」が勃発、英国の執り成しでソ連船が引き返し事なきを得た。日本の政界では創価学会の公明党が結成され、社会党江田書記長が江田ビジョンを提唱し、池田首相の「国つくり」を提唱し、社会党の左右の対立は根深いものがあった。高度成長時代に求人難から「青田買い」と国産の旅客飛行機YS11が成功し、13キロに及ぶ北陸トンネルが完成した。また青年冒険家堀江健一氏が単独太平洋を横断に成功し世間を驚かせた。また世界最大の巨大タンカー13万トンの日章丸が進水し工業を支えるエネルギーを確保した。また薬害のサリドマイド事件が起き社会問題になった。庶民の娯楽では「てなもんや三度笠」や「無責任時代」などが人気を博した。
  • 戦後日本の回想

    昭和36年の政治は社会党の党大会で河上丈太郎氏が選出され、左右両派の均衡を保持した運営に迫られ、政権池田内閣の閣僚起用は佐藤栄作・河野一郎・藤山愛一郎・三木武人と挙党態勢で重量閣僚の布陣に野党に対峙した。この年に「創価学会を背景に「公明政治連盟」結成された。外交問題はアメリカライシャワー大使が赴任、池田・ケネデー会談が行われた。また懸案の貿易摩擦の「第一回日米貿易経済合同委員会」が進めらえた。年末には三島由紀夫のクデター未遂の「三無事件」が起き世間を騒がせた。スポーツは女子バレーボールの連署記録で「東洋の魔女」と言われた。巷の流行は柏鵬時代を迎え「柏戸・大鵬」の二大横綱が着目されたテレビの前の相撲が釘づけにされた。流行ブームは「植木等のすーだら節」に「余は挙げてレジャブーム」で余暇を楽しむ若者が出てきた。流行歌では坂本九の「上を向いて歩こう」「銀座の恋の物語」など流れた。茶の間のテレビの「シャボン玉ホリデー」「七人の刑事」も人気を博した。
  • 戦後日本の回想

    政治では「安保問題」が与野党の争点懸案で新安保成立に国会周辺は全学連を中心としたデモが波状的に行われた。岸首相は「声なき声」を持ち出し与党との対立を深めていった。政党では西尾末広委員長に据えて「民主社会党結成」された。労働争議は「三井鉱山・三池鉱をロックアウト」無期ストを打ち出した。5月には突如東北の三陸沖から突如現れ、死者139人の被害と4万6214戸の家屋が流された。28日はグアム島から元日本兵が発見され世間を驚かせた。8月に東京山谷のドヤ街で住民3000人が暴動が発生した。7月19日には池田内閣が誕生し「貧乏人は麦を食え」で顰蹙をかった池田隼人氏が組閣し、戦後初の女性大臣が生まれ話題を呼んだ。またこの年の流行語は「インスタント」「所得倍増」に人気のダコっちゃん大流行し、歌謡曲は「誰よりも君を愛す」映画では「背徳のメス」が話題を呼んだ。
  • 戦後日本の回想

    戦後10年近くなると日本もいろんな面で変化し、1月1日をもって尺貫法からメートル法に移行した。正月早々南極の昭和基地から昨年接岸に失敗しカラフト犬を残したままに帰国したが、南極基地に着いてみて二匹のタロとジロの元気で生きているのを発見し、国民は感動したものだ。4布月10日には皇太子の御成婚記念の行事が行われ、テレビを通じて国民はくぎ付けになった。世はマイカー時代の到来に「白タク」が現れたり、国民の生活も変わった。演劇は菊田一夫の「がめつい奴」がロングランで記録した。7月には児島明子がミスユニバース優勝した。政治は保守政権の安保維持に対して反対派デモ隊2万人を動員して死者を出した。労働組合の活動も過激に「三池争議」が激しく繰り広げられた。9月には未曽有の伊勢湾台風で5千人以上の犠牲者を出した。テレビ人気の話題は「パパは何でも知っている」歌謡曲は「黒い花びら」水原ひろしが人気を博した。映画では「人間の条件」流行は「カミナリ族」が街々を騒音を立てて走り回った。またこの年は出版の年で「週刊誌」「少年・少女」などが多彩に発行された。
  • 戦後日本の回想

    この年に第二次南極観測隊悪天候で着岸出来ず、上陸せず15頭のカラフト犬を残したまま、愛犬ら置き去りにしたまま無念の日本に引き揚げ、翌年二匹のカラフト犬が生存しているのを発見し日本中の人々に感動を与えた。3月には関門トンネルが開通し、交通では東京神戸間を特急「こだま号」が6時間50分で結び、航空事業も遠距離に使用され一般化される時代になったが、DC3が下田沖で遭難した。スポーツを見れば相撲は栃若時代を築かれ、長嶋茂雄が新人賞に輝き、鉄腕稲尾和久が3連敗から4連騰で連勝し「神様仏様稲尾様」と言わせた。流行ではロカビリーが流行、一万円札も発行された。また皇太子の婚約で正田美智子さんのファッションにミッチーブームが巻き起こった。文学では松本清張の「点と線」は話題を呼び、12月には世界一の東京タワーが出来上がり、外交ではインドネシアに平和条約と賠償協定が結ばれた。茶の間のテレビの人気は「月光仮面」「バス通り裏」人気を博した。
  • 戦後日本の回想

    神武景気からなべ底景気と目まぐるしく日本の景気。各国諸外国と条約を結び賠償問題とセットで国交が結ばれ、この年インドのネルー首相が来日した。2月には岸信介内閣が成立し、アメリアからアイゼンハワーと岸首相と会談、日米新時代を迎えることになる。6月には東南アジア6ケ国を歴訪する。ソ連と国交交渉は難しく、北方領土返還を抱えての交渉は難航を極めた。12月に日ソ通商条約を結ぶことができた。日本漁船のソ連領海を侵犯として幾度となく拿捕され冷遇を受けた。北方四島は遅々として進まず、国名がロシアに代わっても強硬な外交は変わらない。それでも日本は南極に観測隊を送り「昭和基地を設営」を果たした。日本の人口もベビーブーム時代から人口増で東京の人口が851万人余りとなった。工業生産も徐々に増産されて輸出が積極的に取り組まれ、資源の産出のない日本には技術大国への道が展開れていった。
  • 戦後日本

    昭和30年の人口は8928万人、神武景気に押されて輸出に力点置き、諸外国と国交を交わすためにも賠償問題を消化しながら、友好条約を進めていった。外交の基軸はアメリカがあっての外交で、中ソに力点を置く野党とは立ち位置が違い、紛争は絶え間がない。国民生活は電気釜が販売され家電時代に突入した。日本の政党左派は分裂と合流の離合集散を繰り返していた。暮らしも大きなラジオからトランジスタ時代に、アメリカからニュヨークヤンキースが来日、日米の野球で15勝1引き分けで力の差をまざまざ見せつけらえた。娯楽の映画にシネラマが登場し端から端まで長い画面に首を凝らしてその迫力に感動したものである。また森永ヒ素ミルクの原因んで患者一万人以上、113人が死亡し大きな社会問題となった。国会では野党で共産党も社会党も両派に分かれ争ったが統一され、保守の自由民主党に合流に一同団結で政権奪還を願うも叶わなかった。
  • 戦後日本

    この年の初めに宮中一般参賀に二重橋付近に36万人が集中し大混乱を起こした。結果16人の死者・重傷者69人を出した。3月にはアメリカビキニ水爆実験でマグロ漁船第五福竜丸に放射能被ばくして問題になった。マグロの市場が暴落し、労働組合の水爆実験の反対に火をつけ猛烈な抗議が繰り広げられマスコミも反戦と核の脅威を訴えた。以後、原水爆禁止運動が過激になって原水禁・原水禁の二派に分かれ核実験の反対の嵐が展開されていった。その上に吉田内閣の造船疑獄で年末では鳩山内閣が誕生した。国民の生活の向上で電化三種の神器で「冷蔵庫・テレビ・洗濯機」が各家庭にみられるようになった。物が売れる時代に地方から都会に集団就職列車が運行され都市に集中化されていった。2月にはアメリカの女優マリリン・モンロウーが来日し話題をまいた。娯楽の映画では黒沢映画の「七人の侍」が人気を呼び、東宝の「ゴジラ」も人気を得た、洋画では「ローマの休日が話題になった。9月には史上最大の海難事故「洞爺丸事故」1155人の犠牲者を出した。この頃、巷にはヒロポン中毒者が広まって、密売人が暗躍し庶民の裾野まで浸透した。
  • 戦後日本

    朝鮮戦争も休戦を迎えようとする状況に、「李ライン」で度々紛争の絶え間なかった日韓関係に、李承晩大統領が来日、日韓関係の改善されたかは疑問だが、日米韓と中ソと対立の軸の中で国交を結ぶ機運が生まれつつあった。そんな折にワンマン首相吉田茂はふと「バカヤロウ」口を滑らしこのつぶやきを野党が見逃す紛糾し「解散」と吉田茂は天下の宝刀を抜いた。そんなころ庶民の人気はラジオからテレビに「街頭テレビ」に群がる民衆はプロレスに野球に相撲と熱狂した。また八頭身を生かして国際的美人コンテストのミスユニバースに伊東絹子は三位に入賞、映画界も花盛り「東映・大映・日活・松竹・東宝」と人気俳優に引き抜き合戦でいざこざに「五社協定」が結ばれ、映画人気もうなぎのぼり、テレビはクイズ・ジャスチャーなど視聴率を伸ばしていった。景気のほうは朝鮮休戦協定で軍需産業は世界に向かって方向転換せざるをえなかった。労使のほうは相変わらず激し対立の応酬のなか中国からの引揚者は続々帰国し舞鶴港には待ちわびる「岸壁の母」も歌謡曲になって巷に流れた。
  • 戦後の日本

    昭和27年ともなれば、日本の国体、国力も向上し国際的にもヘルシンキオリンピックにも参加し、ボクシングでは無名の白井義男の世界フライ級チャンピオンのマリオを破りチャンピオンに輝いた。国民の娯楽もボーリングが登場し、日劇ミュウジックホールが開場したり、映画の製作も壺井栄の「二十四の瞳」が話題を呼んだ。政治では与野党の対立は激しく対立し、学生運動や労働組合の活動も活発になって、ストが強行されたり、血メーデー事件も発生した。与党も自由党系と民主党系の保守党を軸に軍備拡張の機運が高まり、警察予備隊から保安隊に改組した。国際航空として羽田空港が「東京国際空港として運用して世界に向けての窓口として業務を開始した。所が発足して間もない日航が日航機もく星号が大島三原山に墜落し三十七人の犠牲者を出して衝撃を受けた。国民の娯楽の王者のラジオは受信機1000万台突破し、連続放送劇「君の名は」は劇的な人気を博し、放送時間委には、女風呂は空になったという。また早川電機が国内初の白黒テレビの生産を開始した。街にはスクターが流行し自動車も悪路を走り回るようになった。政治ではワンマン吉田総理は抜き打ち解散んで総選挙に打って出て、用意の出来なく与党乱立に攻勢をかけた。学生運動の過激化と日本独立して代わって日本の防衛の強化に「日米安全保障条約」が発行された。労組と全学連の武力衝突阻止に「破壊活動防止法」が保守政党が対抗し法制化した。
  • 戦後日本の回想

    戦後、昭和25年より経済は朝鮮戦争の軍需景気によって街々の工場は活気づいていたが、マッカーサーとアメリカ大統領の朝鮮戦争の意見の相違によって連合軍最高司令官のマッカーサーは解任された。ワンマンのマッカーサー帰国に空港に20万人も見送り、日本の独立と自立を促すサンフランシスコ講和条約に野党社会党らと単独か全面講和かに意見が分かれ、国会は紛糾して吉田首相の単独講和に進めらえた。7月には朝鮮戦争も休戦となり、マッカーサーの後任のリッジウエイがGHQを引き継いだ。日本も独立に向かって、日本航空を発足させ、民間ラジオを開局させ、茶の間の上の棚にラジオが置かれ、国民の落語・浪曲・連続ドラマと多彩な楽しみが増えた。またNHKがテレビ初の実験実況中継でプロ野球を放送した。この年からパチンコが大流行し出し、また映画の製作も各社盛んに制作され、ベネチェア映画祭で「羅生門」グランプリ受賞し大いに喝さいを浴びた。また書店には絶大な人気を博した「鉄腕アトム」が少年らに夢を与えた。了
  • 戦後日本

    昭和25年、朝鮮戦争が勃発、戦後復興に軍需産業の活況に日本経済は大きく景気拡大に展開する。日本も国力あった軍備を備えることを望む保守政党は憲法改正に動きを見せるが野党の強い反対で遅々として進まず、序段階の動きとして「警察予備隊公布」と「海上保安庁8000人」の増員を指示し、国体を整備をしていった。国民の娯楽は映画・ラジオからテレビの試験放送が開始され、それに伴ってプロ野球も国民的人気を得ていった。政党の編成は自由党・国民民主党など緑風会など離合集散を繰り返し、自由党と民主党が政治の基軸として国会運営がなされていった。この年、紙幣が1000円札が発行されて、国家予算の拡大の一方、人口も9000万人近く増大していった。再建日本の建設ダッシュに徐々に景気が上昇して行くのであった。
  • 戦後日本

    昭和24年ともなれば、経済も徐々に成長し、アメリカから収支均衡予算の編成するように注文を付けら、実質を伴わない「竹馬経済」と揶揄された。日本周辺諸国を見れば、東南アジアは独立が加速し、それにつれ国交回復と貿易も盛んになり、日本の得意分野の成長が著しく見られた。何より日本人に自信と誇りをもたらしたのは「湯川秀樹のノーベル賞」受賞であった。この頃より労働組合の組織拡大がみられ、国鉄の労使の対立が激化し、特にGHQのレッド・パージは日々厳しく規制がかけられた。そんな時労使の対立から下山事件・三鷹事件・松山事件がGHQがらみで謎の事件が連続して起き、国民に話題を呼んだが未だその解明に至っていない。また海外の戦地に有って捕虜となっていた旧陸海軍の復員も盛んになって、特にソ連の奥深く収容されたシベリア抑留者の祖国日本に帰国の兵士の話題をまいた。国民の娯楽は映画・戦後歌謡・ラジオの連続ドラマなど多彩になっていった。GHQ街々の空にはGHQの許可によってアドバルーンが彩り、スマートボールやパチンコなども現れ始め、競輪も庶民の娯楽として各地に開催されるようになった。
  • 戦後の日本

    戦後2,3年ともなれば、工業や建設、道路など国民のライフラインの建設の槌音高く、荒廃した闇市を壊して都市計画を進めて再建していった。対外的にも貿易も徐々に向上し、国の成長を見込めるようになってきた。国民の娯楽も映画、戦後歌謡、プロ野球の初ナイターが行われ、戦前ものの小説やアメリカからの文化や流行が導入され、ラジオに耳を傾けて流行歌や流行のファッションや芸術文化も取り戻し自由な表現で絵画や小説が次々発表された、小倉市初競輪を開催され、宝くじに夢を求めたり、テレビから連載ドラマや、「東京ウギブギ」が爆発的に流行した。また天才少女歌手美空ひばりが巷に流れ、企業と財界の癒着で「昭和電工議国事件」まで起こり、多党政党で芦田内閣が誕生した。戦後処理に東条英機の絞首刑の東京裁判が判決下された。これからの日本は世界各国に戦争責任の「賠償問題」が大きな壁となって立ちはだかっていく日本だった。日本国中の工作機械・織機、工作機器など剥がされて東南アジアに戦争責任の賠償として船で運ばれていった。日本の再建はゼロからの再建ではないマイナス100%からの再建であることを忘れてはならない。
  • 戦後日本

    「戦後直後の政界は多党政治で自由党から民主党、社会党、共同民主党や進歩党と乱立し離合集散を繰り返し、不安定な政治運営、国家予算も疲弊し、アメリカからは政策に注文マーシャルプランを進めて、物資不足で闇市や買い出しに、ヤミ米が横行し、国民の娯楽はラジオクイズに連続放送に映画館は人だかりで、夜ともなれば学校の校庭で無料の映画の夕べで庶民は唯一の楽しみで、街には芝居小屋に土さ廻りの旅の一座が巡業し、食事は代用食と言って、サツマイモや麦飯で空腹に耐えた。一家に一つの裸電球と度々電力不足で停電でろうそくで長い夜を凌ぎ、交通の便も悪く舗装のしていない砂利道に行き交い、少しの雨でも泥濘になり、雨が降り続けば一面川のように、不衛生な状態に、配給に行列に並び、その日暮らしの日々であった。東京地裁の判事は配給の米だけで暮らし、栄養失調で亡くなった。やりくりやりくりの日々の生活であった。庶民の不満は労働組合へ組み込まれストを決行、マッカーサー総司令官の命令で中止され、日本政府よりGHQの発言のほうが強力であった。アメリカからは支援の援助があったが、東南アジアの国々からの国交回復は賠償問題から始めなければならず、国家再建と賠償の二重の苦しみを不況と貧困に立ち向かわなければならなかった。。
  • 戦後日本

    戦後の間もない昭和21年は瓦礫と廃墟と化した国土の再建と、衣食住の食糧難が国民に敗戦という重苦しい国民の心に大きな重荷となって死にものぐるいで、形振り構わず、ただ今日一日を懸命に生きる。闇市は全国的に乱立、大日本帝国の価値観の転倒、アメリカに追準するほか成すすべがなかった。進駐軍に媚びて物乞いまがいの誇りを捨てての生き残りであった。GHQは戦前の軍部責任執行者・政治家などを「公職追放の処分をした。所が治安・公的処理が不全になって国家運営が滞り、その後、徐々に公職に復帰させていった。国民はアメリカ的民主主義を理解して、それなりの自由主義を理解をしていった。文化芸術は思想的理由で迫害されていた左翼と言われる人々の自由な表現ができるようになっていった。左翼労働者の共産党は潜行して活動から、堂々と表面に出て活動の場を与えられ、GHQも労働者や労働組合運動を理解を持って応じていた。何より戦後日本人の娯楽の面で戦前になかった視野が広まっていったが、食料品や生活必需品は慢性的に困窮し、栄養失調に日々の食料品に闇市や闇米によって流通していった。筆者は進駐軍の脱脂粉乳を飲んだ子供の一人である。当時の食糧難の時代でも脱脂粉乳の不味さは未だに忘れられない。
  • 戦後日本の回想

    戦後日本の始まりは、昭和16年12月8日、日本軍が、マレー半島、真珠湾を攻撃以来、米・英・蘭と開戦「太平洋戦争」以来、拡大化の一途を辿った日本も兵站戦と軍需物資や経済的困窮に戦局は悪化、昭和20年7月17日~8月2日のトルーマン・チャーチル・スターリンのポツダム会談で開催された「ポツダム宣言」を日本が受諾拠って終戦を迎え、8月15日の「天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)から日本の戦後が始まった。焼土と化した日本に無条件降伏以外に選択肢はなかったが、戦争終結には有利な条件で終結を望み、連合国と駆け引きの応酬でが繰り広げられた。何より日本の陸海軍の参謀から政党・政治家らにその判断はゆだねられ、天皇も捨て身で戦犯も覚悟の上に重臣に戦後日本の未来を託された。何百年いや何千年皇祖に仕え、今後も保持伝統を維持したい重臣らの思いは「天皇の温存」の思惑があった。連合国は天皇に責任を問うものも多かったが、それら全てをマッカーサー総司令官にその判断を全てを任すことで戦争終結の交渉に臨み、荒廃した日本に足を踏み入れた。「日本に民主主義を普及させる」そんな意気込みにGHQの戦後日本の統治が始まった。筆者自身の戦後は、母方の在所に疎開し、身を寄せて暮らしていた。ある日の事「お父さんが」戦地から帰って来たの報せに家に帰り対面したが、生まれて間もなく父は招集、父の仕事は職業軍人、陸軍刑務所の看守、裏から手を回せば戦地に赴くことはない。しかし、日本男児の意気込みは、自ら望んで戦況の厳しい白骨街道を残した禍根のインパール作戦に志願して戦地に赴いた。父に二人の子供残しての激戦地の志願であった。しかも生まれて間もない筆者と2歳上の姉と、二十歳そこそこの母残して広島からの輸送船の出航であった。戦地で三年、九死に一生を得て日本に復員した父は母の実家に向い、われら待ち受ける家族に対面したのである。筆者は3歳余りの年月を経ての対面に面影も知る由もない。おかあちゃん、この「おっちゃん」何処の人やと言って警戒してなかなか懐かなかった。二歳上の姉は「父ちゃん、父ちゃん」と戦地に行った父の面影を覚えていて甘えていた。これも戦争のなせる禍の出来事であった。
  • 坂上田村麻呂(758年~811年)平安前期の武将。坂上苅田麻呂の子。791年(延暦10)蝦夷征伐のために征夷副使ににんめいされる。794年の征夷で戦果を挙げ従4位下に昇進。796年陸奥守で鎮守府将軍を兼務、実質的な陸奥支配の最高責任者となる。797年には征夷大将軍に任命され、戦線を北上させて胆沢城を築城。多賀城にあった鎮守府をここに移転させた。またこのときの征夷事業では蝦夷の首長阿弖流為・母礼を降伏させて、これを伴い平安京に凱旋。二人の助命嘆願を提出するも受け入れられる、二人は再度征夷大将軍に任命されたが征夷は実施されなかったので実働はない。805年功績と、桓武天皇の渡来系士族重視路線によって参議に就任、翌年には中納言にした。薬子の変では、鎮圧に貢献。粟田別業にて死去した。ときに正三位大納言兼右近衛大将兵部卿であった。
  • 戦国時代

    「西上作戦の起因」(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。 尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。
  • 220(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    「近江天保一揆の起因」(おうみてんぽういっき)は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。3一揆への道程土川 平兵衛(つちかわ へいべえ、享和元年(1801年) - 天保14年4月25日(1843年5月24日))は、江戸時代後期の近江国の義民(近江天保一揆の指導者の一人)。経歴近江国野洲郡三上村の庄屋。平兵衛とイシの子。里正に挙げられ、守山駅助郷の勤番となった。中江藤樹(陽明学)に私淑したが(京都の私塾)、助郷の賦役が公平を欠き、民が困却する様に慷慨し、文政11年(1828年)5月にこれを奉行に哀訴し、その弊を改めた。天保13年(1842年)、江戸幕府によって検地が行なわれるに際して幕吏の処置が極めて不当であったので、平兵衛は黄瀬文吉および田島治兵衛と謀って3郡の庄屋を糾合し、再検地を嘆願しようとしたが、集まった農民は4万人に達し、遂に幕吏の旅舎を襲うに至り、10万日の日延べの証文を獲得した。のちに罪を得て捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問を受けて死亡する者40名あまりに相次いだ。平兵衛ら主要な11人は江戸に送られ、そのうち3人は江戸に到着する前に死亡した。平兵衛は江戸に送られてから一月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首された。後に千住回向院に改葬される。

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