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『時代小説、歴史研究会(文芸・小説)』の電子書籍一覧

1 ~5件目/全5件

  • シリーズ4冊
    1652,200(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    室町時代の職名。将軍を補佐して政務を統轄し、時にはその職務も代行した。幕府開創期には足利一門の高・仁木氏など執事として将軍を補佐したが、足利氏家宰としての性格が強かった。貞治元年(1362)若年の斯波義将が就任し父高経が孝謙となった頃から管領と称され、政所・引付方・門注所などを統轄する幕府最高の官職となった。足利氏家政機関の長としての執事と統治権的支配を示す裁判機関の長官でもあった引付頭人の職務を統一したものと言える。義将に次いで管領となった細川頼之は、10歳の将軍足利義満を補佐して幕政を担い、その職務は一層の重みを持った。応永5年(1398)畠山基国の就任以降は、斯波・細川・畠山の三家からの補任が慣例になり、三管領家という最高の家格が固定化された。6代将軍足利義政の時引付頭人が再設され権限は制限されたが、義教の死後は旧に復した。応仁・文明の乱後は実体を失い、幕府は細川氏の専制となり、永禄6年(1563)細川氏綱を最後に廃絶された。
  • シリーズ5冊
    220275(税込)
    著者:
    川村一彦
    レーベル: 歴史研究会

    江戸時代の幕藩体制で起きた幕閣まで波及した郡上一揆と石徹白騒動を宝暦騒動という。その顛末を語り継ぐ物語。

    江戸時代に美濃国郡上藩で発生した大規模な郡上一揆と石徹白騒動である。 郡上藩は延宝年間に年貢の引き上げから、藩内部で藩政の方針に対立が生じ一揆が発生した。郡上藩主金森氏は改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦騒動を言う。 郡上一揆の発端は、年貢徴収法で定免法から検見法に改められ、更に農民らが新田開発していた切添田畑を洗い出して課税を行うものであった。 一揆は当初は豪農層や庄屋などの富農民や、郡上で比較的豊かな農民が主導で起こった。郡上八幡中心より長良川の下流域の村々が一揆を主導していた。郡上藩は激しい農民らの激しい抵抗に藩側は、一旦検見法採用を取り下げた。ところが藩主金森頼錦の縁戚関係からの支援を得て、幕領である美濃郡の代官から改めて郡上藩の検見法の採用を持ち出し、一揆が再燃した。しかし藩側の激しい弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層から一揆のから脱落者が続出した。その後は中農、貧農層が一揆運動の主体となり、一揆勢は藩主への請願を行い、更に藩主の弟に取り成しを依頼するが、藩側は一揆農民の切り崩し図り、弱体化した一揆側に、強硬な弾圧がなされた。郡内では、寝者と呼ばれ、一揆を止めて藩側の言う事聞き、立者といった一揆強硬派が情勢困難の中、老中への駕籠訴を決行するに至った。一揆の団結と連帯化を示すために「傘連判状」が各村々の決起する農民らの連判状が作られていった。しかし当初は進めらえていた審議中断し、問題は解決の方法を見いだせないまま長期化した。 そのような中、一揆勢は組織を固めて、犯の弾圧を避けるために郡上以外に関にに拠点を設け、郡上一揆と同時期に郡上藩の領地である越前国大野石徹白で、野心家の神主の石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。 最終的に郡上一揆と石徹白騒動は共に目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が 幕府中枢部関与の疑いを抱いて、老中の指揮下、寺社奉行を筆頭とする五名の御前議懸かりりによって幕府評定所で裁可が下された。 裁可の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民から厳罰が下されが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄り、大目付、勘定奉行らが免職となった。
  • 芭蕉

    「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。古人の足跡と古歌、神話の説話や、西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳句を通じて味わい深い言葉で綴られている。感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりの、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか。それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためた。また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情や世相が知ることができることにある。
  • 日本史上最も貴重な文献で「記紀」を分かり易く説く。

    日本人の古代や起源を解くにあたり、「記紀」を無くして語ることはできない。特に『古事記』の「奇想天外」な神話の世界に、一つ一つ古代の謎を鍵が秘められている。驚天動地の説話の展開にも古代史実への暗示がある。今後の発掘と記述の検証によって未知の古代世界を切り開き、謎を解き明かす時が来るだろう。『古事記』の虚々実々の読み解きは、知識力以上に理解力を必要とし、想像力も欠かすことはできない。それ以上に古代への深い想いと情熱をもって古代に思いめぐらせば、自ずと『古事記』を通じて日本の起源と古代の謎が開かれて行くのではなだろうか。何より、人情味あふれる喜怒哀楽が、歌の数々に込められた古代の人々の思いを窺い知れる。また『古事記』に盛り込まれた歌詞に、秘められた人間の性が持つ普遍の憎愛が、歴史を刻む思いがする。また『古事記』が献上されて1300年、今、改めて『古事記』を解き読むことで、古代社会の情景や心情、時代の趨勢と背景を、徐々に解き明かされて行くと思われる。『古事記』は現存する日本最古の史書とされ、29年間の舎人・稗田阿礼らの誦習と4カ月の編纂、 全3巻で構成され、和銅5年(712年)に太安万侶によって編纂された。編算に当たって「帝紀」「旧辞」(参考資料)にされて作られた。『古事記』には天地開闢から推古天皇まで時代までの間を叙述されている。古事記研究には多方面から研究され、中でも本居宣長の研究は古事記究明に貢献され、その後の国学に与えた影響は大きい。よく「記紀」は対比させ、『日本書記』は漢文様式で『古事記』は日本語の音を主体に表記されている。『古事記』と『日本書記』の筋書きの内容も異なり、同時代に編纂され作成された、二史書はどうして後世に伝えたか、伝えなければならなかったか、疑問は残る。古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
  • 平安時代院政・後白河法皇

    平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。 病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。 信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。 しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。

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