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『歴史、ダイレクト出版(実用、文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全664件

  • シリーズ67冊
    101220(税込)
    著者:
    宮沢賢治
    レーベル: micpub.com
    出版社: micpub.com

    宮沢賢治の傑作263作品を掲載しています。
    宮沢賢治は、日本の詩人、童話作家です。
    生前彼の作品はほとんど一般には知られていませんでしたが、没後に草野心平らの尽力により広く知られ、国民的作家となっていきました。
    生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』があります。
    本書には、一部挿絵も掲載されています。
    ※同一の作品でも、新旧の仮名遣いやルビのあるなしの違いごとに一作品として紹介しています。
  • 現実世界をゲームのように【攻略】してみませんか?

    ーー現実世界をゲームのように【攻略】してみませんか?ーー

    現実世界で使える「武器、防具、薬草、魔法」の使い方からオリジナル「装備」の作り方、「冒険マップ」の紹介まで。

    <ゲームのように現実世界を攻略する>ための、お役立ち(?)情報が満載の同人誌。
  • シリーズ15冊
    440550(税込)

    日本社会の表裏に特異な足跡を残した昭和の「巨象」を検証して描写した人物シリーズ

    シリーズ第1弾。1955年にマンモス政党「自由民主党(略称・自民党)」を作った人物の素顔を追跡。

    <目次>
     保守結集の爆弾発言
     鳩山一郎の盟友
     吉田打倒の鬼
     不倶戴天の敵
     やじ将軍
     「めかけは五人」
     犬猿の握手
     保守合同の立役者
     主な参考資料
     電子版の発行に当たって
     著者紹介
  • 豪華寝台特急トワイライトエクスプ〇スをイラストと漫画で紹介した解説本になります。

    2015年3月12日に札幌~大阪間のトワイライトエクスプ〇ス運転を終了した記念に作成しました。すでに何度も乗られてるファンの方や、まだ知らない方に、トワイライトエクスプ〇スを少しでも多くの方に記憶に留めて頂きたい!知って頂きたい!と26年間見続けてきた想いを込めて作った本になります。A寝台、B寝台、食堂車、ラウンジカー、機関車を車両ごとに紹介しています。是非お楽しみください。
  • 19世紀ヴィクトリア朝英国、主従として生きた青年たちの物語。

    19世紀ヴィクトリア朝ロンドン。
    名門貴族スタンホープ伯爵家の嫡男エドガーは、幼少時から自分に仕える従者オリバーに深い信頼の情を寄せていた。
    共に画家を志す二人だが、身分差から来るすれ違いが波紋を呼んで……。
    執着尽くし攻め主人×平凡強気受け従者 『驚異の部屋』の番外編ですがこれだけでも読めます。
    表紙:波田(@namidashiro)様
  • 纏足の蝶と出会った下男。身分差が阻む悲恋。中華風BL

    豪商として権勢を誇る李家の下働き・秀圭はある日蓮池に架かる橋で美しい娘と邂逅を果たす。
    逢瀬を重ねるうちに心惹かれていく秀圭だったが、得体の知れぬ娘には哀しい秘密があった。
    以前書いた中華風BL短編。
    身分差・主従・女装・男の娘・年の差・三角関係・監禁・逃避行寡黙尽くし攻め×健気受け
    表紙:蟻本わだぢ(@arimoto000)様
  • 醜さ故に忌み嫌われ封じられた鬼神×健気な下働きの少年の中華風BL

    裕福な商家の奉公人・春虎(チュンフー)は、生来気弱で優しい性格故に仲間にいじめられ、新月の晩に一人で肝試しに行かされる。
    そこで彼が出会ったのは異形の醜さを忌み嫌われ、廟に封じられていた不可思議な鬼神だった。
    春虎と彼によって鬼風(クイフェイ)と名付けられた鬼神は主従の契約を交わし、新しい日々が始まるのだが……。
    絶対に素顔を見せないミステリアスな鬼神と健気な奉公人の主従BL。
    (中華ファンタジー/人外/鬼神×奉公人/不細工攻め×健気受け)
    イラスト:ごまだれはまち(@gomadarehamachi)様
  • 事件、社会ものの第一人者 登道烈山 本名 望月恒広がジョン万次郎 岸田内閣支援第九弾!!にと迫る。  幕末の鎖国時代、土佐清水の半農半漁の貧しい家庭の次男にと生まれた、ジョ万次郎十四歳。 父親は万次郎、九歳の時亡くなり、母親、兄は病弱。それ故十歳の時、下働きの小僧に出されるも酷使に耐えられず脱走。 そこで一家の生活を背負うジョン万次郎十四歳の折、実入りの良い漁師で、一発逆転を狙う。

    事件、社会ものの第一人者 登道烈山 本名 望月恒広がジョン万次郎 岸田内閣支援第九弾!!にと迫る。  父親は万次郎、九歳の時亡くなり、母親、兄は病弱。 そこで一家の生活を背負うジョン万次郎十四歳の折、実入りの良い漁師で、一発逆転を狙う。 天保12年1月5日(1841年1月27日)宇佐浦(現・土佐市宇佐町)早朝、サバ漁船にと漁師として乗り込むこととなる。 宇佐浦早朝出港、足摺岬の南東15キロ程の沖合で、サバ漁操業の折、嵐のシケの海にと吹かれ、沈没、漂流のあがきをこうむる。 五日余りの漂流の後、命からがら鳥島にと漂着する。 この絶海の孤島で万次郎らは、143日間に渡り、わずかばかりの真水と雨水を溜め置き。 それに鳥島と言われるだけの事はあり、当時渡り鳥の繁殖シーズンということもあり、これを捕らえ、玉子などと食べ、生きながらえることとなる。 そして遂に運命の143日目の天保12年5月9日(1841年6月27日)、食糧の海亀を捕獲にと訪れてた、アメリカ合衆国捕鯨船、ジョン・ハウランド号発見され、救出される。 しかし当時鎖国の真っ只中だった日本には、帰還は叶わず。 アメリカ合衆国に行くこととなる。 ここからが、一介の名もなき漁師にしか過ぎなかったジョン万次郎が、歴史の表舞台に立つ、数奇な運命の出会いということとなるのだった。 先陣となる勇気と行動力、努力により、アメリカ合衆国を初めて見た日本人として。 幕末、開国に向かい多大な貢献をすることとなる。 これは岸田内閣、岸田首相にも大きく似通ったところがある。 外務大臣を長らくやり、世界各国を友好訪問。 圧巻なのが、戦禍のウクライナを電撃訪問である。 一国の首相が、戦禍で混沌する外国訪問などということは、なかなか出来る芸当ではない。 事実、戦後首相が戦地を訪問したのは岸田首相が、初めてということとなる。 この勇気と行動力というものこそ、ジョン万次郎そのものである。 岸田首相こそ今日のジョン万次郎の再来だ。 確かに今、岸田内閣以前の内閣が演じた、政治資金パーティー裏金問題で、非常に苦境にと落ち行っているが。 しかし岸田内閣、岸田首相ならその勇気、行動力、力量をもってして、必ずや打破できる。 必ずや日本のため、良き道標にと導くでしょう。
  • 会社四季報の活用法が分かる。

    ※【銘柄を見つける『会社四季報の活用法』投資する前に読んでおきたい割安株、成長株】を加筆修正したものです。『会社四季報』は株投資において、必須の情報源です。3700以上の上場している銘柄を分析しようとすると、時間がいくらあっても足りません。四季報を活用すれば、投資対象を効率的に探すことができます。分析するのときの注意するポイントを分かりやすく解説しています。特に投資を始める初心者、基本に立ち戻りたい人におすすめな一冊です。目次はじめに・会社四季報とは・業種別業績展望・証券コード四季報の読み方【1四季報】【2四季報 記事 材料】〇四季報に使われているキーワードプラスの意味・株価が上向きに動きだすキーワードマイナスの意味【3四季報 株主】【4株式】【5四季報 資本異動】【6四季報 本社】【7四季報 業績】【株価指標】・成長株を探す四季報で確認する部分〇四季報その他・株主総会、サービスを利用する・四季報は2300円以上の価値があるおわりに
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。
  • 大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。この結び付きから、31年(昭和6)には、軍部内閣樹立のクーデター計画事件である三月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃(けんじゅう)と資金を提供したため逮捕され、下獄した。37年に出獄したのちは、大川塾と称された東亜経済調査局付属研究所を開設し、研究要員の育成にあたるほか、著作活動に力を注ぎ、『日本二千六百年史』をはじめ数多くの著書を刊行した。45年(昭和20)12月A級戦犯容疑で逮捕されたが、巣鴨(すがも)収容中に精神障害をおこし免訴となった。なお、都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた。昭和32年12月24日死去。
  • 歴史の回想・

    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。
  • 歴史の回想

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して1941年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。
  • 歴史の回想

    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。
  • 歴史の回想

    東条英機・とうじょうひでき(1884―1948)陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山らと一夕会(いっせきかい)を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の1935年、関東憲兵司令官となり、1937年には関東軍参謀長となった。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。1938年板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、1940年7月第二次近衛文麿内閣の陸相に就任した。松岡洋右(まつおかようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。1941年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、1943年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、1944年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。
  • 歴史の回想

    西園寺公望(1849―1940)近代の政治家、元老。嘉永2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の次男として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明天皇に近侍。王政復古の際参与、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
  • 東郷平八郎(1848~1934)明治大正昭和期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士東郷吉左衛門,妻益子の4男,妻は子爵海江田信義の娘テツ。日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る。そのため多数の伝記があるが,日露戦争後から死去する昭和9(1934)年までの29年間は知られず,誤解されてきた側面が多い。明治4(1871)年から11年までイギリスに長期留学したが,その前までは非常なおしゃべりで大久保利通に注意されたことさえある。しかし留学中寡黙の人に変身,終生変わるところがなかった。異なる言語習慣に苦しんだ末の変質で,英国人の友人ができなかったのもそのためであろう。帰国後もっぱら海上勤務に従事,中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも珍しい。明治17年清仏戦争の際には「天城」艦長として仏・クールベ艦隊に従い,26年にハワイ政変が起こると浪速艦長として居留民保護に急行,日清戦争(1894~95)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し,33年義和団事件が中国に起きると常備艦隊を天津に集結させ,歴史的事件が起きるごとにきまってそこに東郷がいた。36年連合艦隊司令長官となり,日露戦争終結まで艦隊を指揮,38年5月27日から28日にかけて,日本海でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ,日本の勝利を決定的なものとした。38年軍令部長,42年軍事参議官となって第一線から退いた。大正2(1913)年元帥に列し,3年から10年まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力し,社会的重みを加えた。昭和4年先任元帥井上良馨が没すると言動が活発化し,5年のロンドン軍縮問題で艦隊派の精神的象徴となり,8年まで軍部の動向や政局の混乱に大きなかかわりをもった。
  • 山本権兵衛やまもとごんべえ(1852―1933)海軍軍人、政治家。名前は「ごんのひょうえ」ともいう。旧薩摩(さつま)藩士山本五百助の六男。嘉永5年10月15日生まれ。14歳で父を失い、16歳で藩主島津忠義に従い京都守護に任じ、戊辰戦争に従軍、のち昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮に学ぶ。この間、征韓論に会し西郷隆盛の説諭で学業に専心し、1877年(明治10)海軍少尉に任官。のち世界各地を周航、帰国後「高雄」、「高千穂」艦長などを歴任し、1891年大臣官房主事として縦横にその才を振るい、海相西郷従道の全幅的信頼を得て懸案の海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年海軍省主事、1895年少将として軍務局長に進み、日清戦争では実質上海軍機務を切り回して権兵衛大臣の異名を得た。1898年中将、海軍次官から、山県有朋、伊藤博文、桂太郎各内閣の海軍大臣を歴任して日露戦争の難局を突破し、この間大将に昇任、戦後功一級、伯爵の位を得た。1913年(大正2)の大正政変で第三次桂内閣が倒れたあと、立憲政友会と結んで第一次山本内閣を組織し、現役武官大臣制の改革などで業績をあげたが、翌1914年シーメンス事件で辞職、現役を退いた。その後1923年関東大震災の渦中で再度内閣を組織し、普選実現、行財政整理、日ソ国交回復などを公約したが、震災の事後処理に忙殺されるなかで、同年12月の虎の門事件で引責辞職した。陸軍=長閥の山県有朋に対し、海軍=薩閥の統領として対峙したが、昭和8年12月8日病没、82歳。
  • 五代友厚(1836~1885)明治時代の実業家。号を松陰。薩摩(鹿児島)藩の儒者五代直左衛門秀尭,母やすの次男。幼名徳助,または才助。少年時代には藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。安政1(1854)年父の死後,藩に出仕して郡方書役となるが,同4年藩命により幕府の長崎海軍伝習所に遊学,以後,明治1(1868)年まで主として長崎に居をかまえ,勝海舟,榎本武揚,寺島宗則,本木昌造,佐野常民,高杉晋作らと交遊し,トーマス・グラヴァーとも親交を重ね,開明的知識を養う。文久2(1862)年2度にわたって上海に渡り,薩摩藩のために汽船,武器を購入。文久3年,薩英戦争が起こると寺島宗則(当時松木弘安)と共に,英艦隊と交渉に当たるが,捕虜となり,横浜に拉致される。釈放後,武州,長崎などで亡命生活を送ったが,帰藩を許され,慶応1(1865)年薩摩藩留学生の引率者として英国に渡り,紡績機械,武器を購入し,またベルギー,フランスでは貿易商社設立契約や万国博への出品委託を行った。渡欧中,薩摩藩主に富国強兵に関する18カ条の建言書を送り,慶応2年帰国後は御用人席外国掛に任ぜられて,外国貿易,鹿児島紡績所の建設,長崎小菅修船場の建設,薩長合弁商社設立の計画を行うなど,薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに,諸藩の志士と交わる。明治政府成立後,参与となり,外国事務掛,外国官権判事,大阪府判事を歴任,大阪を中心として外交・貿易事務,造幣寮の建設にかかわるとともに,通商・為替会社設立などを契機に大阪経済界とも接触した。明治2年官を辞し,金銀分析所,弘成館(鉱山経営),朝陽館(製藍事業),大阪活版所,大阪製銅会社を設立。さらに阪堺鉄道,大阪商船,神戸桟橋会社の設立に関係するなど実業界に入った。また,旧来からの大阪商人の力を結集して,堂島米会所の再興,大阪株式取引所の創設,大阪商法会議所(現在の商工会議所)の設立,大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダーシップをとり,商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者となった。
  • 原敬(1856~1921)明治大正期の政党政治家。南部藩(岩手県)藩士原直治,リツ子の次男。本宮村(盛岡市本宮)生まれ。幼名健次郎。号は一山,逸山。明治4(1871)年南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが,学資に窮して受洗,7年神父エブラルの従僕として新潟に赴く。8年帰郷。分家して平民となり,9年司法省法学校に2位で合格。12年食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。同年郵便報知新聞社に入社,社説も執筆し,甲府の『峡中新報』にも寄稿。15年退社。同年立憲帝政党系の『大東日報』(神戸)主筆となり井上馨に知られる。同年末外務省御用掛,16年清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章と交渉。清仏戦争の記録は詳細,本省への報告は的確であった。18年在仏公使館書記官,22年帰国し農商務省参事官,次いで大臣秘書官。陸奥宗光農商務大臣に傾倒し,25年陸奥辞任に伴い辞職。同年陸奥外相に招かれて外務省通商局長,28年外務次官,29年朝鮮公使。 陸奥の死を機に30年官界を去り,大阪毎日新聞社に編輯総理として入社,翌年社長。新機軸により同社の発展に尽くした。33年伊藤博文の立憲政友会創立準備に参画,9月設立されると政友会に入り総務委員幹事長。12月星亨が辞任した逓相を継ぐが,34年6月内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり,36年5月まで務める。この間35年岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限に止めた。以後西園寺公望総裁を助け,桂と交渉して39年1月第1次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革,「政友会知事」の増加に努め,郡制廃止法案で山県系を震撼させ,内閣の柱石となる。第2次西園寺内閣と大正政変(1913)後の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内正毅内閣の準与党となり党勢を回復,大正7(1918)年9月政権を獲得。
  • 山県有朋(1838~1922)明治大正期の軍人,政治家で元老の筆頭格。父は長州(萩)藩士山県有稔,母は同藩士岡治助の娘松子。幼名は辰之助,狂介など。長州閥,陸軍の最長老で官界や警察にも絶大なる勢力を振るった怪物的人物だが,家庭的には恵まれず,母は5歳のときに病死,妻友子との間に3男4女をもうけたが,山県の死後も生きたのは次女のみであった。吉田松陰の松下村塾(萩市)に学び,21歳のとき藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加,文久3(1863)年奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となり,翌年英米仏蘭4国連合艦隊と交戦して負傷(4国艦隊下関砲撃事件)。明治2(1869)年西郷従道と共に渡欧。3年8月帰国直後に兵部少輔となり,数日後兵部大輔の前原一誠が辞任したため実質上明治維新政府軍部の最高首脳となった。4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県の実施と山県の兵部大輔就任が重なり,直ちに国軍の創設に着手,薩長土3藩の兵1万で親兵を組織するとともに,東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台を設置,ヨーロッパで数百年を要した兵権統一の大事業を一気に実行した。5年兵部省が廃止となり,代わって陸軍・海軍両省が設置されると,陸軍大輔に任じられた。以後,16年内務卿になるまで,陸軍卿(初代),近衛都督,西南戦争(1877)における征討軍参謀,参謀本部長など陸軍の枢要ポストをことごとく歴任した。 11年には参謀本部,監軍本部を設置して統帥権の独立(参謀本部を陸軍省から独立させること)を進め,軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と軍令(統帥)の区別を明らかにし,組織上天皇制軍隊の建設に努めた。同年「軍人訓誡」,15年「軍人勅諭」を発布し,「忠君愛国」精神を軍人に注ぎ,内面からの天皇制軍隊の実現も怠らなかった。18年第1次伊藤博文内閣で,はじめて軍務外の内務大臣に就任し,黒田清隆内閣でも引き続き内相を務めた。20年には官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行し,帝国大学出身エリートが官僚を独占する道を開いた。21年市町村制を公布(翌年施行)し,地方に対して国家権力の介入を容易にした官治的地方自治制度の成立を図った。22年12月~24年5月,第1次山県内閣では,23年まで内相を兼ね,全国
  • 渋沢栄一(1840~1931)近代日本資本主義の指導者。天保11年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘夷運動の志士であったが、1864年(元治1)一橋家に仕え、慶喜が将軍を継ぐとともに幕臣になった。1867年(慶応3)幕府の遣欧使節の一員として渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞した。1869年(明治2)新政府の招きで大蔵省官吏に登用され、井上馨大蔵大輔のもとで、重要な貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与した。この間『立会略則』を著して株式会社制度に関する知識の普及に尽力した。1873年退官、同時に第一国立銀行(第一銀行の前身。のち第一勧業銀行を経てみずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された)を創立して頭取に就任した。以後財界のリーダーとして目覚ましい活躍を示した。王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などをはじめ創立に関与した会社は枚挙にいとまがない。また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも精力的に努めた。さらに財界の思想的指導者でもあり、実業家は国家目的に寄与するビジネスマンでなければならない(「経済道徳合一説」)ことを絶えず強調した。1915年(大正4)渋沢同族株式会社を設立し、第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成した。翌1916年実業界の第一線から引退し、以後は主として教育、社会、文化事業に力を注いだ。
  • 岩崎弥太郎(1835~1885)明治期の実業家。三菱財閥の創設者。土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男で,弟は弥之助。母は美和。伯父の岡本寧浦の塾である紅友社で歴史と漢詩を学び,次いで江戸の儒官である安積艮斎の私塾,さらに高知城外の吉田東洋の少林塾で治国経世の理論を学んだ。安政6(1859)年に長崎に出張し,さらに慶応3(1867)年に藩営商社開成館の長崎商会に派遣され,艦船,武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社とわたりあい,事業家としての腕を磨いた。維新後の明治3(1870)年に開成館は九十九商会という私商社となり,3隻の藩船を利用して海運と通商を行い,三川商会を経て6年3月に三菱商会と改称したが,この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立した。7年に本店を東京に移し,8年に郵便汽船三菱会社と改称した。 佐賀の乱(1874)から西南戦争(1877)まで,西日本で相次いで起こった内乱や,征台の役(1874),江華島事件(1875)において,新政府の要請に応じて三菱会社の船で兵員と軍需品を現地に輸送し,政府軍の勝利に貢献した。その見返りとして三菱会社は政府の船の払い下げや委託を受け,10年には汽船61隻(国内隻数の73%)を所有して日本海運界の王座についた。この過程で日本国郵便蒸汽船会社,P.O.汽船会社(英国),太平洋郵船会社(米国)などの内外のライバルを撃破し,また大久保利通や大隈重信らの政府実力者と関係を深め,政商としてのし上がっていった。 しかし三菱の海運業の独占が高まると,これを非難する世論が高まり,三井が中心になって14年に東京風帆船会社を設立して三菱を追撃した。「海坊主退治」の世論のもとにさらに壱六年には共同運輸会社が創設され,三菱と同社は値下げを繰り返して死闘を続けた。西郷従道農商務卿が「三菱の暴富は国賊同様なり」と非難すると,弥太郎は「我を国賊と呼ぶか,政府が果してその方針ならば,我も亦所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼き払い,残りの財産は全部自由党に寄附せん。かくなれば薩長政府も忽ち顛覆するであろう」とやり返したという。しかし共倒れの恐れが強まったので,政財界首脳部の斡旋により両社は合併して18年に日本郵船会社が成立し,三菱の有力傍系会社になった。
  • 小栗忠順(1827~1868)幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続,同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され,翌年1月横浜を出航し9月帰国した。同年11月外国奉行,翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが現地解決を断念し帰府,7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動,尊王攘夷運動を朝廷,雄藩による幕政介入とみて抵抗,徳川慶喜,松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1(1864)年8月勘定奉行に復職,次いで軍艦奉行,翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ,横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始,また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対,討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行,翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや主戦論を建議。かえって遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住,閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み,世界の大勢にもほぼ通じて,しかも誠忠無二の徳川武士,……三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。
  • 明治時代の軍人、政治家。弘化4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖陸軍卿に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望と交互に政権を担当した(いわゆる桂園(けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬(はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗」と評したという。 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した
  • 井上馨(1836~1915)明治大正期の政治家。号は世外。萩(長州)藩士井上光享の次男。安政2(1855)年同藩士志道慎平の養嗣子となり,参勤交代に随行して江戸に出て,蘭学,砲術を学ぶ。万延1(1860)年小姓役となり藩主より聞多の名を賜る。文久2(1862)年高杉晋作,伊藤博文らと英国公使館を襲撃するなど攘夷急進派として活動。3年伊藤らと英国に渡航,開国の必要を悟った。翌元治1(1864)年萩藩の外国船砲撃の報を聞き急遽帰国,英国公使パークスと藩当局の調停に奔走した。幕府の長州征討に対しては武備恭順,勢力温存策を唱えた。慶応2(1866)年高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加。薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器,外国船の購入などに携わった。維新政権の成立にともない参与職,外国事務掛,九州薩摩総督参謀,長崎裁判所参謀,外国事務局判事,長崎府判事兼外国官判事,長崎府武器修理御用掛などを務めたのち,明治2(1869)年大蔵省に移り造幣頭。民部大丞兼大蔵大丞,大阪府大参事心得を兼ね,造幣事業の進展に努力した。その後民部少輔,民部大輔を経て4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。その後,先収会社(のちの三井物産)の設立など実業にかかわったが,8年元老院成立で議官となり,9年江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち,欧州出張。11年7月帰国して参議兼工部卿。12年外務卿(のち外務大臣)。 このあとの8年間は,条約改正と対朝鮮および中国問題が主な外交問題であった。また条約改正作業と関連した欧化政策がある。条約改正では以前の個別交渉方式を捨て列国会議方式をとり,法権回復を優先させようとした。壬午事変(1882),甲申事変(1884),清仏事変(1884~85)などの対外問題では脱亜主義ではなく日清提携をふくむアジア主義的な策をとった。20年本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。
  • 「榎本武揚の概略」えのもとたけあき(1836―1908)旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎、梁川と号した。天保7年8月25日、幕臣榎本武規(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆、福沢諭吉らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵。1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。
  • 松平慶永・春嶽(まつだいらよしなが)(1828―1890)幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(靭負(ゆきえ))、鈴木主税らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を推すなど、島津斉彬(薩摩藩)、伊達宗城(宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(のち14代将軍家茂)の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭はじめ、先の大名たちとともに謹慎処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。
  • シリーズ13冊
    0275(税込)
    著者:
    仲路さとる
    レーベル: 仲路さとる

    本能寺の変を辛くも逃れた信長の前に、天下人をめざす秀吉が立ちはだかった。

     信長、秀吉、家康、一番強いのは誰だ。

     学習研究社、第1回歴史群像大賞受賞作。シリーズ累計100万部の「異戦国志」が電子書籍で復活。戦国歴史シミュレーションノベルは、この作品から始まった。
  • 後藤象二郎(1838~1897)幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5年(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2年(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1年(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4年(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。
  • 小松帯刀(1835~1870)幕末の薩摩藩家老。薩摩藩喜入領主肝付氏の三男として生まれ、のち吉利領主小松清獣の養子となり、帯刀清廉と名を改める。1861年(文久元)島津側役となり、1862年家老。藩政改革に大きな影響力をもった大久保利通ら尊攘派青年藩士の組織組忠組の指導者となった。1862年久光の上洛に随従。1864年(元治元)の禁門の変の処理、1866年(慶応2)には薩長同盟の締結を果たした。翌年城代家老となり、薩土盟約を結び、将軍徳川慶喜の大政奉還の勧奨など、藩を代表して活躍していた。藩主島津忠義には倒幕出陣を説いて実現させ、王政復古・倒幕など明治維新の実現に寄与しした。1868年(明治元)には明治政府の参与、外国官副知事となった。
  • 岩倉具視(1825~1883)幕末・維新期の公家出身の政治家。権中納言堀河康親の次男、母は勸修寺経逸の娘俶子。岩倉具慶の養継子。周丸と称し、号は対岳、法名は友山。関白鷹司政通に認められて、1854年(安政元)孝明天皇の侍従。1858年日米修好通商条約の勅許阻止で公家88名の列参を画策。公武合体の立場から和宮降嫁を推進し、1861年(文久元)和宮に従って江戸に下った。そのため尊攘派から「四好二嬪」の一人として弾劾され、1862年辞官落飾し、洛中より追放、洛北岩倉村に潜居。「全国合同策」「天下一新策密奏書などで時勢を論じ、ひそかに廷臣や大久保利通など薩摩藩士らと交わって倒幕の秘策を練る。1867年(慶応3)許されて、復飾、参内して朝議を主導して、薩長討幕派と結んで「王政復古」の大号令を発した。新政府樹立直後から参与、議定・副総裁を歴任、議定書兼嗣相となり、新政府の中心人物となる。1869年(明治2)東京に移り、大納言となり、永世禄500石を下賜された。1871年外務卿、ついで右大臣となり、特命全権大使として岩倉遣外使節団を率いて、約一年10カ月間、米欧各国における近代国家としての制度、文物等の視察をした。1873年9月に帰国、復命し、留守政府の西郷隆盛らの征韓論に反対し、大久保、木戸孝允らと内治優先論を唱え、ために西郷・板垣退助ら留守居政府参議は下野し政府の主導権を岩倉ら外遊派が握った。よく1874年不満とした武市熊吉ら高知県士族らが岩倉暗殺を企てた赤坂喰違の変をで負傷。華族の同族的結集を図って華族会館を創設した。そのご自由民権運動を弾圧し、太政官大書記官井上毅に憲法制定基本方針「大綱領」「綱領」を起草させ、三条実美太政大臣に提出をした。明治14年の政変後は、皇室財産の確立、家族財産の保護、十五銀行、日本鉄道会社設立など、皇室とその藩屏として家族擁護に努めたが、1883年7月病没した。
  • 幕末

    横井小楠(読み)よこい・しょうなん生年没年:文化6年(1809)~明治2年(1869)幕末の儒学者。名は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。他に畏斎,沼山などと号す。肥後(熊本)藩士横井時直とかずの次男に生まれる。藩校時習館に学び天保10(1839)年江戸に遊学。14年ごろから長岡監物,下津休也,荻昌国,元田永孚らと『近思録』会読を始め,真の朱子学即ち実学を目指した。また私塾小楠堂で弟子を教えた。門人には嘉悦氏房ら藩士子弟と共に徳富一敬(蘇峰らの父)のような豪農の子弟がいた。嘉永4(1851)年上方から北陸を遊歴,越前藩との接触が深まり,翌5年同藩から求められ『学校問答書』を書き,学政一致の道徳政治の担い手たることを藩主に求めた。またペリー来航後書かれた『夷虜応接大意』では,日本は「天地仁義の大道」に基づき「有道」の国と交際すべしと説く。安政1(1854)年兄の死により家督を相続。5年越前藩主松平慶永(春岳)から師として招かれ,藩政を指導し富国策を実施し,その経緯を『国是三論』に著す。文久2(1862)年幕府の政事総裁職に就いた春岳の政治顧問となり,参勤交代制の廃止など幕政改革を推進した。同年末,肥後藩江戸留守居役吉田平之助宅で酒宴中刺客に襲われ福井に戻る。翌3年朝廷,幕府,諸藩さらに外国人代表をも集めた大会議を領導すべく,越前藩挙藩上洛策を指導するも失敗,熊本へ帰り士籍を剥奪され,沼山津に逼塞したが思想的活動は衰えなかった。その思想は儒教的理想主義による政治革新と儒教的主体による東西文化の統合の構想など注目すべきものである。明治1(1868)年4月新政府に招かれ上京,徴士参与に任ぜられたが,尊攘派志士に暗殺された
  • 桂小五郎(木戸孝允)(1833~1877)明治維新の最高指導者のひとり。大久保利通、西郷隆盛と並んで「維新の三傑」に数えらえる。維新政府の指導者として立憲制度を始め明治国家体制を構想した。長州藩の藩侍医和田家に生まれ(のちに燐家の桂の養子となった。小五郎と命名された。青年期に剣術修行のために江戸に滞在中、ペリー来航を目の当たりにする。この事件をきっかけに幕末政治に強い関心を抱き、まず西洋砲術や造船技術、オランダ語などを学んだ。一方、水戸学の影響かのもと志士として活動し、長州藩と朝廷及び他藩とを結ぶ外交活動に従事した。現実政治に深くかかわるにつれて彼の思想の観念性を脱して、次第に現実味に即したものに変わった。しかし1864年(元治元)の蛤門の変で長州藩が敗れると彼は但馬に逃れ、いったん政治の世界から遠ざかる。やがて同志である高杉晋作が長州藩の指導権を握ると、呼び返され、木戸と改名され長州藩の主導者として幕末政治に復帰。藩政改革や近代化政策を実行するとともに、坂本龍之介の仲介で仇敵あった薩摩藩と幕府打倒薩長同盟をを結び、明治維新を実現した。維新後は、木戸の課題であった中央集権国家を形成するために、版籍奉還、廃藩置県の断行に向けて政府をリードした。この間に、新政府に権力を集中するために朝鮮出兵を主張したこともあった。1871年(明治4)から岩倉遣外使節団に参加して欧米各国を視察し、近代国家の各側を観察した。帰国後、征韓論争大久保利通らとともに内政優先を唱えてて政府内に実権を握り、長州藩閣のリーダーとなった木戸は薩摩藩閣のリーダーである大久保と対立し、主導権荒層に敗れて晩年は不満を抱き鬱々の後を過ごした。
  • 島津斉彬(1809~1858)幕末の薩摩藩主。島津家28代。父は27代島津斉興、母はとり藩主池田治道の娘弥姫。幼名邦丸、後に又三郎忠方。曾祖父重豪の影響を受けて、幼い頃から洋学に関心を示した。早くから西洋列強のアジア進出に危機感を抱き、本格的な西欧の科学技術導入を主張、水戸の徳川斉昭や老中阿部正弘、蘭学者川本公民・箕作阮甫らと親交を結び、公民らに数多くの蘭書を翻訳させた。藩内外でその人格と世界的見識が高く評価され、藩主就任を待望されていたが、斉興や家老調所広郷は斉彬が財政を破綻させるのではないかと危惧して、家督を渋った。こうした状況下、斉興の側室由良たちがその子久光を擁立しょうとしているという風聞が広まり、斉彬擁立派が激高して由良らを暗殺を企てたが、1849年(嘉永2)この計画が露顕し、首謀者の高崎五郎衛門ら多くの藩士の切腹・遠島・謹慎などに処せられた。このお家騒動で斉彬は一時窮地に立たされたが、老中阿部正弘らの後押しで1851年藩主に就任した。襲封後は、まずは鉄製砲の鋳物と洋式船の建造に着手。1852年には鉄製砲を鋳物するための反射炉の建設を鹿児島郊外に磯で始め、1854年(安政元)には洋式軍艦昇平丸を、翌1855年には蒸気船雲行丸を完成させた。その他ガラス工場などを次々築き集成館と名付け、集成館を中核に集成館事業という、富国強兵・殖産興業政策を推進した。ペリー艦隊来航を機に外交問題が表面化してくると、老中阿部を補佐し積極的に幕政に関与していった。阿部らとともに一橋慶喜を将軍継嗣に擁立し南紀派と対立していった。1858年南紀派の井伊直弼大老が就任すると、斉彬ら一橋派の敗北が決定的になり、帰国中の斉彬は西行隆盛に密命を与え上京させたが、その直後7月8日軍事演習中に倒れ8日後に病没した。
  • 高杉晋作(1839~1867)幕末期長州藩の攘夷・討幕派の志士。長州藩高杉小忠太の長男として長門国萩に生まれた。名は春風、字は暢夫、号は東行。変名も多数。藩校明倫館に学んだが飽き足らず、吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞とともに松門の双璧とされ、松陰はその「識」を高く評価した。1862年(文久2)上海に行き西洋列強によって半ば植民地化されている実情を見、対外的防衛がの必要性を強く感じた。帰国後は、イギリス公使館焼き討ち事件などを、いわゆる「狂挙」を行った。この「狂挙」は陽明学の概念で、理想主義という語感に近く、冷静な計算のうえでの行動であることを留意すべきある。1863年6月奇兵隊を結成し、その初代総管となる。1864年(元治元)四国連合艦隊下関砲撃事件に際しては和議の交渉にあたった。その後第一次長州征討の中で保守派に握られたが、12月下関で決起し、翌年、保守派を破って藩の主導権を奪い返した。幕府軍に備えて挙藩体制を固めた。1866年(慶応2)の薩長戦争で小倉口戦で活躍したが、翌年病死した。
  • 山内容堂(1827~1872)土佐藩主、幕末四賢君の一人。分家山内豊著の長男。1848年(嘉永元)中継ぎ養子として15代藩主として就任。1853年、ぺリ^来航を機に吉田東洋を抜擢、海防強化政策に着手。将軍継嗣問題では一橋擁立派にくみしたため、大老井伊直弼に圧迫され隠居、謹慎、以後容堂はを名乗った。1862年(文久2)謹慎を解かれ、公武合体路線の一橋慶喜・松平春嶽(慶永)らと幕政改革、公武周旋尽力。土佐へ退去しして、旧吉田派を復権させ主張する武市瑞山らを中心とする(勤王党)を弾圧、殖産政策、軍部充実政策を推進した。1867年(慶応3)7月、後藤象二郎の進言を採用し、幕府に大政奉還を受け入れさせた。維新政府の議定内国事務局総督、刑法官知事、学校知事、制度寮総裁、上局議長を歴任、1869年(明治2)7月、麝香之間祗候の優遇を受けて隠遁した。
  • 中岡慎太郎)1838~18867)幕末土佐出身の尊攘・倒幕の志士。土佐国安芸郡大庄屋の長男。剣術を武市半平太に就き修行、1861年(文久元)土佐勤王党にに加盟。翌年隠居山山内容堂の護衛隊50人組に参加、その後容堂の公武合体路線に疑問を深める。土佐勤王党弾圧時事には七卿落ちの実情調査に長州三田尻へでていたために捕縛を免れたが9月脱藩して石川清之助と変名。1864年(元治元)7月、来嶋又四郎の遊撃隊に属して蛤御門の変に参戦、負傷して三田尻に帰還。真木和泉亡き後の忠勇隊の総督に任じられ、五卿の警固にあったた、高杉晋作の奪権闘争を間近に観察。また土方久元らと筑前大宰府に移った五卿の庇護に奔走、土方とともに薩長和解・連合を構想し、坂本龍馬らと共同して1866年(4月2)正月にそれを達成。翌年に4月脱藩を赦免され、5月に土佐藩討幕派の乾退助と提携して薩土倒幕密約を西郷隆盛らと結び、土佐藩の支援を取り付け浪士の集合体である陸援隊を組織。一挙に藩を倒幕路線の誘おうとしたが、同年11月15日、京都三条近江屋で坂本と密談中を幕府見回り組に襲撃され17日に落命した。
  • 島津久光(1817~1887)29代薩摩藩主島津忠義の実父。幼名晋之進、後又次郎忠教、三郎と称した。父は27代斉興。母は側室由良。島津忠公の養子になって重富島津家を継ぐ。1858年(安政5)異母兄斉彬が急死、その遺言により久光の長男忠義が家督を継承して薩摩藩主となったため本家に戻り、忠義の後見役となって藩の実権を握り、国父と呼ばれた。斉彬の遺志にを継承して公武合体論を唱え、大久保利通ら藩内の攘夷派を諭して突出を押さえた。1862年(文久2)には藩内攘夷過激派を弾圧(寺田屋事件)。この時に命令を背いた西郷隆盛を流刑に処した。さらに同年、勅使大原重徳とともに東下し、幕府に改革を迫った。その帰途に、供の藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)。翌年にはこれが原因となって薩英戦争が勃発した。1864年(元治元)の参与会議では、長州処分・横浜港問題を巡って徳川慶喜と対立。事態打開のために西郷隆盛を呼び、第一次長州征討、薩長同盟締結、第二次長州征討などにあたらせた。この間に藩論を王政復興後は、政府の開明政策に不満を抱きつけた。1871年(明治4)玉里島津家をおこす。1873年内閣顧問、1874年左大臣に任じられたが、1876年政府の欧化政策に批判して鹿児島に帰り隠棲した。1884年公爵になる。国葬により鹿児島市の旧福昌寺墓地に葬られた。
  • シリーズ117冊
    220330(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。 しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。
  • 「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などの賎民や流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。またこれに似た「三浦の乱」が三浦の乱(さんぽのらん)
  • この書籍は、高卒認定試験 英語の合格に必要となる頻出の英単熟語を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験の参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
  • 歌川広重の保永堂版・東海道五十三次を解説付きで完全収録

    解説付きで広重の東海道五十三次の世界がよくわかる! 本誌では広重の創作意図に着目し、鑑賞ポイントを解説。より深く歌川広重の「東海道五十三次」の世界を理解できます。これを見れば、広重の東海道五十三次がなぜ傑作と言われているのか良くわかるはずです。

    東海道五十三次は、起点の日本橋、終点の京都、その間をつなぐ53の宿場街を郷土色を大切にしつつ、抒情豊かに描き出した人気シリーズです。五十三次の中でも歌川広重が手がけたこの保永堂版は、江戸時代から現代まで売れ続け、これからも売れ続けていくであろう永遠の大ベストセラーで、日本美術史上の最高傑作として名を残しています。

    描かれている宿場街のさまざまな風景、人々の営み、季節や時などの空気感は、日本の原風景として私たち日本人の心に深く刻み込まれています。

    解説文とともに東海道五十三次のすばらしさを存分に味わっていただければ幸いです。
  • この書籍は、秘書検定 2・3級の合格に必要となる頻出の知識を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験に役立つ参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
  • この書籍は、国連英検 特A級とA級の合格に必要となる頻出の英単熟語を学習しやすいように編集したものです。電子書籍で読むことを前提にできるだけシンプルな本の構成にしており、繰り返し読むことによって効果的に学習ができます。本書が受験に役立つ参考書として、お役に立つことを心よりお祈り申し上げます。
  • 2024年2月、日経平均株価が34年ぶりに史上最高値を記録。更新前の過去最高は「バブルのピーク」の1989年12月だった。バブルはなぜ80年代後半に膨張し、90年代前半に崩壊したのか。「経済大国日本」は幻だったのか。バブル時代の政治、経済、財政、金融の軌跡、「熱狂と陶酔」に踊った人たちの人間模様など、「バブルのリアル」の全貌を描いたノンフィクション。

    【目次】
    序 章  バブルの興亡
    第1章  熱病と業病
    第2章  日米金融摩擦
    第3章  中曽根民活
    第4章  長期低金利
    第5章  ブラックマンデー
    第6章  証券の腐食
    第7章  アメリカ買い
    第8章  財テクブーム
    第9章  踊るマネー
    第10章  平成元年の変
    第11章  バブルつぶし
    第12章  危機の幕開け
    第13章  銀行の転落
    第14章  大蔵省の綱渡り
    第15章  神話崩壊
    第16章  A級戦犯
    終 章  バブルの教訓
    主な参考資料(五十音順)
    電子版の発行に当たって
    著者紹介
  • 洗脳、カルト、詐欺師

    本書は、人間をコントロールしようとする『信者ビジネス、カルト宗教、オンラインサロン、詐欺師』などから身を守るための本です。特に人生経験が浅い、若者に読んで欲しいという想いで執筆したものです。私たちは、自分の意志で判断して自由に生きることができます。もし自分の大切な人が、信者(会員)になりお金と人生を奪われているとしたら、どんなことをしても守らなければいけません。現在人々を思考停止に陥らせ、その自由を奪う危険な集団が蔓延っています。そういった詐欺、オンラインサロン、カルト宗教から身を守るための一冊です。自分や家族、大切な人たちが、盲信者になったとしたら人生を全て失うことになります。構造を知っておくことで、自分と大切な人を守る事ができます。目次はじめに〇盲信するということは、思考の放棄と同じ・盲信する危険性〇奴隷精神・搾取されることに慣れると居心地がよくなる・苦しんだ分だけ対価が得られる?・他人の決めたルール〇大勢を操ろうとする邪悪な存在・民主主義と大衆のコントロール〇宗教の洗脳・宗教の洗脳が秩序を保っている・信者だけを救う神・恐怖で人をコントロールする・恐怖、不安などを理由に行動していないか・罪の意識を与える〇分かりやすさが大衆を操る・大衆を味方につける必要性・愚かな人たちに向けて発信されている・シンプルなメッセージ スローガン・単純明快な思想、ビジョンを語る・大衆に向けた宣伝〇見た目、雰囲気で騙される・話の内容より雰囲気が大事・取り巻きの信者の効果・一見するとよい人・好感度が高ければ高いほど影響を与えることができます。〇大きな変化は必要ない・人々はほんの小さな変化すら嫌う〇嘘をついても心が痛まない 人々を操る人間・平然と嘘をつく・約束は守らないのなら、それぽい理由付け・不確かな状況でも確信して言い切る〇弱っている人間を狙う・不安定な世の中になると・不安定な世の中でヒーローを求める・似非科学、権威・心の弱っている人間ほど操られる・疲労によって人の意志が弱くなる〇怒り、感情を利用する・注目をあつめるには感情を煽る・怒りや不満を代弁する演説・敵を作る・不安で敵を作り出す・演出、感情に訴える・役者のように演じ、感情を露わにする。etc〇参考文献
  • 化学史好きの大学教員が贈る,知られざる酸とアルカリの歴史!

    化学の教科書には様々な用語や物質が登場します.ひょっとして,それらを暗記するだけで満足していませんか?もしそうなら非常にもったいないです.実はこうした用語や物質が登場した背景には様々なドラマがあり,教科書はその結末を書き連ねたにすぎません.例えば酸やアルカリといった基本的な物質もそうです.

    錬金術の時代に酸はどう作られたのか?
    フランスでアルカリ製造法が誕生した理由とは?
    そもそも酸や塩基は,誰が何のために定義したのか?

    さらに歴史を深掘りすると,染料産業と硫酸,フランス革命と炭酸カリウム,第一次世界大戦とアンモニアなど,酸やアルカリは社会と密接に関わってきたことがわかります.こうした歴史を知るだけでも,何気ない教科書の文章が面白く見えてくるはずです.

    本書では,著者自身の化学史研究や学術論文,理工書,議会の報告書などの資料をもとに,あまり知られていない酸とアルカリの歴史を復元しました.

    第1章は化学工業や戦争と関わりの深いソーダ灰やポタシュ,アンモニアといったアルカリの歴史を,第2章は錬金術の時代に誕生した硫酸や硝酸,塩酸などの酸の歴史を紹介します.第3章ではアレニウス,ブレンステッド,ローリーといった化学者たちが酸や塩基を定義した背景を探ります.特にブレンステッドについては,著者自身の化学史研究の成果をもとに,生化学者ミカエリスの貢献を取り上げました.

    本書は日用品の歴史から化学者・技術者の生涯まで,どのページも明日誰かに話したくなるようなネタであふれているはずです.

    著者:遠藤瑞己
    著者プロフィール:
    2011年 東京大学理学部化学科卒業
    2016年 東京大学大学院理学系研究科博士後期課程修了.博士 (理学).
    現在 東京大学理学部 助教.専門は分析化学.
  • 事件、社会ものの第一人者、登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第八弾!!、共生社会、回顧 障害者差別に迫る。  子供の障害者差別、校内いじめというものは、子供ならではの世界でと捉えた、子供特有の残酷な障害者の誹謗中傷、差別というものを。 子供ならではの腹の内というものををさらけ出した、残酷な、障害者、誹謗中傷、差別の世界というものを、誰憚らず演じたのみの話ということです。

    事件、社会ものの第一人者、登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第八弾!!、共生社会、回顧 障害者差別に迫る。  子供の障害者差別、校内いじめというものは、子供ならではの世界でと捉えた、子供特有の残酷な障害者の誹謗中傷、差別というものを、歯に衣をきせぬというか。  大人のような妙に束縛のない、子供ならではの腹の内というものををさらけ出した、残酷な、障害者、誹謗中傷、差別の世界というものを、誰憚らず演じたのみの話ということです。 校内いじめというものは、2000年以前は手厳しいものがあった。 親の背を見て子は育つ。といったことわざもあるとおり。 これが表てに荒立てずと言えども、この以前の暗黙の社会的観念とならば、このはなから障害者誹謗中傷、差別を当然なものとして肯定なさしめん代替、社会的潮流となしていたのだつたのです。 障害者ということで、誹謗中傷はいとわず。 就職さえも容易のこととならず。人権なんのというよりも、社会の除け者扱いされていたのだった。 ここまでの障害者の非業な歴史というものが如何ばかりか、察して余りあるというものでしょう。  2006年にと「障害者権利条約」というもので、世界的レベルでのルールが構築され。 障害があったり、肌の色違ったり、女性だから、子供だからと、さまだまな「ちがい」を理由に差別を禁じたものです。 日本においても、2014年にルールとして取り入れられ。さらに「障害者差別解消法」が2016年4月に制定され。国、地方公共団体、事業者に対して、不当な差別扱いの禁止や合理的配慮(可能な範囲で障害のある人に配慮すること)を求められています  ならば岸田内閣は誰もが人権を人格を尊重し、障害有る無いにかからず、支える人支えを受け人にと分かれることなく、支えあい。 さまざまな人々の能力が発揮され、活力ある生き生きとした人生を送ることが叶う、共生社会を政策にとかかげ。 岸田内閣は2006年出来た「障害者権利条約」という世界のルールを基として、共生社会実現を目指して障害者の平等、社会進出というものにと、何よりも重点を置いた、基本的人権擁護の施策を講じている。
  • 8冊をまとめたお得版

    本書は8冊の本を、加筆修正してまとめた1冊です。暇つぶしに使える楽しい雑学を集めました。『ゲーム、スポーツ、娯楽の雑学73種類』『モノの雑学80種類』『ヤバイ雑学76種類 』『医学、人体の雑学40種類』『歴史、迷信、語源の雑学115種類 』『自然、宇宙の雑学59種類 』『食べ物の雑学64種類』 『生き物90種類』計580種類以上の雑学が載っているお得な一冊になっています。〇食べ物の雑学お米の雑学・梅干しおにぎり条例・トウモロコシの祖先肉の雑学・アステカ文明の人肉料理鶏肉の雑学・からあげクンの当たりその他肉の雑学・ラム肉とマトン肉の違い・高級生ハム・江戸時代のクジラ料理本・人肉饅頭・食人族の映画・中国でみつかったビンテージ肉卵の雑学・卵の黄身が2つ入っている確率・最高級オムレツ・中国で発見された偽卵魚の雑学・食べるとお尻から油がでる魚魚介類の雑学・かずの子条例寿司の雑学・最高級のお寿司野菜の雑学・トマトで健康づくり条例・オーガニック野菜の栄養価・LSDサボテン豆知識・白いんげん食中毒果物の雑学・生梅の危険性・渋柿の割合・種なしスイカの作り方・最高級スイカ・小型スイカ・黒いリンゴ・りんご丸かじり条例飲み物の雑学・牛乳で乾杯条例・瓶のコーラが美味しい理由・自販機で当たりがでる確立お酒の雑学・日本酒で乾杯しよう条例・Gスピリッツ・ストロングゼロの素晴らしさ調味料の雑学・ミントの違い加工品の雑学・チーズの穴・中国式キムチ?・段ボール肉まん添加物の雑学・人毛サプリメントジャンクフードの雑学・17万8000円のピザ・ハンバーガー大学・最高級バーガー料理の雑学・オーブンの下にある引き出し・高級スープお菓子・デザートの雑学・高級チョコレートサンデー・最高級チョコレート・最高級カップケーキ・ミルフィーユの語源・バニラは高価etc
  • 事件 社会ものの第一人者 登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第四弾、共生社会 障害者対策にと挑む。 老舗の万事屋にと念願の跡取り息子高崎大純が誕生ます。 ようやく得た跡取りに、両親はもとより、親族上げてわきかえり、この珠玉にと、余りの大きな虚飾の飾り羽ね着飾り、期待する。 しかしこの跡取り息子が五歳になった時、地域に小児麻痺の疫病が流行する。

    事件 社会ものの第一人者 登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第四弾、共生社会 障害者対策にと挑む。 老舗の万事屋にと念願の跡取り息子高崎大純が誕生します。 ようやく得た跡取りに、両親はもとより、親族上げてわきかえり、この珠玉にと、余りの大きな虚飾の飾り羽ね着飾り、期待する。 しかしこの跡取り息子が五歳になった時、地域に小児麻痺の疫病が流行する。 そしてはからずや、高崎大純は小児麻痺にと感染し、障害者となってしまいます。 これは高崎家にとって、至福の絶頂から奈落の谷底にと突き落とすものでした。 そこで岸田内閣は障害者対策として、障害があるないにかからわず、老若男女問わず互いに人権、尊厳を大切に支えあい。 誰もが希望と至福に満ちた、人生を送ることの出来る社会を、共生社会と掲げ。 社会の人々が分け隔てなく暮らしていける社会を目指してやまず。  社会生活を送るがうえで、障害者という観念を無くすことを意味します。 そのためには2006年に出来た「障害者権利条約」世界のルールがあり、障害者の差別を行わないよう、徹底する。  障害者権利条約とは障害があったり、肌の色が違ったり、女性だから、子供からと、「違い」を理由に差別することなく。 この違いの中にこそ、個性があり人権を尊重るとういうのが、世界のルールとなります。 「障害」にはその人の体心に宿る(機能障害)と、社会から作られる、被せ掛けられる、障害者だからというバリア(例えば、)とがあります。 これを取り除かねばなりません。 この「障害者権利条約」という世界のルールを基として、共生社会実現を目指して、障害者の平等、社会進出というものにと、何よりも重点を置いた、基本的人権擁護の施策を講じています。
  • 110(税込)
    著者:
    鈴木 強
    レーベル: ナントカ堂

    『宋史』「宦者伝」(宦官の列伝)4巻と、「補足」として多少の記事を加え、『宣和画譜』から童貫を始め十人の記事を追加、「関連人物」として張孜・鍾傅・苗傅の列伝、『元史』「李邦寧伝」、『遼史』「宦官伝」、『金史』「宦者伝」の訳に現存する宋代宦官の墓誌4つの紹介です。

    『宋史』「宦者伝」(宦官の列伝)4巻と、「補足」として多少の記事を加え、『宣和画譜』から童貫を始め十人の記事を追加、「関連人物」として張孜・鍾傅・苗傅の列伝、『元史』「李邦寧伝」、『遼史』「宦官伝」、『金史』「宦者伝」の訳に現存する宋代宦官の墓誌4つの紹介です。
  • 上古から大和朝廷成立までの歴史物語を綴りました。大陸の古い歴史を背負ってきた渡来人たちが築きあげた歴史は、不老不死の実現、神仙の国(神国)・蓬莱郷づくりなど魂の再来、水田稲作、古の善政再現、孫子の「戦わずして勝つ」の実現にしのぎを削った歴史でもありました。
    その間の前五世紀から倭国大乱まで、那珂つ国と天之国、オロチ厳之国、倭国、豊葦原中つ国、伊都国、倭奴国、邪馬台国の王朝が立て続けに興りました。大乱後は、南九州に逃れた倭奴国末裔が邪馬台国と覇権を争った末に、晴れて倭国や倭奴国の再興を成し遂げ、大和朝廷を打ち立てたのです。
    それらが複雑に織り重なって流転する様子は、中国の「三国志」をはるかに凌駕して、世界中に誇れる歴史だったのですが、大和朝廷や「記紀」の編纂者らは、
    神武―崇神―応神とあるべき王系譜に、神武―崇神の間に大倭(大日本)家八代(綏靖~開化)を挟み、崇神―応神の間に垂仁・景行・成務・仲哀の邪馬台国王四代を割り込ませて、万世一系に創り変えたのです。本書の王系譜は、「記紀」の随所に潜んでいる矛盾や改ざんを洗いざらい探し出して、本来あるべき姿に正したもので、国宝に指定された海部氏系図と合致します。
    目次
    司馬遷の信念
    本書の王系譜〔海部氏系図、尾張氏系譜、「記紀」系譜の合成系図〕1
    本書の王系譜〔海部氏系図、尾張氏系譜、「記紀」系譜の合成系図〕2
    垂仁天皇三代と大物主四代/三輪山磐座の関係
    主要人物の生きた推定年代
    ◇邪馬台国はどこか/火瓊瓊杵の日前国と西都/天火明の日高見国と東都
    ◇男神天照大神の正体1
    ◇男神天照大神の正体2〔熊野権現〕
    ◇男神天照大神の正体3〔天照大神の足跡〕
    ◇籠神社と海部氏系図/神武(磐余彦)と神功と応神
    ◇「記紀」系譜の復元=「記紀」本来の王系譜
    ◇邪馬台国の興亡~大和朝廷成立までの歴史詳細
    ◇邪馬台国の興亡史概略
  • 6000種類の大ボリューム!!

    本書は、10年以上かけて集めた【6000種類】の雑学を、食べ物、生き物、自然、物、エッチで過激なネタまで、すべてを詰め込みました。何かを知るということは、それだけで楽しいものです。無駄だけど楽しい知識は、興味を掻き立て話を膨らませてくれます。人間関係を円滑にするコミュニケーションに、役立ちます。何よりも暇つぶしにも持ってこいです。普通の本には、記述できない内容。ブラックすぎて本書にしか載せられない情報をあえてそのまま!電子書籍だから出来た6000種類以上の圧倒的なボリュームでお送りします!※雑学 随時追加中
  • 事件社会ものの第一人者筆名 登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第三弾、大津中学二年生いじめ自殺事件にと挑む。 大津市中学二年生いじめ自殺事件、これは同級生のいじめを苦にと、2011年(平成23年)当時、大津市の中学二年生が自宅マンションから、飛び降り自殺事件。

    事件社会ものの第一人者筆名 登道烈山 本名 望月恒広が岸田内閣支援第三弾、大津中学二年生いじめ自殺事件にと挑む。 大津市中学二年生いじめ自殺事件、これは同級生のいじめを苦にと、2011年(平成23年)当時、大津市の中学二年生が自宅マンションから、飛び降り自殺事件で。 内輪でもみ消そうという隠密体制というものが、大きな問題となり、それまで子供の喧嘩程度にしか解釈にしか過ぎなかった校内いじめ問題というものが、大きくクローズアップされ。 この後国レベルまで持ち上げられ、いじめ防止対策推進法が。国会で可決される事となります。 校内いじめが公の場にと、露とされる転機となる事件となります。  大津市中学二年生いじめ自殺事件、そこには被害者少年Rにとって、幼児期から親の庇護にと守られていた。 しかし親の手から離れ、中学という義務、義務教育という逃げるに逃げようもなき、囲い場にと埋没することとなる。 この事によりいじめ禍にとあいながらも、大人の解釈でと、子供の喧嘩ぐらいにしかとられなかったものが、公の場にと取り上げられることとなります。 ならばこの事件まではいじめ禍にとあいながらも、不登校は公にと容認されなかった。 不登校児は一方的にと社会から疎外されることとなる。 この刷り込まれた社会観念こそ、校内いじめにとあった被害者の少年Rは逃げ場を失い、究極的にと自殺にと追い込んで行くことなります。 この事件後国会レベルでと、いじめ対策推進法が制定されてもなおかつ、校内いじめにより、自殺者は後をたたない。 これにと業を煮やした岸田内閣は、岸田首相陣頭のもとにと、校内いじめ対策にとかかります。
  • 驚愕の雑学!

    本書は、歴史、迷信、語源の雑学を115種類まとめた一冊です。暇つぶし、雑談に使える楽しい雑学。知的好奇心を高め、物知りだと思われるそんな本です。目次はじめに規則、ルールの雑学交通の雑学・信号の青日付の雑学・昔の時刻日本の法律ルールの雑学・住居がなく、働かないで徘徊することは違法・日本に存在したミニ独立国・死刑の身代わり外国の法律、ルール・脱獄が法律で認められている国・アメリカのゾンビ対策マニュアル・イギリスの爵位の由来・砂の城をつくることが禁止外国の雑学・ダホメ王国の国旗・国旗が正方形の国・細長い国旗・面白い形の国旗・国旗にAK47が描かれている国・最も複雑な国旗・紫色の国旗が使われいる国・元祖日本の国旗・国旗が作られた理由・人口1人の街・世界一貧しい国・奴隷の島・観光大国・もく浴祭り・水かけ祭り・デンマークで独身で25歳になると・一番寒い首都・教育熱心な国・南アフリカの新年のお祝い・世界一幸福だった国ブータン・インドの言語・一番祝日が多い国・祝日が少ない国・モアイの変化・凄すぎる改名戦い戦争の雑学・怨念の弾丸・アメリカが終わったかもしれない飛行機事故・核戦争が起こったかもしれない事件・架空の兵器?・アメリカの人型兵器・低価格のヤバイ兵器・対戦車ライフルの使い道・視力を奪うレーザーライフル・迎撃不可能、超音速ミサイル・毒ガスのランク・『忍者爆弾』・石川五右衛門は、元忍者・ギリシャの火・暴行番組・古代ローマの剣闘士の死者数起源の雑学・イースター島の由来・四天王とは・警察の起源・日本に存在した少数民族・『とおりゃんせ』の意味・童謡『はないちもんめ』の意味・童謡『てるてるぼうず』の3番の歌詞・カニバリズムの語源偉人、有名人の雑学・多くの元素を発見した化学者・アメリカの国旗をデザインした人物・ルソーの性癖・シェイクスピアは複数人いた?・馬鹿げた法律で亡くなった王妃・自分を神と勘違いした男・占いを当てるために自殺・人間不信で餓死した数学者過去の雑学・古代シュメール人が残した隕石の記録・南極で発見された頭蓋骨迷信雑学・ポヴェリア島・呪いのご神木・病を治す奇跡の水・廃墟の病院・侵入すると危険な場所etc
  • ヤバすぎる雑学掲載!

    本書は、ヤバイ雑学を76種類まとめた一冊です。暇つぶし、雑談に使える楽しい雑学。知的好奇心を高め、物知りだと思われるそんな本です。目次エロいルール法律・電気をつけたままヤッてはいない・〇が禁止の法律・騎乗位禁止・コロンビアの性の法律エロい語源言葉・面白い外国語エッチな雑学・ステーキと〇〇の日・大人のおもちゃの日・マジックミラー号・カー〇〇〇専用駐車場・無重力での性行為・得意・世界最古のコンドーム・ゴム製のコンドームが開発・古代エジプトのエロ本・サドマゾの殺人鬼・大根を使った刑・狂気の精巣移植ヤバい雑学・自殺の本・ドラッグ推進鉛筆・汚染されている都市・土煙に覆われた都市・世界で初めて市民権が与えられたロボット・ヤバい思想をもったAIロボット・ヤバい思想を持ったAIロボット2・ヒマカベ族・イースター島の食人文化・食人の風習・開拓民が起こした食人事件・ウルグアイ空軍機571便の墜落事故・2011年の食人事件・北センチネル島の事件・武装が認められているヤバイ地域・祝日を作りまくったヤバイ独裁者・ポルポトのヤバさ・最強最悪のギャング集団・危険すぎるバイク集団・次々と若者が亡くなっていく・愛の逃避行・死体愛好者の殺人・暗号を送り続ける殺人鬼・時効が成立した殺人・2018年の脱走事件・41年ぶり東京拘置所からの脱獄・日本のヤバイ監獄・世界最大の矯正施設『ライカーズ島』・23時間拘束される最強の刑務所・受刑者が自殺していく刑務所・タイにある刑務所の待遇・ギャングに乗っ取られた刑務所・過密状態の刑務所・最も危険な刑務所・監獄島から脱獄・人間プレス機・生贄の儀式ウィッカーマン・ファラリスの牡牛・異端者のフォークとは・長靴の拷問器具・ねずみ責め・中世ヨーロッパのノコギリ挽きetc
  • 張道陵から嘉靖44年(1565)に没した張永緒まで、49代の正一教天師の事績を記した、万暦三十五年(1607)成立の『漢天師世家』の訳です。

    張道陵から嘉靖44年(1565)に没した張永緒まで、49代の正一教天師の事績を記した、万暦三十五年(1607)成立の『漢天師世家』の訳です。
     参考として、『歴世真仙体道通鑑後集』巻二(張道陵の娘、張衡の妻と娘の小伝)、『元史』巻二百二「釈老」、『明史』巻二百九十九「方伎」、『陔余叢考』巻三十四「張真人」の訳を付けました。
  • 回民蜂起は同治回乱とも呼ばれて、西洋の歴史には東干戦争と称された。
    この事件には、清王朝末期の回民族と漢民族が殺し合うによって2000万人も虐殺されたと言われた。もともと豊かな地域は十数年の戦乱の中に人相食の地獄図に化して、千里の一望は人気が無く、白い骨と黄砂だけになった。
    回漢の民族間の殺し合いは限りない血なまぐさいから、又は、左宗棠の虐殺はあまりにも残酷し過ぎるかもしれませんから、この血の嵐のような黒い歴史は中国近代の百年近く間に封印された、誰も口にしなくなった。
    中国百年の近代史において、ひた隠しに隠すこの事件は一体どのような事件でしょうか?本書はこの件を解析し、前事を忘れざるは、後事の師なりの意味を込めて、上梓させた。
    今日は明日の歴史になる、真実と向け合えば、より真理に近づいていく。歴史を学ぶ、よりいい道を歩むために。

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