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『文芸・小説、歴史、101円~400円』の電子書籍一覧

1 ~60件目/全446件

  • シリーズ44冊
    2531,980(税込)
    編者:
    角川書店
    出版社: KADOKAWA

    源氏物語の世界にタイムスリップ! 1冊であの物語を堪能できる!

    源氏物語の全体が分かる楽しい1冊。わずらわしい文法などの障壁を取り払い、こなれた現代語訳によって、古文の力がなくても十分古典の面白さが分かる。原文も現代語訳も総ルビ付き。ビジュアル面も豊富。
    ※本作品は紙版の書籍から口絵または挿絵の一部が未収録となっています。あらかじめご了承ください。
  • シリーズ13冊
    0275(税込)
    著者:
    仲路さとる
    レーベル: 仲路さとる

    本能寺の変を辛くも逃れた信長の前に、天下人をめざす秀吉が立ちはだかった。

     信長、秀吉、家康、一番強いのは誰だ。

     学習研究社、第1回歴史群像大賞受賞作。シリーズ累計100万部の「異戦国志」が電子書籍で復活。戦国歴史シミュレーションノベルは、この作品から始まった。
  • シリーズ67冊
    101220(税込)
    著者:
    宮沢賢治
    レーベル: micpub.com
    出版社: micpub.com

    宮沢賢治の傑作263作品を掲載しています。
    宮沢賢治は、日本の詩人、童話作家です。
    生前彼の作品はほとんど一般には知られていませんでしたが、没後に草野心平らの尽力により広く知られ、国民的作家となっていきました。
    生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』があります。
    本書には、一部挿絵も掲載されています。
    ※同一の作品でも、新旧の仮名遣いやルビのあるなしの違いごとに一作品として紹介しています。
  • 288(税込) 2024/5/23(木)23:59まで
    著:
    北原亞以子
    レーベル: 講談社文庫
    出版社: 講談社

    祝言を間近にひかえながら暴漢に襲われ、命を絶った愛娘。「仏」の名を捨てて復讐に奔走する父として定町廻り同心・森口慶次郎が初登場する表題作や、妻に逃げられた男と子供を授からなかった女の交情を細やかに描いた「うさぎ」等、ままならぬ運命と向き合う江戸庶民の姿を鮮やかにすくいとった傑作短篇集。
  • 272(税込) 2024/5/23(木)23:59まで
    著:
    北原亞以子
    レーベル: 講談社文庫
    出版社: 講談社

    紺屋の大店の末娘おたえは、幼くして両親を亡くし、叔父の店で育った。奉公人の弥吉は、5つ年上の型付け職人。いい仲になった2人を、叔父は夫婦養子にと考えていたのだが……。ささやかな幸せを求め健気に生きている、そんな女の一途な想いを情感溢れる筆致で細やかに描いた、珠玉の時代小説7篇を収録。
  • 275(税込) 2024/5/23(木)23:59まで
    訳注:
    室伏信助
    著者:
    室伏信助
    出版社: KADOKAWA

    日本最古の物語を、原文と注、現代語訳で心行くまで楽しめる!

    竹の中から生まれて翁に育てられた少女が、五人の求婚者を退けて月の世界へ帰っていく伝奇小説。かぐや姫のお話として親しまれる日本最古の物語。第一人者による最新の研究の成果。豊富な資料・索引付き。
  • シリーズ15冊
    440550(税込)

    日本社会の表裏に特異な足跡を残した昭和の「巨象」を検証して描写した人物シリーズ

    シリーズ第1弾。1955年にマンモス政党「自由民主党(略称・自民党)」を作った人物の素顔を追跡。

    <目次>
     保守結集の爆弾発言
     鳩山一郎の盟友
     吉田打倒の鬼
     不倶戴天の敵
     やじ将軍
     「めかけは五人」
     犬猿の握手
     保守合同の立役者
     主な参考資料
     電子版の発行に当たって
     著者紹介
  • モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議のかずかず。オリジナルのファンタジー&ホラー作品を配信する電子絵ものがたり「九十九神曼荼羅(つくもがみまんだら)シリーズ」。そのシリーズ内時代劇シリーズ「百夜・百鬼夜行帖(ももよ・ひゃっきやぎょうちょう)」第一章の壱は「冬の蝶」。
    文政年間の江戸。<おばけ長屋>に住む盲目の美少女祈祷師・百夜のもとに、薬種問屋・倉田屋の手代・佐吉が持ち込んだ事件は、「冬なのに倉田屋の裏庭に蝶が飛ぶ」という面妖な話。百夜は、祝詞や真言だけではどうにもならないような強い怨霊を、亡魂の力を借りて祓う御霊使(かむいつかい)でもある。その天賦の力で数々の怪現象や難事件を解決していく百夜。江戸の町に起きた怪異を綴る事件簿「百鬼夜行帖」の第一番に記録された“怪”の正体とは。
  • シリーズ20冊
    329989(税込)
    著者:
    潮美瑶
    著者:
    MBビジネス研究班
    レーベル: ――

    さっと読めるミニ書籍です(文章量24000文字以上 32,000文字未満(30分で読めるシリーズ)=紙の書籍の50ページ程度)

    【書籍説明】
    文久三年(1863)春、洛西壬生村に十三人の剣客集団が誕生した。「新選組」である。

    京都守護職会津中将松平容保の御預りとなり、上洛する将軍の警護と王城の治安維持の役目に就いた。

    新選組副長土方歳三は、生来不合理なことが大嫌いである。
    謎があれば、寝食を忘れて真相を突き止めずにはいられない。
    副長という激務の傍ら、市井の事件にも首を突っ込むことになる。

    文久三年春、京洛を荒し廻る尊攘浪士の一団があった。
    「神命党」と名乗り、「軍資金調達」と称して裕福な商家を襲う。新選組は天道組全滅に躍起になった。

    夜の市中巡察中、歳三と沖田総司は血塗れの少女に出会った。
    豪商鴻池に押し込んだ神命党に斬られたという。歳三と総司が鴻池に駆けつけると、もう一人少女が殺されていた。

    「神命党の正体は?」「神命党は、なぜ少女達を殺したのか?」

    歳三は神命党の謎を追う。

    (最初にお断りしておきますが、「土方歳三事件簿」はフィクションです。登場人物の出自や年齢が史実と違うところもありますが、御了承ください)


    【目次】

    神命党

    少女殺し

    壬生浪

    預かった娘

    引き込み役

    記憶喪失

    鍼医

    大舞台

    鴻池善右衛門

    新選組出動

    真犯人

    功名手柄

    浅葱の隊服


    … 以上まえがきより抜粋
  • シリーズ18冊
    308792(税込)
    著者:
    桑原水菜
    レーベル: 角川文庫
    出版社: KADOKAWA

    「鬼の手」を持つ天才発掘師・西原無量の事件ファイル!

    永倉萌絵が勤める亀石発掘派遣事務所には、絶対的エースがいる。世紀の発見を繰り返し、天才発掘師と名高い西原無量、その人だ。奈良の古墳から出土した宝玉をめぐり、無量たちの周囲に暗い影が迫る!
    ※本書は、二〇一一年十二月に刊行された小社単行本『ほうらいの海翡翠 西原無量のレリック・ファイル』を加筆修正・改題の上、文庫化したものが底本です。
  • 辰巳栄一は葉隠武士道の佐賀育ちで士官学校、陸軍大学校を好成績で卒業した。眉目秀麗、女にもて過ぎ満州に飛ばされるも、英語力から語学研修で英国滞在中に満州事変が起きてロンドン駐在の身になった。一度帰国したが、駐在武官で英国に渡り三国軍事同盟に反対の吉田茂大使と運命の出会いをした。終戦後に吉田首相は軍人ばかりの占領軍との折衝に元軍人で英語に長けた辰巳を参謀に抜擢した。朝鮮戦争勃発で国内が不安になり、辰巳は厭戦に充満した社会で万難を排して自衛隊を創設した。
  • シリーズ5冊
    330550(税込)

    ようこそおいでませ、ここは驚異の部屋。あなたは×××人目のお客様です。

    「ようこそおいでませ、此処は驚異の部屋。貴方は記念すべき××××人目のお客様です」
    十九世紀末、ヴィクトリア朝倫敦。
    パブの帰り道で酔い潰れ、目が覚めたら見知らぬ場所にいた。貴方を歓待するのはこの上なく笑顔が胡散臭い、天使のような美少年。
    少年は自らを学芸員(キュレーター)と称し、前後不覚の貴方に身の上話を迫るのだが……。
    (ファンタジー/歴史/主従/貴族/無理矢理)
    表紙:SiC9.5(@SiC9_5)様
  • シリーズ2冊
    330(税込)
    著者:
    蕨谷哲雄
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    日本を破壊した小泉民営化の末路

    本文を読む前に

    【日常は幻想にすぎない】

     私たちは多くの情報を報道機関から得ています。
     報道機関が公正であったならば問題ないのですが、不正があった場合どうなるでしょうか?
     私たちの行動は得られた情報をもとに決定されます。
     報道が事実を伝える保証はありません。
     太平洋戦争時の大本営発表などがその一例です。
     まやかしの報道は最後に破綻します。
     その時になって、大衆は現実と虚構の差に驚き狼狽します。
     民主主義を標榜している現代においても、国家間では同じ情報であっても、その報道姿勢に差異が見られます。
     報道姿勢にはその国の民度が反映されており、民度が低い国ほど歪められた情報に晒されることになります。

     それでは、日本の民度はどの程度でしょうか?
     残念ながら、先進国を自称している割には、高いものではありません。
    「衣食足りて礼節を知る」の格言通り国民所得の高い国ほど民度も高くなりますが、日本の場合は部分的に当てはまらない事象があります。
     日本人は勤勉で礼儀正しく親切で清潔感を大事にする国民として知られています。
     近隣国との比較ではその通りなのですが、民度を構成する必須要素に欠陥があります。
     それは「独立心」です。
     現在の日本は独立国とは言えない状況です。
     多くの日本人は内心気付いているものの、現在の「そこそこの暮らしぶり」に妥協して、その事実に見て見ぬ振りをしています。
     日本人と似たような境遇の国民もいます。
    「香港」がそうです。
    「香港」は独立国ではなく、支那の一部です。
     ただし、過去の経緯と経済的思惑から、「高度な自治権」が与えられ、支那本土とは異なった社会体制を維持してきました。
     近年それが崩壊し惨憺たる状況になったのは、住民の「独立心」が希薄だったからです。
     同じような立地条件の「シンガポール」とは決定的に異なる点です。
     日本が真の独立国ではないことは、歴史をたどれば簡単に判ります。
  • シリーズ4冊
    330(税込)
    著者:
    極右閣下
    レーベル: 蕨谷哲雄
    出版社: 蕨谷哲雄

    1999年 植民地後の日本

    1999年郵政民営化で日本の滅亡が始まった!
    この国民にしてこの政府あり!
    不正政治を許しているのは情弱の国民性です
    政財官要人を朝鮮人に成りすまさせる米国の日本仕置き
    少子化・移民推進による2100年日本人完全抹殺計画の邪悪な陰謀
    真相を知り、日本を救済する方策はあるか?
    テポドン騒動と狂乱のW杯!畠山鈴香は小泉の犠牲者か?
    2006年(平成18年)7月1日~2006年(平成18年)7月31日
  • 330(税込)
    著:
    吉川英治
    レーベル: ――

    親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖。天涯孤独の少年時代から波乱万丈な人生。法然を師と仰ぎ、卓越した勉学と修行で仏教の教えを極めた。※読みやすくするため現代の言葉に近づけていますが、作品の性質上、そのままの表現を使用している場合があります。
  • シリーズ14冊
    3301,849(税込)
    著:
    吉川英治
    レーベル: SHIBA BOOKS
    出版社: 千歳出版

    平家物語を題材にした吉川英治畢生の大作『新・平家物語』に、史実や紀行、創作秘話を綴った『随筆 新平家』を加えて読みやすく編集。全16巻セットで合本した電子書籍完全版です。
    【目次】
    新・平家物語
     “はしがき”に代えて
     ちげぐさの巻
     九重の巻
     ほげんの巻
     六波羅行幸の巻
     常磐木の巻
     石船の巻
     みちのくの巻
     火乃国の巻
     御産の巻
     りんねの巻
     断橋の巻
     かまくら殿の巻
     三界の巻
     くりからの巻
     一門都落ちの巻
     京乃木曾殿の巻
     ひよどり越えの巻
     千手の巻
     やしまの巻
     浮巣の巻
     壇ノ浦の巻
     悲弟の巻
     静の巻
     吉野雛の巻
     完結のことば
    随筆 新平家
     はしがき
     新平家落穂集―筆間茶話―
     新平家雑感
     新・平家今昔紀行
  • 妻子を殺さなければならなかった徳川家康の悔恨を縦軸に、二代将軍秀忠の側近土井利勝の心理葛藤を横軸に活写した異色時代小説。多くの人間を死なすことで生きながらえてきた家康と秀忠時代の未来を展望する利勝の思いは果たして一致するのか。
    関ヶ原の戦いを制して天下を掌中にした徳川家康。将軍の座を息子秀忠に譲り、自身は駿府にて隠居の身。しかし、政治の実権は家康が握っていることは天下周知。鷹狩りと称して江戸に出ては、重臣たちの動きや働きぶりを抜け目なく見聞して駿府へと引き上げていく。もはや、家康に逆らう者はいないのか。いや、大坂にはまだ豊臣秀吉の遺児秀頼も淀君もいる。彼らを慕う武将も少なくない。油断はならない。そんな折も折、江戸から駿府への帰路の途中、「大久保忠隣に謀反の疑いあり」の報がもたらされる。忠隣は秀忠の重臣。しかも三河譜代の名門の出である。家康に、江戸から中原御殿まで呼び出されたのは、秀忠の側近で切れ者の土井利勝。家康と対峙した利勝は、もたらされた報に裏の陰謀を嗅ぎ取る。大御所が何故に忠隣を亡き者にしようとしているのか。裏で密かに動いていたのは家康の信頼厚い本多正純か。利勝は、家康の胸中を推し量りながら家康亡き後の秀忠時代の天下の有り様に想を巡らせ、眠れぬ一夜を過ごす。
    〈目次〉
    一 愛おしい瀬名と信康
    二 大久保忠隣に謀反の疑いあり
    三 天下人徳川家康の涙
    四 俊才土井利勝の苦悶
    五 敵は己自身のなかにあり
    六 忠臣本多父子の影
    七 後顧の憂い
    八 本多正純を老臣に迎えた二代将軍秀忠 
  • 薬種問屋の主人喜兵衛は婿養子だが、遊びもせず一心に商売に励んでいた。しかしその妻おそのの容姿は若くて妖艶で遊び好き。喜兵衛が病気で倒れても家に寄り付きもしない。父親を不憫に思ったおしのは母親を説得して看病を訴えるが、しまいには若い男と旅行に行ってしまう……。自分が不倫の果てにできた子供だと知らされたとき、おしのの復讐が始まった。淫乱な母に群がった男たちを次々に殺さずにはいられない。かわいそうな父のため、人間すべてを辱しめた罪を償わせると決意を固める。※読みやすくするため現代の言葉に近づけていますが、作品の性質上、そのままの表現を使用している場合があります。
  • 武士や市井の人々の喜怒哀楽、義理や人情を通して限りない人間愛を描いた時代小説、人情小説の名手・山本周五郎の長編全集。第1巻は「さぶ」。青年から大人になる微妙な時期の男の友情と成長を描いた傑作長編。
  • 時代小説・歴史小説を代表する大家・吉川英治の傑作を集めた決定版長編小説全集。第1巻は平家物語を題材にした著者畢生の大作『新・平家物語』を全巻セットで合本。電子書籍ならではの全一冊完全版です。
  • 「坊っちゃん」「吾輩は猫である」「三四郎」「こころ」「それから」「草枕」「二百十日」「彼岸過迄」「行人」「道草」「明暗」など、文豪・夏目漱石の長編小説の代表作15作品を完全収録。読みやすく編集され、名作を一気に読める電子版ならではの漱石全集です。
    ●目次
    坊っちゃん
    吾輩は猫である
    三四郎
    こころ
    それから
    草枕
    二百十日
    野分
    虞美人草
    坑夫

    彼岸過迄
    行人
    道草
    明暗
  • 350(税込)
    著者:
    神功路 明
    レーベル: 神功路 明

    東海道本線。日本を代表する鉄道の大動脈である。明治時代に開通し、旅客・貨物を今日も大量に輸送しているのだが、東京ー神戸間という区間がなぜ設定されたのか。終点が神戸である理由とは?斬新な視点で日本の近代史に斬り込んだ意欲作である。

    東海道本線が出来た経緯と、神戸駅の変遷。新橋駅から東京駅に起点が動いた経緯に見る、帝都東京の発展。東京駅と神戸駅に共通して存在する「楠木正成」は、近代国家日本においてどのような影響を与えたのか。また、明治天皇の出生における謎とは。鉄道駅の変遷から描く「日本人の精神」とは。小作品ながらも濃い内容で読者に迫ります。
  • 山本周五郎の名作・代表作を一挙収録した山本周五郎全集の決定版。※本書は全16巻中の1巻目です。
    ●目次
    夜明けの辻
    新潮記
    柳橋物語
    楽天旅日記
  • 縄文晩期、呉太伯ら子孫が建てた天之国は、前三世紀の倭国王朝、一世紀の倭奴国王朝、大乱後の南九州では日隈・日前・和国の名で再興された後、大和朝廷として蘇った。とりわけ「戦わずして勝つ」を国是に掲げた邪馬台史は、三国志や戦国・幕末期を凌ぐ世界中に誇れる歴史でした。司馬遷の信念に従い、記紀・史記など資料、各地の伝承、神社の縁起を織り交ぜながら、この歴史を物語化しました。

    『邪馬台三国志』歴史物語のあらすじの最新増改訂版です。
    古代史の常識や通説を我が国の歴史的観点から検証していくと、戦前から信じて疑うことのなかった皇統万世一系も、戦後に「百余国を束ねた王朝など、存在しなかった」と教えられたことも、全て誤りです。邪馬台国史の全貌がとんと解明できない原因は、ここにあります。一から考え直して、再構築する以外にありません。
    大陸の古い歴史を背負った渡来人たちが懸命に築きあげた上古の歴史は、魂の再来、不老長寿、古の善政再現、仏法流布、戦わずして勝つの理想実現に挑戦してきた歴史でもあった。それらが織り重なって流転する様子は「三国志」を遥かに凌駕して、世界中に誇れる歴史でしたが、大和朝廷の指導者らは、本来の皇統、即ち、
    神武―崇神―応神とあるべきところに、神武―崇神の間に大日本家八代を挟み、崇神―応神の間に垂仁・景行・成務・仲哀の邪馬台国王四代を割り込ませて、万世一系に改ざんしたのです。
    先祖のわだかまりや怨念を断ち切り、一家となって生きるよう配慮した結果です。
    〔著者〕
    昭和十八年、神戸市に生まれる。昭和四十三年、神戸大学工学部建築学科卒一級建築士。平成元年三月以来、三十余年来の古代史研究家。〔書籍〕
    『新ヤマト・出雲、邪馬台の三国志』(平六年、新人物往来社刊)〔電子書籍〕
    同上の復刻版、『邪馬台三国志』歴史物語編、『邪馬台三国志』解説編、『邪馬台三国志』、『邪馬台三国志』ダィジェスト版、『邪馬台三国志』歴史物語編のあらすじ 最新版
  • 源氏再興に義経と行動を共にし、衣川で果てたわれらが弁慶。身の丈2メートル、130キロの巨躯のみなぎる怪力に似ず、美女・玉虫との恋に身を焼く純情な青年でもあった。正義感に燃えてふるった蛮勇故に叡山を追われた弁慶を待つものは……。剛力無双のヒーローの波乱の生涯を描く痛快巨編。
    電子版分冊全23巻。
    (本書は、1951年8月-1955年4月に東京新聞に連載され、1952年4月-1955年6月に刊行された小説『弁慶』を分冊・電子化したものです。)
  • 「風烈廻り与力・青柳剣一郎」シリーズ初の番外編、待望の電子化!

    南町奉行の年番方与力・宇野清左衛門の元に紙問屋「広田屋」の主人が口添えを頼みにやって来た。下男の平太が通りすがりに因縁をつけられ、はずみで相手を殺めてしまったのだ。普段の働きぶりや真面目な人柄を知る主人は少しでも罪が軽くなるようにしてやりたいという。
    清左衛門が詮議の場で平太の様子を垣間見ると、その顔にはある人の面影があった……。
    二十六年前、吟味方与力だった清左衛門が遭遇した忘れがたい事件とは? 浅からぬ縁を感じた清左衛門が平太の周辺を洗い出すと、殺しの裏には驚くべき真相が!
    掛け値無しの情けが人の縁をつなぐ、心温まる一篇。
    【時代アンソロジー『欣喜の風』収録作品】
  • 森平右衛門は軽輩の出ながら、奢侈に耽る九代米沢藩主・上杉重定に取入り、租税を一手に押さえ、併せて人事も掌中にした。凶作・水害が打ち続き、藩の経営が危殆に瀕している中で、独り栄耀を極める平右衛門に、漸く非難の声が挙った。その中心にいたのは、竹ノ股当綱ら、後に名君鷹山に仕えて藩政改革に着手する賢臣の一群であった。藩主の寵臣をいかに誅すべきか。名門・上杉家の内訌を描く長篇歴史小説。
    (※本書は1987/1/1に発売し、2022/4/13に電子化をいたしました)
  • 田中正造たなかしょうぞう(1841―1913)明治期の政治家、社会運動家。下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角(ろっかく)家の苛政(かせい)に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺(えさし)県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編』などを読み、西欧思想に触れる。1879年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後1890年衆議院議員に選出されるまで在職、1886年からは議長を務めた。この間、1880年安蘇郡に民権結社中節社を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、また嚶鳴社(おうめいしゃ)社員を招き各地に演説会を開き、民権思想の普及に努めた。翌年の自由党結成大会に出席し、都市知識人と地方有志の結合による一大立憲政党の結成を説いたがいれられず、結局、翌1882年立憲改進党に入党、栃木県に全国有数の改進党勢力を築いた。1884年県令三島通庸の土木政策に反対し一時投獄される。1890年の第1回総選挙に栃木3区(安蘇、足利)から衆議院議員に当選、以後1901年(明治34)まで毎回当選を果たす。この間、独自の憲法解釈をもって藩閥政府を批判。ことに1891年の第二議会では当時顕在化した渡良瀬(わたらせ)川沿岸の足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒被害を取り上げ、政府に質問書を提出、以後一貫してこの問題を追及。1896年には群馬県渡瀬村雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設け、ついで東京事務所も設置、足尾銅山鉱業停止の要求を掲げて、被害民を組織し、議会での質問演説で集中的にこの問題を取り上げ、新聞社などに働きかけ世論の喚起に努めた。1900年の第4回被害民大挙請願を憲兵・警官が抜剣、暴行して阻止した川俣事件が起こると、議会で「亡国演説」を行い、政府の責任を激しく追及するとともに、憲政本党を脱党して、自己の立場が党派的利害に出るものでないことを明らかにした。
  • 松岡洋右まつおかようすけ(1880―1946)大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。
  • 田中義一たなかぎいち(1864―1929)陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。 明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パークスとわたりあって勇名をはせ,外国官副知事に抜擢された。翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,3年参議に昇進。6年大蔵卿に就任してから14年10月の政変で辞任するまで,地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。このとき三菱汽船会社を援助し,三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られている。14年3月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し,さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長派と衝突し,10月に政府を追われた(明治14年政変)。 翌15年4月立憲改進党を結成して総理となり,10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し,「学の独立」をかかげて青年教育に当たった。21年外相となり,黒田内閣で条約改正を担当したが反対され,翌年10月玄洋社員に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。31年板垣退助と共に憲政党を結成,史上最初の政党内閣を組織したが,党内抗争と薩長派の妨害で4カ月で総辞職した。40年政界を引退して早大総長となり,文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し,雑誌『新日本』『大観』を発行,多数の著書を刊行するなど,文化運動に励んだ。
  • 「張作霖爆殺事件」中華民国軍政府大元帥、張作霖が関東軍西光参謀河本大作大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和13年)国民革命軍の北伐が北京に迫ったため、張は日本の勧告により6月3日特別列車で北京退去し、京奉線で本拠の奉天に向かった。かねて張への不信感をつのらせていた関東軍(司令官村岡長太郎)中将(1871~1930)は、この機に張をげやあせ、満州を中国から独立させようと図り、錦洲方面へ出勤する体制をとったが、張をなお利用する考えであった田中義一首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようとした。奉天の京奉線と満鉄線のクロス地点のガードに爆薬を仕掛け、6月4日早晩、帳の列車を爆破。帳は爆死した。しかし「事前の打ち合わせが不十分で、関東軍は出動せず、河本の策謀は失敗に終わった。政府・軍は真相を秘匿し、国民革命軍の犯行と過ったが、満州某重大事件として疑惑を呼び、田中義一は天皇陛下に叱責されるに及んで内閣総辞職をきたした。また中国では後継の張学良が反日の姿勢を強め1928年末には東三省易易識中国東北の遼寧省、吉林省、黒龍省に、満州国国旗を五色旗にかえて国民政府の国旗であることを正店白日満地紅旗を挙げさせた。これを機に満蒙問題を重大化招いた。
  • 浜口雄幸はまぐちおさち(1870―1931)大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。
  • 尾崎行雄おざきゆきお(1858―1954)政治家。戸籍上は安政6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義内閣では外務省参事官、第一次大隈重信内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望内閣が倒れると、国民党の犬養毅とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。
  • 頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。
  • 330(税込)
    著:
    吉川英治
    イラスト:
    こひやまあきひこ
    レーベル: ――

    鎌倉幕府の初代将軍。平治の乱で敗れた父義朝は殺され、頼朝もまた処刑されるかと思われたが、助命歎願により伊豆に流刑となる。およそ20年後、北条政子を妻に迎え、時政を味方にして、ついに蜂起する。源義経の活躍により平氏を掃滅し鎌倉へ幕府を成立させる。他に「静御前」を収録。
  • 大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に努め、軍部幕僚将校との結び付きを深めていった。この結び付きから、31年(昭和6)には、軍部内閣樹立のクーデター計画事件である三月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃(けんじゅう)と資金を提供したため逮捕され、下獄した。37年に出獄したのちは、大川塾と称された東亜経済調査局付属研究所を開設し、研究要員の育成にあたるほか、著作活動に力を注ぎ、『日本二千六百年史』をはじめ数多くの著書を刊行した。45年(昭和20)12月A級戦犯容疑で逮捕されたが、巣鴨(すがも)収容中に精神障害をおこし免訴となった。なお、都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた。昭和32年12月24日死去。
  • 上海事変(しゃんはいじへん)日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。第一次目次を見る満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。
  • 大正デモクラシー

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
  • 尼港事件(にこうじけん)シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。
  • 明治維新

    副島種臣(1828~1905)明治期の政治家。父は佐賀藩士,藩校弘道館教授枝吉忠左衛門,母は喜勢子。安政6(1859)年父が死去し,同藩士副島利忠の養子となる。号は蒼海,一々学人。嘉永3(1850)年兄の枝吉神陽を中心とする義祭同盟に大木喬任,江藤新平らと共に参加し,尊王論に傾倒。5年京都に遊学し,国学者矢野玄道らと交流。その間神陽の命を受け公家大原重徳に意見書を提出,青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵上洛を求められる。帰藩後,藩兵上洛は藩主鍋島直正に退けられ,副島は藩校教諭を命じられた。元治1(1864)年長崎に行き米国人宣教師フルベッキに師事し,英学,米国憲法を学ぶ。慶応3(1867)年大隈重信と脱藩し江戸に行き,目付原市之進(水戸藩士)に大政奉還を説いたが,藩より謹慎処分を受けた。維新後長崎で対外折衝を担任,さらに参与,制度事務局判事を命じられ,福岡孝弟と共に政体書を起草した。明治4(1871)年外務卿に就任。樺太国境問題をめぐる対露交渉,マリア・ルス号事件(ペルー船積み込みの清国人奴隷解放をめぐる外交問題),日清修好条規批准交渉などに功績をあげたが,征韓論に同調して下野した。その後,自宅で愛国公党を結成し,民選議院設立建白書にも署名したが民権運動には参加しなかった。9年から11年にかけて清国を漫遊し,書道への造詣を一段と深めた。17年伯爵に叙せられ,枢密院顧問官・同副議長などを経て,第2次松方正義内閣の内務大臣となったが,在任3カ月で辞任するなど,大きな政治力を発揮することはなかった。
  • 大逆事件(たいぎゃくじけん)明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳事件ともいう。 日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦、大杉栄らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた管野は、宮下太吉、新村忠雄、古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。 取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助らの紀州派、松尾卯一太らの熊本派、武田九平らの大阪派、さらに森近運平、奥宮健之、内山愚童ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂太郎内閣下の平田東助内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎司法省行刑局長兼大審院検事、松室致検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
  • 明治維新

    佐賀の乱(さがのらん)1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。
  • 歴史の回想

    鈴木貫太郎すずきかんたろう(1867~1948)海軍大将,政治家。 1887年海軍兵学校を卒業。日清戦争には水雷艇長として威海衛夜襲に参加。 1901~04年少佐としてドイツに駐在。軍艦『日進』『春日』を回航して横須賀に帰着。日露戦争では第2艦隊の第5駆逐隊司令,のちに第4駆逐隊司令。『明石』『宗谷』艦長,水雷学校長,『敷島』『筑波』艦長,舞鶴水雷隊司令官,第2艦隊司令官などを経て,14~17年海軍次官。 18~20年海軍兵学校長。 23年大将となり,24年連合艦隊司令長官。 25~29年軍令部長をつとめて,予備役となった。その後,29~36年侍従長兼枢密顧問官であったが,二・二六事件では官邸で反徒の乱入により重傷を負った。 36年男爵。 40年枢密院副議長,44年議長。 45年4月7日に首相となり,8月9日に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾を主張する東郷外相と,徹底抗戦を主張する陸軍が対立すると,和平派に立って,御前会議を開き天皇の裁断を求めた。8月 15日に総辞職。さらに同年 12月から7ヵ月間枢密院議長。著書に『鈴木貫太郎自伝』 (1965) がある。
  • 歴史の回想

    夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。
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    中江兆民(なかえちょうみん)(1847―1901)明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。
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    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。
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    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して1941年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。
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    「ポーツマス条約」(ぽーつますじょうやく)1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
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    壬午軍乱(じんごぐんらん)1882年朝鮮のソウルで、日本の侵略と閔(びん)氏一族の腐敗、売国政策に対して立ち上がった軍人たちの反乱。日本では甲申政変とあわせて京城事変といったこともある。1876年の江華条約(日朝修好条規)以来、日本をはじめとする外国資本主義国が朝鮮を侵略、李朝(りちょう)封建体制の危機は深まり、民衆の生活苦は倍加していった。時の権力者である閔氏一族は1881年に日本の要請で軍制を改め、日本陸軍少尉堀本礼造を軍事教官に招き、両班(ヤンバン)の子弟を中心に別技軍という新式軍隊を組織した。これに対し旧来の軍隊の兵士たちは、俸禄(ほうろく)米も13か月も支給されないままであった。82年7月にやっと1か月分の俸禄米が支給されたが、腐っていたり、砂が混ざっていたりした。ここで兵士たちの不満は爆発、武器をとって立ち上がり、一隊は閔氏一族の大官たちの邸宅を襲い、さらに内殿に侵入して閔妃(びんひ/ミンピ)を殺害しようとした。閔妃は宮女に変装し王宮を脱出、忠州に逃れた。他の一隊は日本公使館を襲撃、これを焼き払い、堀本礼造らを殺害した。公使花房義質(はなぶさよしもと)は命からがら長崎に逃げ帰った。ソウルでは大院君が政権につき反乱を収束。一連の改革を行おうとしたが、清(しん)国の介入で失敗、清国に拉致(らち)され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化した。
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    板垣征四郎いたがきせいしろう(1885―1948)陸軍軍人(大将)、陸軍大臣。明治18年1月21日岩手県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員のあと北京(ペキン)公使館付陸軍武官本庄繁(ほんじょうしげる)の補佐官となる。本庄が関東軍司令官になるとその下で高級参謀、奉天(ほうてん)特務機関長に就任し、作戦参謀石原莞爾(いしわらかんじ)とともに1931年(昭和6)満州事変を引き起こし、「満州国」創設後は満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、師団長を歴任した。この間、「満州国」を「五族協和」「王道楽土」にすると主張し、満州拓殖株式会社を設立して、20年間に100万戸、500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の改造で陸相として入閣、国家総動員法の追加発動、満州産業五か年計画の実施に努め、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣にも留任して、汪兆銘(おうちょうめい)政権工作を推進し、三国同盟問題で強硬態度を示した。のち朝鮮軍司令官、第七方面軍司令官となる。極東国際軍事裁判でA級戦犯として、1948年(昭和23)12月23日絞首刑に処せられた。
  • 歴史の回想

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。
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    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。
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    東条英機・とうじょうひでき(1884―1948)陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山らと一夕会(いっせきかい)を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の1935年、関東憲兵司令官となり、1937年には関東軍参謀長となった。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。1938年板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、1940年7月第二次近衛文麿内閣の陸相に就任した。松岡洋右(まつおかようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。1941年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、1943年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、1944年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。
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    「立憲政友会」第二次世界大戦前の代表的な政党。1900年(明治33)9月15日伊藤博文(初代総裁)の下に憲政党や伊藤系官僚が無条件参加する形で結成された。藩閥との激しい対立から妥協、提携へと変化してきた政党の歴史に合同という新段階を画した。国家の帝国主義的発展を挙国一致によって図ろうとする国家政党の基本性格をもち、総裁専制を党運営の特徴とする。同年10月政友会を基礎とする第四次伊藤内閣が発足したが、財政方針をめぐる閣内対立で翌年倒れ、さらに第一次桂太郎内閣下の増税問題で党内は動揺した。その根底には国家利害を優先する伊藤ら官僚派と民衆利害を重視する党人派の対立があった。03年伊藤は総裁を辞任。動揺は後継西園寺公望総裁時代に収拾された。西園寺や実力者原敬(はらたかし)は藩閥勢力との巧妙な妥協によって政権を得、第一、二次西園寺内閣下で鉄道の国有化や新設、築港、学校建設などの積極政策を展開、その利権投与によって党員やその周辺の民衆をひきつけ、党勢拡張、党内掌握に成功。また貴族院への勢力扶植、ブルジョアジー、官僚の入党を推進した。この路線はやがて藩閥勢力とくに長閥・陸軍との関係を悪化させ、陸軍による第二次西園寺内閣の倒壊を招いた。この際は憲政擁護運動に参加したが、13年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の与党となって以降は一般民衆との対立関係を深めた。14年6月原が総裁に就任。米騒動後の18年9月本格的政党内閣である原内閣が成立。積極政策を推進して党勢拡張を図る一方、普通選挙運動に敵対し民衆運動対策に力を入れた。また国際協調外交を推進。
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    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。 1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。 7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
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    甲申政変(こうしんせいへん)1884年(甲申)朝鮮のソウルで、クーデターによって閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が切迫してくると、支配層内部でも、実学の流れをくむ洪英植(こうえいしょく)、金玉均(きんぎょくきん)、朴泳孝(ぼくえいこう)らを中心とする開化派は、明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうと、留学生の派遣、『漢城旬報』の発刊などに努める一方、高宗にも接近、啓蒙(けいもう)にも努力した。しかし当時清(しん)国と結んだ守旧派が政権を握り、改革を阻んでいた。84年清仏(しんふつ)戦争で清国が敗れたのを機会に、開化派は日本の援助を得て守旧派打倒のクーデターを行った。すなわち、12月4日、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊(びんえいよく)らを殺傷し、ただちに王宮に入り高宗を掌握、クーデターは一時は成功した。開化派は新政府を樹立、6日には14か条からなる新政綱を発表した。内容は門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特権商人の廃止、軍制の改革など、上からのブルジョア改革の志向を反映していた。しかし6日清国軍が介入し、新政権は三日天下に終わった。洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は日本に亡命した。日本公使館は焼かれ、公使竹添進一郎は仁川(じんせん)に逃れ、ふたたび守旧派政権が樹立された。この政変の評価は朝鮮近代史の論争点の一つで、北朝鮮では反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命と評価しているが、単なる支配層内の政権争奪戦という見解もある。
  • 歴史の回想

    西園寺公望(1849―1940)近代の政治家、元老。嘉永2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の次男として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明天皇に近侍。王政復古の際参与、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
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    「小磯國昭」こいそくにあき(1880―1950)陸軍大将、政治家。宇都宮市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員などを経て、1930年(昭和5)軍務局長となる。1931年の三月事件に関与した。その後、陸軍次官、関東軍参謀長などを歴任。1937年大将となり、1938年予備役に編入される。1939年平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣、1940年米内光政(よないみつまさ)内閣の拓相となる。1942年朝鮮総督。1944年には東条英機(とうじょうひでき)内閣の後を受け、米内光政と協力して組閣。戦争完遂を目ざしたが、戦局は打開されなかった。また最高戦争指導会議を設け国務と統帥の一元化に努めたが成果はあがらなかった。1945年4月総辞職。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり、1948年(昭和23)終身禁錮の判決を受けた。服役中病没

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