『詩集、川村和夫(文芸・小説)』の電子書籍一覧
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詩とは目で読むと同時に、耳で聴くもの————
谷川俊太郎本人による朗読と、英詩としても鑑賞したい英語訳を収録
国民詩人、谷川俊太郎の幾千におよぶ全詩から、詩人自身が精選した199篇を収録。わらべうたや言葉あそびの詩、実存の不安や人生のよろこびをうたう詩、現実にない風景を幻視的なまなざしで描く長篇詩、教科書で読んだ馴染みのある詩、あるいは日本語芸術の極北を見つめる実験的な詩など、〈詩〉を多面体として鮮やかに切り出す、現代詩の巨人のエッセンス。
(1)日本語の原詩、(2)詩人本人による朗読、(3)英詩としても鑑賞したい英語訳で、オリジナルの日本語の詩を奥深くまで鑑賞できます。 -
「幼稚園で教わったアダムとイブ、小学校のころに読んだギリシャ神話や古事記、伯母とともに手を合わせた仏壇、近所の氏神様、これまで私はさまざまな形で宗教的なものに触れてきましたが、そのイメージはいろいろな絵画や彫刻の影響で揺れ動いていました。けれども年を重ねるにつれて、そのイメージは人間の姿から離れ、むしろ目に見えないエネルギーのようなものとして感じられるようになりました。そのエネルギーはしかし、不思議なことに、ときに人間の言葉で私たちにみずからを語るのです。このささやかな詩集も、そのような言葉のひとつである原始仏典『ダンマパダ』から生まれました。トマス・バイロムによる英訳を底本にして、私は自分が共感するところを自由に日本語にしたのです。」
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「男の子に続いて女の子も生まれて、家族と過ごす日常のうちに生きる、個としての自分を、知らず知らずのうちに意識するようになっています。詩集のカバーに母の若い頃の写真と、自分で撮った妻子の写真を使わせてもらいました。」
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「このなかには、少年の視点で書いた詩が十いくつか入っていますが、このごろはどうも子どもとか少年になって書いたほうが書きやすいんですよね。子どもの詩のほうが、大人のなんか意味過剰だったり、全部こう分析しようみたいな、そういう詩の言葉から離れて自由になる気がするんです。なんか子どものことばのほうが、もっとこう、全体がつかめるんです。」詩歌文学館賞
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「主人公がいる物語の断片みたいな書き方を発見して、それが楽しくなりました。長い小説は苦手だけれど、人生の一場面を詩の形で書く面白さにこの頃から気づき始めたと思います。もともとは桑原伸之さんの絵による絵本。」
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「この本が出来たのは連詩の経験があったから。連詩はひと部屋に集まってみんなで酒飲みながらやるんだけれど、対詩の場合には、手紙のやりとりでしようということになったんです。それと、連詩の経験からいうと、詩だけを並べてもわかりにくいんですよね。どこでどうつながっているのか、みたいなことが。だから対詩の場合には、詞書きみたいなものをつけました。二人の詩人が詩を往復してつくる対詩という形、このごろはみんなメールでやってますね。」
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「この詩集では、いろんなことを「定義」しようとしてみましたが、結果的には、言語というものでモノやモノゴトを完全に定義することは不可能なんだと思いました。収録した「私の家への道順の推敲」では、南阿佐ヶ谷から成田東の自分の家へ行く道を定義したんだけど、この詩をたよりに家に来ようとした人は、みんな道に迷っちゃった。」
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「忘れかけていた古いノートをひっぱり出してみた。最初のページに1952年4月/1953年8月という日付がある。その間に書いたソネットを鉛筆で清書したもので、全部で98篇ある。それぞれの詩の肩に薄く丸や半丸や三角の印がついているが、これは私の父がつけたのだ。他に「詩学」とか「歴程」とか「文学界」とか「小説公園」など雑誌の名前も書いてあるが、果たして掲載されたのかどうか記憶がさだかではない。1953年に、『六十二のソネット』という詩集を、その98篇から父の助言を参考に取捨選択して編んだ。その後2009年に、残りの36篇を追加した。」
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「時間の流れ方がどんどん速くなっていくような気がする。年をとったせいばかりではないと思う。時代そのものが加速していて、知らず知らずのうちにそれに乗っている。だが私は時代に流されているとは思っていない。時代を超えた時空に属している宇宙が、自分のからだとこころのうちにあると信じるようになったからだ。」毎日芸術賞受賞
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「冒頭の「さようなら」は、なんでこういう詩が書けたのかわかんない詩です。まったく説明できない。つまり、自分の一番深いところから出てきているから、自分の理性では説明がつかないんです。だけどそうして自分の一番深いところから出てきたものが、詩としてはたぶん一番いい。」
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「1962年のはじめから、週刊朝日〈焦点〉欄に、私は毎号ひとつのスペースを与えられました。編集部の注文は、時事的な主題をもった詩を書けということでしたので、私は与えられたスペースを塀に見立て、私なりの落首を書きつづけた。……これらは諷刺詩ととってもらってもいいし、エピグラム集ととってもらってもかまいません。」
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「これは新聞、雑誌のもとめに応じて書いた作品からえらんで編んだものですが、いわゆる現代詩が現代音楽とすれば、この本に収めた作品はポップスにたとえてもいいようなものも多く、どんなふうに読んでもらえるのか、刊行当時はあまり自信がありませんでした。」
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「ぼくは、薬をもらうほどの鬱は経験していないけど、鬱的な気分っていうのは、相当経験はしているんです。ぼくのなかに若いころからある鬱的な気質が、たぶんこういうものを書かせたんだとは思います。だけど鬱っていうのはね、実生活の鬱というのと同時に、表現というものに対する、なんか鬱的な気分ってのがあるんですよ。詩を書いていくことに対するね。」
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「旅を材料に書いたもの、短い芝居みたいなもの、幻想的なもの、メロドラマ風など、この詩集に収録したのは発想もスタイルも一定していない。共通なのは行数がふだん書いている詩よりも多いということと、筋立てのようなものがあるということくらいか。」鮎川信夫賞受賞
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「音楽は昔から私にとってなくてはならぬものだった。今も私は時に音楽に縋らずには生きていけないと思うことがある。……ここに収めた作のほとんどは、前集『世間知ラズ』と平行して書いていたものである。音楽に憧れながら詩を書いてきた私には、詩に対する疑問と音楽に対する疑問が、そのまま自分という人間に対する疑問に結びついている。その点で本集と前集は兄弟分みたいなものだろうと思う。」
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「この詩集は、巻頭にある詩がキーなんですよ。「えてして/どかんは/われたがる/あたまを/どこかへ おきわすれ//りっぱな りくつに/あくび する」これはアクロスティックという技法で、頭の字をつなげるとエドワード・リアっていうイギリスの詩人の名前になるんですよね。ぼくはそのエドワード・リアの詩を、マザーグースを訳していたころに初めて知って、すごく好きになったんです。彼はほんとにノンセンスな詩を書いている人なのね。そういうリアみたいな詩を書きたいと思って、この詩集に入れた詩を書きはじめました。」現代花椿賞受賞
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「「空」「地」「ひと」「人々」という章を立てて、愛の対象を自然からだんだんと複雑な人間生活の営みに向けて四つに分類してみました。日常のむずかしい人間関係を腑に落ちさせようと、そうした筋道を立てて考えようとしていたようです。」
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「集英社が出してくれた単行本のカバーに用いたパッチ・ワークは、1865年ころ、合衆国マサチューセッツの無名の作者の手になるもの。……本集もまた、日々の暮らしのときどきに、作者の経験したさまざまな感動の色あい、さまざまな夢幻の肌ざわりのあれこれを、パッチ・ワークにならって綴り合わせたものと言えようか。」
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「詩を書き始めてから、いつのまにか数十年たってしまいました。若いころは気楽に考えていた詩というものが、近ごろますます難しく思えてきました。詩を信じるためには、詩を疑うこともまた必要なのではないかと考えています。」
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「クレーは言葉よりもっと奥深くをみつめている。それらは言葉になる以前のイメージ、あるいは言葉によってではなく、イメージによって秩序を与えられた世界である。若いころから私は彼の絵にうながされて詩を書いてきた。ちょうどモーツァルトの音楽にうながされてそうしてきたように。「詩」は言葉のうちにあるよりももっと明瞭に、ある種の音楽、ある種の絵のうちにひそんでいる。そう私たちに感じさせるものはいったい何か、それは解くことの出来ない謎だ。」
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「若い頃から詩を疑いながら詩を書いてきましたが、この頃から詩が現実の生活、現実の人間関係を侵しかねない存在だと感じるようになってきて、それがしばしば詩の主題ともいうべきものになっています。」第1回萩原朔太郎賞受賞
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「……この詩集に収めた作は形も調べもさまざまだ。意図してそうしたわけではない。同じ土壌から匂いも色も違ういろんな花が咲くように、作者にも予想がつかないしかたで詩は生まれる。そこに働く力は作者自身の力量を超えている。「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられるたびに戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。不遜を承知で言えば、一輪の野花のように。」
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「海鳴りのような魂のざわめきの中に一人のあなたがいます。そして私もいます。詩の言葉は私の中から生まれるのではなく、私を通って生れてくるのです。それは私の言葉ではありますが、私だけの言葉ではなく、あなたの言葉でもあるのです。私にとって、インスピレーションを待つとは、見知らぬあなたの、言葉にならぬ魂のきしみに耳をすまそうとすることだと言えるかもしれません。」
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「『子どもたちの遺言』は、はじめ作者である私が子どもたちに向かって遺言を書くという発想だったのですが、私はむしろ死に近づきつつある大人よりも、まだ死からはるかに遠い子どもが大人に向かって遺言するほうが、この時代ではずっと切実ではないかと思って、発想を逆転させました。生まれたばかりの赤ん坊に遺言されるような危うい時代に私たちは生きている、そう感じているのは私だけでしょうか。」
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「三好達治先生に大変な御好意をいただいた。ありがたいと思う気持をどう表せばいいかわからない。1949年冬から1951年春頃までの作品から選んだ。排列はほぼつくった順である。」処女詩集
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「画家の香月泰男さんと1966年秋ニューヨークでお会いし、一緒にハドソン河上流へドライヴした。〈旅〉の連作はその年から翌年にかけての旅行の経験にもとづいています。」
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「同世代の作曲家の友人たちと始めた歌作りが、だんだん広がっていって、家計の助けにもなっていきました。詩を書くことと、歌詞を書くことの違いを意識しながら、詩にできないことが歌にはできるのが励みになっています。原本は詩集というより楽譜集で、長新太さんの魅力的なイラスト付きです。」
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「作者自身には意外と自作が見えていないものだ。自選自輯ばかりが良いとは限らない。たとえば同時期に書いた連作をばらばらにしてしまうなどという芸当は、自分ではなかなかできない。……計らずも三篇の悼詩が本集に含まれることになった。詩が死に親しむことで生へ向かうものであることを、少しずつ私は信じ始めている。」
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「〈長篇小説は一行でだって書ける〉と、高橋源一郎さんが言ったので、正月から私は毎日一篇ずつ一年間長篇小説を書くことにしたが、せっかちなので半年余りで一年分を書いてしまった。ところが原稿用紙が二十字詰なので一行が短かすぎて、長篇小説のつもりが短詩みたいなものになってしまったのは、私の不徳のいたすところである。」
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「これも歌詞を集めたものですが、『日本語のおけいこ』と違って譜面は付いていません。歌として作曲されると、詩が大地から大空へ離陸するような感じがあります。でも私の歌詞でカラオケに入っているものは、残念ながらごく僅かです。」
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「父母の死、恋愛、離婚、自身の老い、日常生活の上での体験が否応なしに私を変えてゆき、詩もそれと無縁ではあり得ないことをあらためて感じる。かつてヴァレリーは詩と散文の違いを舞踊と歩行という比喩で説明したが、踊るにも歩くにも人は手を使い、足を用いる。そして手足を動かすのは人の心である。詩と散文の源にある心身と、心身がからみあう人間関係のほうにようやく私も目が向くようになった。」
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「秩序から混沌へ、かたいものからやわらかいものへ、現実的なものからもっと内的にリアルなものへというふうに、自分がシフトしていく過程で書いた詩集です。それは要するに、男性性から女性性へっということなんだけど、分かってもらえるかな~(笑)」
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「ぼくはこの本に収録した「おばあちゃんとひろこ」に出てくるおばあちゃんが「おっけー」って言うところが気に入っているんですけどね、朗読しててここで笑い声が起こるとうれしい。」
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「「未生」「誕生」「未来」「墓」「後生」など、この詩集のコンセプトは、自分の愛している人との誕生前から死後までを全体としてあつかうということでした。現実には、佐野洋子さんとの生活に相当即した詩で成り立っているので、朗読すると今でも恥ずかしい。」
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「あいうえおの文字をおぼえることは、もちろんたいせつですが、文字より先に、あいうえおの音の豊かさを身につけることも負けずおとらずたいせつだと思うんです。ただ棒よみするんじゃなく、その一行一行の、一音一音の表情を味わってほしい。そのためには、あいうえおを、言ってみればひとつのおもちゃとして、親子で遊んでみるのもおもしろいんじゃないかな。」『かぼちゃごよみ』小学館児童出版文化賞受賞
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「これはぼくを詩に誘ってくれた北川幸比古が興した的場書房っていう出版社から自費出版でつくった本です。「手」をテーマにしていろんな写真を撮って――――残念ながらこの電子書籍には写真は入っていないのですが――――それを手仕事で一枚一枚本に貼りつけてつくりました。本を売るのは結構大変で、ダイレクトメールのはがきを出したりしたのを覚えています。」
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「手元に二冊のうすっぺらなノートブックが残っています。一冊は「傲慢ナル略歴」と題され、もう一冊は「電車での素朴な演説」と題されています。この二冊が私の詩の出発点でした。……その二冊のノートの中から、『二十億光年の孤独』に収めたものを除いた大部分を、この詩集に収録しました。」
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「一本の大根の姿は単純だが、大根という生ある物質の構造は限りなく複雑だ。それを私たちは分析しきれないが、味わうことはできる。語を分子として、食するに足る有機物をどこまでつくれるか。詩とは現実の味わいであると観じて、当店は当店のメニュをおとどけする。
英訳出版の折、本家コカコーラ・カンパニーとタイ・アップしたかったのですが、話は通りませんでした。」 -
「中国へ行く機会があった。呑気な旅のつれづれから、いくつかの予期しない短詩が生まれた。俳句とそれからもしかするとある種の漢詩のもつ、饒舌とは対極にあるものに、知らず知らずのうちに同調していたのだろうか。帰ってからも私は行脚の短い、三行一連の詩を気の向くままに書き続け、いつの間にかそれらをminimalと名づけていた。」
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「大阪のほうの放送局から、声にした詩とジャズのコラボレーションの番組をつくりたいからって注文された作なんかも入っていて、詩の方法がおもしろくなってきたというか、現代詩的なものに目覚めたというか、なんかこのあたりから前衛として見られるようになりました。」
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「ここ数年、気楽に詩が書けるようになっています。気が向くと発表のあてもないのにマックに向かっているのです。〈未発表〉とあるのはそうしてできた作で、締め切りがないから飽きるまで推敲を重ねられるのが楽しかった!」
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「結婚式に招かれても、祝辞の代わりにお祝いの詩を読むことが多い。何か意見を求められても、詩の形で書くほうが言いたいことが言えると思う。どうも私は生まれつき詩人なのではないか、これは自惚れではなく自戒である。詩というものの、不人情につながりかねない「非人情」(『草枕』における漱石の言葉)に、私は苦しめられてもいるからだ。」
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「いわゆる児童詩と言われるものが、結構日本の詩の世界にはジャンルとして大きいんですけれど、読んでいるとやっぱりなんか大人の視線で、下に子どもを見てる。で、なんか教え諭すみたいなものが多いんですよね。そういうのにぼくは疑問があって、子どもと同じ目線で書きたいし、こっちが教え諭すんじゃなくて、何かを気づかせるっていうのかな、あるものを提示するみたいな書き方をしたいってことは、あるときからわりと意識してました。」
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「こういう行数の多いひらがな詩をはじめるきっかけをつくってくれたのは、児童文学作家で当時編集の仕事もしていた今江祥智さんです。彼が編集していた雑誌に、たっぷりページを空けとくから、みたいなことを言われて書いた。……まずとにかく、声に出すということを意識して書いた詩をまとめようっていう一種の決意がありました。」
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「同時に書いた『定義』とちがって、この詩集は口語的な語りだけで書いてみました。たぶん朗読を、「オーラルな伝達」ということをそのころ考えていたのが影響しているんじゃないかな。それから、この詩集はコピーライターの人たちなんかによく読まれているみたい。題名がキャッチーだしね。」
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「『詩の本』といういささか素っ気ない題名を深読みする人もいるかもしれません。〈本〉には、もとになるもの、手本、根本、本当などの意味があるからですが、私としては単純に書物の意味でつけました。人間活動のさまざまな分野にわたる書物が、書店の店頭にもネット上にも溢れていますが、その中でこれはマンガでも小説でも株の買い方でもファションでもグルメでもない、詩と呼ばれるなんの役にも立たない言葉が印刷されている本ですよ、それでも買ってくれるんですかと念を押したい気持ちなのです。」
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「月に1篇ずつ新聞に連載したもの。半世紀前の『落首九十九』と違って「心」という頁に掲載されることになっていたので、心をめぐって自由に書きましたが、「シヴァ」のみ2011年4月に発表を見合わせ、2013年3月11日に掲載されました。」
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